ヴィオレッタの夜
目が覚めたのは、深夜だった。
月が中天にある。消灯から何時間か経っている。窓から入る光の角度で分かる。深夜の二時か三時頃だろう。
セレスティアは薄目を開けた。
隣のベッドが空だった。
すぐには起き上がらなかった。目を細めて、部屋の状況を確認した。物音はない。ランプは消えている。窓は閉まっている。風の音だけがある。
◇
ヴィオレッタがいない。
ナイトガウンが掛け木にある。ではどんな格好で出たのか。普通の夜着のままか。この季節の夜の廊下は冷える。
毛布が乱れている。急いで出た跡ではない。静かに、丁寧に、気づかれないように抜け出した跡だ。時間をかけて起き上がったのだろう。
扉は閉まっている。廊下への扉。だがセレスティアが目覚めた時には既にいなかったから、ドアの音では起きていない。それほど静かに出た。
何時頃に出たか。分からない。
どこへ。分からない。
◇
寮の消灯は九時。廊下への外出は禁止。見つかれば規則違反。学院の寮規則は厳しい。特に夜間外出は指導の対象だ。
ヴィオレッタはそれを知っている。
知った上で出た。
一度ではないかもしれない。何週間か前から繰り返していて、たまたま今夜、セレスティアが気づいた可能性もある。
ヴィオレッタは慎重な人間だ。衝動で動く人間ではない。計算して行動する。それがセレスティアの観察から出た結論だ。
ならば、理由がある。行かなければならない理由が。
◇
セレスティアは起き上がらなかった。
追わない。
追えば気づかれる。ヴィオレッタが何をしているかを知ることより、ヴィオレッタが自分から話す日を待つ方が、ずっと価値がある。秘密というのは、奪うより、差し出される方が重い。
天井を見た。月明かりが斜めに差し込んでいる。
考えた。
ヴィオレッタが消灯後に行く場所。寮の中か、寮の外か。もし外に出ているなら、見張りをどうくぐり抜けているのか。もし寮の中なら、誰かと会っているのか。一人でいるのか。
誰かと会っているとすれば誰か。
まだ分からない。追わなかったから。
一時間。待った。
待ちながら、考えた。
ヴィオレッタの父のことを整理した。モンテヴェルデ侯爵。宰相の支持者。三年前に妻を亡くした。娘に外交史を読ませる人間。
深夜に何の目的がある。宰相の命令なら、何のために学園の中を。情報か。誰かと会っているのか。
あるいは、宰相とは関係ない理由があるのかもしれない。三年前に亡くなった母のことを、誰にも見られずに考える場所を探しているのかもしれない。
どちらも、今夜は分からない。だから待った。
月が少しずつ動く。石の壁が音もなく夜気を溜めている。廊下の向こうで、時おり建物が軋む音がした。古い石造りの寮は、夜になると独自の声を出す。
眠くなってきた。だが眠らなかった。ヴィオレッタが帰ってくる前に眠るのは、何か違うと思った。待つことが、できる唯一のことだったから。
◇
扉が、ほとんど音を立てずに開いた。
熟練した手つきだ。蝶番のどこを持てば音が最小になるかを知っているような開け方だった。
足音がしなかった。靴下のまま歩いている。床に足を置く時に踵から着かずに、足の裏全体で静かに着く歩き方だ。
毛布が静かに動く音。ヴィオレッタがベッドに戻る気配。
冷たい空気が一緒に入ってきた。廊下は寒かったのだろう。ヴィオレッタの夜着の袖から、夜の冷気が漂ってくる。
長い沈黙。
ヴィオレッタが毛布を整える音。それから、静止。
「……眠れてないでしょ」
ヴィオレッタの声が、暗闘の中でした。
静かな声だった。怒っている声でも、困っている声でもなかった。ただ、確認するような声だった。長い沈黙の後、確信を持って問いかけるような声。気づいていたのだろう。セレスティアが起きていることに。
セレスティアは少し間を置いてから答えた。
「うん。ごめんね、きがついてた」
「謝らないで」
「どこいってたの?」
「……聞かないで」
「うん」
また沈黙。月明かりだけが部屋にある。
「怒らないの」
「おこらない」
「規則違反よ」
「しってる」
「……変な子」
「よくいわれる」
ヴィオレッタが寝返りを打った気配がした。壁の方を向いた。背中を向けた。
追及しない、という宣言だと解釈した。それで良かった。追及されると思っていたのに、されなかった。その戸惑いが背中にある。それもまた、一つの反応だ。
しばらくして、「さむかった」とだけ言った。
「おふとん、ちゃんとかけて」
「言われなくても分かる」
「うん」
それきり、二人とも黙った。
◇
月が少し西に傾いた頃、ヴィオレッタの呼吸が深くなった。眠っている。
よかった、とセレスティアは思った。帰ってきた。冷えた身体を温めて眠れている。
自分も目を閉じた。
一つだけ確認できたことがある。
ヴィオレッタに、行かなければならない場所がある。規則を破ってでも、夜中に出ていくほどの場所が。そしてそれは、彼女が自発的に選んでいることだ。誰かに強制されているのか、それとも自分の意志なのかはまだ分からない。
だが「さむかった」と言った声は、後悔していない声だった。スパイの義務として行ったのなら、「さむかった」という言葉は出ない。義務として行った場所を、温度で語る人間はいない。
つまり、ヴィオレッタにとって、あの場所は義務ではない。
◇
翌朝。
起床の鐘が鳴った。
ヴィオレッタが先に起きていた。いつも通り、背筋を伸ばして鏡の前で髪を整えている。顔色に血の気がない。目の下が少し疲れた色をしている。だが手の動きは乱れていない。丁寧に、きちんと、いつも通りに。
「おはよう、ヴィオレッタさま」
「……おはよう」
返事が来た。
いつもは無視か、溜息だった。「おはよう」が返ってきたのは、今日が初めてかもしれなかった。初めてかどうかは確かめていない。でも、初めてのような気がした。
それ以上は何も言わなかった。
二人は並んで食堂に向かった。夜のことは、どちらも口にしなかった。
セレスティアはそれでいいと思った。
いつか話すかもしれない。話さないかもしれない。どちらでも構わない。「どこへ行ったのか」を知ることより、「おはよう」が返ってきたことの方が、今朝は大事だった。
ただ、「おはよう」が返ってくる距離には、もうなった。
◇
食堂では、フリーデリケが手を振った。
「セレスティアちゃん、今日は顔色悪いよ? 大丈夫?」
「よく眠れなかっただけ」
「わたしも。昨日の授業が難しかったから……」
のんびりとした朝だった。フリーデリケのゆるやかな声が、深夜の緊張の後にはちょうど良かった。
ヴィオレッタはいつも通りの席に座り、いつも通りの朝食をとった。目の下の疲れを、表情には出していない。
だが右手でカップを持つ指が、いつもより少しだけ白かった。夜の冷えがまだ残っている。昨夜、どこまで歩いたのか。どれだけの時間を過ごしたのか。
セレスティアは何も言わなかった。
アレクシスが「おはよう」と言い、コンラートが昨日の授業の話を始めた。朝食はいつも通りに進んだ。
ヴィオレッタは席を立つ時、セレスティアの隣を通った。
何も言わなかった。
ただ、少しだけ歩く速度を落とした。
それだけだった。
だがセレスティアは、その速度の変化を、ずっと覚えているだろうと思った。




