イザベラの隣
学園の図書室は、三階にあった。
王都の書店よりも蔵書が少ない。だが整理が行き届いていて、静かだった。午後の自習時間、生徒は自由に使える。
◇
午後の自習時間は、一時間あった。
ナターシャは使用人区画から出られない。授業も終わった。次の授業は明日の朝だ。
初等部の廊下に出ると、数人の生徒が歩いていた。中庭に行く者。部屋に戻る者。
セレスティアには、やることがあった。
情報の整理は昨日済んだ。ナターシャが集めた使用人情報を今月分まとめた。手紙の返信も今朝書いた。フリーデリケの便箋には、来週の返事が必要だ。それは明日でいい。
今日は、読書にする。
フェリクスのリストの本が半分残っている。だが今日は自分の判断で選びたかった。
廊下を歩きながら窓の外を確認した。中庭にルシアンの姿はない。上級生の授業棟は別の翼だ。
念のため確認するのが癖になっていた。魔力測定の日以来、ルシアンの視線を感じる時がある。廊下の曲がり角。食堂の出口。いつも少し遠い場所から、こちらを見ている。
今日は見えない。それだけで十分だ。
図書室の扉を押した。
◇
セレスティアは歴史書の棚の前に立っていた。
前世で読んだことがある本が並んでいる。背表紙を指でなぞる。知っている。知っている。これも知っている。
一冊抜いた。レグナシオン王国の建国史。前世では何度も読んだ。今世では確認のために読む。記憶とどこが違うか。版が違えば内容も少し違う。前世の知識に頼りきるのは危ない。
窓際の席に座った。
開いた。
「ここ、よくて?」
声がした。
顔を上げた。
イザベラ・ド・ガルニエが立っていた。
◇
図書室に、空席はたくさんある。
なぜここに来るのか。
「どうぞ」
セレスティアは本から目を上げないまま答えた。
イザベラが隣の椅子を引いた。静かな動作。椅子の脚が床を引っ掻く音一つ立てない。音を立てない訓練をされた人間の動き。宰相の娘として、礼儀と作法を徹底して叩き込まれてきたのだろう。
二人とも本を開いた。
しばらく、本当にしばらく、何も言わなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。ページをめくる音だけが静かに続く。
先に口を開いたのはイザベラだった。
「覚えてる?」
「なにを」
「二年前の王宮。図書室」
覚えている。
王宮教育プログラムの時。図書室でイザベラに会った。その時も、こんな風に向かいに座っていた。目が合った瞬間、その瞳が何かを計算していると分かった。子供の目ではなかった。大人の仕事をする子供の目だった。
「おぼえています」
「そう」
また沈黙。
イザベラが本のページをめくった。だが視線が本を読んでいないことは分かった。目がページの上に落ちているが、動いていない。
「あなたを見てた」
「きょう?」
「入学式の日から。ずっと」
それは知っていた。
時々、視線を感じた。廊下の端から。食堂の斜め向かいから。図書室の棚の影から。観察している視線は、怒りや好奇心とは違う。仕事をしている視線だ。
「なぜですか」
「理由を聞く?」
「聞いてもいいなら」
イザベラが本を閉じた。ページを押さえる細い指。宰相の娘。九歳。紫の目が、真正面からセレスティアを見た。
「あなたが何者か、知りたいから」
「七さいの公爵家の末娘、ですよ」
「そうね。そうなんでしょうね」
信じていない。だが追及しない。それがイザベラの会話の作法らしかった。
問い詰めてもこちらが答えないと分かっているから、問い詰めない。情報は正面からではなく、横から集める。そういう方法を、この子はもう知っている。九歳で。
◇
「イザベラさまは、なんのほんを」
セレスティアが聞いた。
イザベラが本の表紙を見せた。外交史。王国の同盟と条約の変遷。厚い本だった。大人でも読み切るのに時間がかかる。
「九さいで外交史」
「お父様に勧められた」
父親。宰相。
「おとうさまの勧める本を読むの?」
イザベラの目が、一瞬だけ動いた。何かを考えた跡がある。
「読まないと怒るから」
「イザベラさま」
「何」
「その本、おもしろい?」
イザベラが少し考えた。
「……外交というのは、約束を守るふりをしながら破る技術なのよ、らしい」
「らしい?」
「お父様が言っていた」
「イザベラさまは、そうおもう?」
また少し考えた。今度は長かった。
「分からない。でも、そう思わないといけない気がしてる」
思わないといけない気がしてる。
思っているのではなく。
「外交が約束を守るふりをするものなら、約束を本当に守ろうとしたらどうなると思う?」
イザベラが顔を上げた。
「……弱く見られる」
「そうかな」
「そうでしょ。お父様がそう言ってた」
「でも本当に守り続けたら、信頼される。信頼は積み上げに時間がかかるけど、崩れにくい」
イザベラが黙った。反論するかと思ったが、しなかった。考えている。
「……続きを話して」
「えっ」
「その話。続きを」
珍しかった。イザベラから「続きを」と言われるとは思っていなかった。
「でも、信頼される前に利用されたら?」
イザベラが聞いた。
「利用される可能性は、最初から考えておく。相手が守るかどうかを、少しずつ試す。一度で全部渡さない」
「じゃあ信頼じゃなくて、確認をしているだけじゃない」
「確認を重ねたものを、信頼って呼ぶんだと思う」
イザベラが少し黙った。
「……お父様はそうは言わない」
「うん。わたしもよく分からない。まだ七さいだし」
イザベラの目に、かすかな何かが宿った。諦めではなく、考えている目だった。
◇
自習時間が終わる鐘が鳴った。
二人とも立ち上がった。本を棚に戻す。
話していた時間が、思ったより長かった。外交の話が、信頼の話になって、それが人間関係の話になった。二人とも本を読んでいなかった。
扉に向かいながら、イザベラが言った。
「あなた、面白い子ね」
「よく、いわれます」
「誰に」
「みんなに」
「そう」
イザベラが先に廊下に出た。振り返らなかった。足音が静かに遠ざかる。
セレスティアは図書室の入り口で少し立ち止まった。
セレスティアは廊下に出た。
イザベラの背中が、角の向こうに消えた。
◇
廊下を歩きながら、今の会話を繰り返した。
イザベラは聞き役だと思っていた。情報を集め、報告するだけの子だと。だが今日は「続きを話して」と言った。命じられたからではなく、自分が聞きたかったから。
踊り場の窓まで来た。夕日が石造りの建物を橙色に染めている。
ナターシャが心配するので、足を速めた。
次に図書室に来る時、イザベラはどこに座るだろう。また隣に来るか。それとも今日だけか。
どちらでもいい。来た時に、また話せばいい。
◇
夕食の後、ヴィオレッタが本を読んでいた。
「図書室に行っていたの?」
「うん」
「誰かと話していた?」
隠すほどのことではない。
「イザベラさまと。本の話を少し」
ヴィオレッタの指が、本のページの上で止まった。
「……イザベラと」
「うん。おもしろいひとね。外交の話をした」
ヴィオレッタは何も言わなかった。ページをめくらなかった。しばらくして、「外交史は難しいわ」と言った後で、「おやすみ」と言って本を閉じた。
「おやすみなさい、ヴィオレッタさま」
消灯の鐘が鳴った。二人とも、それ以上は話さなかった。




