授業での綱渡り
歴史の授業は週に三回、午前中にある。
担当はエドモンド先生。五十代の男性。白髪交じりの顎鬚。声が大きく、授業中に歩き回る癖がある。机の間を行ったり来たりしながら話す。生徒が眠れないように動いているのか、ただの癖なのか分からない。
窓から秋の光が差し込んでいた。
「レグナシオン王国の建国は今から約五百年前。初代国王ヴィルヘルム一世が三十二の貴族家を統合し……さて、ここで問いましょう。ヴィルヘルム一世が最初に同盟を結んだ家はどこか、分かる者は?」
誰も手を上げない。
セレスティアは手を上げなかった。
知っている。答えは「エッケンバウム家」だ。現在の宰相家の前身。初代国王が最初に手を結んだのは軍事力ではなく、情報と金を持っていたエッケンバウム家だった。だからこそ宰相家は今も強い。建国の時から、権力の隣にいた。
だが知っている顔をしてはいけない。
七歳の公爵家の末娘が、宰相家の家系図を正確に知っているのはおかしい。
「誰も知らないか。では教えましょう、エッケンバウム家です。現在の宰相閣下の御家の祖先にあたります」
エドモンド先生が黒板に書いた。
セレスティアは手元の帳面に同じ文字を書き写した。知っているが、書き写す。初めて聞いたように、丁寧に。知らない素振りで。
「では次。ヴィルヘルム一世が統合に最も苦労した家はどこか。これは教科書に載っていない。誰か文献で読んだことがある者は?」
これも知っている。
セレスティアは帳面の端を折った。答えは「アルデンホルム侯爵家」。最後まで独立を保った家で、三度の和解交渉が全て決裂した。最終的に国王が単身で出向き、七日間話し合いを続けた末に統合が成った。現在は絶えた家だ。その後継ぎが宰相派に潰されたという記録が、フェリクスの書斎にある本に書いてあった。
誰も手を上げない。
「こちらも難しかったですね。アルデンホルム家です。今は絶えた家ですが、当時は……」
「三どのこうしょうがけっかつした」
声が出ていた。
気づいた時には遅かった。
エドモンド先生が振り返った。教室が静かになった。三十人の視線が、一斉にこちらを向いた。
「ほう。アルヴェイン嬢、続けてごらんなさい」
取り返しがつかない。
セレスティアは一秒だけ考えた。
「あ、えっと……なんかほんでよんだきがして。まちがってたら、ごめんなさい」
「三度の交渉、は正しい。どの本で読んだか分かりますか?」
「おにいさまの、へやの、ほんだとおもいます。タイトルは、おぼえていなくて」
「フェリクス・フォン・アルヴェイン殿の蔵書ですか。なるほど」
エドモンド先生が少し考える顔をした。疑っているのか。感心しているのか。
どちらでもある、という顔だった。
「ヴィルヘルム一世が七日間の話し合いを行ったことも、その本に?」
「……あったきがします」
「よく読んでいる。感心しました。続けなさい。七日間の話し合いの後、どうなったか」
やめてほしい。
「それは、おぼえていません」
「そうか。残念です。では教科書の記述に戻りましょう。ヴィルヘルム一世はアルデンホルム家との交渉を……」
先生が黒板に向かった。
セレスティアは静かに息を吐いた。
後ろの席で、ルシアンが何かを書いている音がした。
◇
昼休み。
セレスティアは中庭の隅で一人でいた。
失敗した。完全な失敗ではないが、目立った。エドモンド先生に顔を覚えられた。「よく読んでいる七歳」として。それは必要以上に目立つことだ。
今後は、知っていても黙る。答えを求められた時だけ、半分だけ答える。
それが正しい作法だと、頭では分かっている。
だが反射だった。誰も答えない沈黙に、知っている答えが浮かんでいた。声が出た。
後ろの席のルシアンが、何かを書いていた。授業が終わった後、その帳面を閉じる音がした。何を書いたのか、見えなかった。
エドモンド先生はその後、セレスティアに何も言わなかった。だが次の授業では、こちらに視線が向く回数が増えた。期待か、観察か。どちらにせよ、目立つことには変わりない。
「アルヴェイン」
声がした。
振り返った。
ルシアンが立っていた。上級生の服。灰緑色の目。手に昼食の林檎を持っている。
「聞こえてた。授業の話」
二年生が一年生の授業を聞いている。廊下を通りがかったのか。窓が開いていた。
「どこで覚えた」
「にいさまの本だって、いいました」
「そうか」
ルシアンは信じていない顔で言った。だが深く追及しなかった。林檎を一口かじった。
「賢いのを隠したいなら、もう少し上手くやれ」
「……はい」
「黙るだけじゃなくて、一拍置く練習をしろ。答えを知っている時ほど、考える素振りを長くする」
「……勉強になります」
「まあ、七歳ならあれくらいの失敗はする」
ルシアンが踵を返した。
林檎をかじりながら、廊下に戻っていった。
言葉はそれだけだった。だが、十分だった。
背中を見ながら、セレスティアは考えた。
ルシアンは今、どんな立場にいるのか。上級生として先輩ぶっているのか。それとも、本当に「うまくやれ」と思ったのか。
授業の窓の外に立っていた。つまり、授業中の一年生の発言を聞いていた。偶然か、それとも意図してそこにいたのか。
分からない。今は。
今日の言葉は、少なくとも警告ではなかった。
◇
昼食の時間、フリーデリケが走ってきた。
「さっき授業で答えてたの見てたよ! エッケンバウム家の話でしょ。わたし、全然知らなかった」
「おにいさまの本よんだことあったから」
「すごいね。でもエドモンド先生、少し驚いてたよ」
「うん。目立ちすぎた」
「そうかなあ。いいじゃない、答えを知ってるのに」
フリーデリケは何も裏を考えていない。純粋に感心している。それがフリーデリケの良いところで、今日は少し眩しかった。
「コンラートは?」
「あの人、全然分かんないって言って、剣を振ってる。歴史より剣の方が好きなんだって」
「そうだろうね」
笑ってしまった。昼の中庭で、二人で少し笑った。
授業の失敗が、少しだけ軽くなった。
◇
夕方、ナターシャが部屋に来た。
「今日、歴史の授業で少し目立ってしまいました」
「存じております。エドモンド先生の授業ですね」
ナターシャはもう知っていた。侍女の情報網は速い。
「エドモンド先生は、この学園に二十年いる先生です。生徒の記憶力を正確に把握する方だと、以前の卒業生から聞いています。次の授業では、少し意識されるかもしれません」
「分かっています。今後は気をつけます」
「お嬢様が少し答えたくらいで、不審には思われません。七歳の子供が兄の本を読んでいる、それだけのことです」
ナターシャの言い方は穏やかだった。責めていない。ただ、事実として整理している。
「……ありがとう、ナターシャ」
「このくらいの失敗は、最初のうちに済ませた方がいいと、マルガレーテも言っていました」
「マルガレーテが?」
「手紙で。お嬢様が心配だから、よろしくお伝えしてと」
セレスティアは少しだけ笑った。
◇
夜、日記に書いた。
反射に注意。答えを求められたら、一拍置く。
それから一行追加した。
ルシアンが「七歳ならあれくらいの失敗はする」と言った。
「一拍置く練習をしろ」とも言った。
あれは親切か。牽制か。
今は分からない。
分からないことは、分からないままにしておく。今は。
でも、助言は実行する。




