寮生活の始まり
女子寮の廊下は、白い漆喰の壁と磨かれた木の床でできていた。窓から午後の陽光が差し込み、廊下の片側に並ぶ扉に金色の部屋番号が光っている。
セレスティアの部屋は三階の角部屋だった。
「こちらです、お嬢様」
ナターシャが荷物を抱えて先導する。ナターシャは侍女として寮内に居住するが、部屋は別だ。侍女用の小部屋が階下にある。
扉を開けた。
二人部屋。左右にベッドが一つずつ。小さな机。衣装棚。窓際に椅子。簡素だが清潔な部屋。
右側のベッドには、既に荷物が置かれていた。
開いたトランクから、高級な布地が覗いている。刺繍の入ったナイトガウン。革表紙の本。銀の髪飾り。トランクの蓋の内側に、小さな家紋盾が貼られていた。モンテヴェルデ家の紋章。自室の標識。
そして、窓辺に一人の少女が立っていた。
ヴィオレッタ・モンテヴェルデ。
八歳。栗色の巻き毛。紫の瞳。背筋が伸びた姿勢。美しい少女だが、唇が引き結ばれている。不満の顔。
セレスティアが入ってきたのを見て、ヴィオレッタは溜息をついた。隠す気もない溜息。
「……なんであなたと同室なのよ」
開口一番がそれだった。
セレスティアは荷物を左側のベッドに置いた。落ち着いて。自然に。
「ヴィオレッタさま、よろしくおねがいします」
「よろしくなんて言わないで。私は別の人と同室がよかったの。学園に掛け合ったけど、部屋割りは変えられないって」
正直だ。嫌だということを隠さない。
「ヴィオレッタさまは、だれと同室がよかったの?」
「イザベラよ。当然でしょ。侯爵家と宰相家。釣り合いが取れるわ」
イザベラと同室になりたかった。
だがイザベラの方はどうか。宰相の娘は、誰と同室なのか。
「イザベラさまは?」
「イザベラはフリーデリケ・フォン・エッシェンバッハと同室だって。信じられない。あんな天真爛漫な子と宰相の娘。絶対に合わないわ」
イザベラとフリーデリケが同室。面白い組み合わせだ。そして、セレスティアとヴィオレッタが同室。
偶然か。それとも誰かの意図か。
ナターシャが手際よく荷物を整理し始めた。衣類を衣装棚に。文具を机の引き出しに。私的な書類や暗号帳は一切持ち込まない。全てナターシャの部屋に保管してある。
ヴィオレッタはセレスティアの荷物を横目で観察していた。何を持ち込んだか、どんな品質のものを使っているか。侯爵令嬢の習性だ。
「ずいぶん質素な荷物ね。公爵家にしては」
「母が、がくえんではしつそにしなさいって」
「もっとも、同室者が何を持ち込んで、誰に手紙を出すか。私は全部見ることになるわね」
嫌味ではなかった。事実として言っている。それが却って寒かった。
「公爵夫人がお元気になられたのは聞いているわ。良かったわね」
素直な言葉。嫌味ではない。
「ヴィオレッタさまのおかあさまは、おげんき?」
ヴィオレッタの表情が一瞬強張った。
「……母は三年前に亡くなったわ」
セレスティアの胸が痛んだ。知らなかった。
「ごめんなさい。しらなかった」
「謝らないで。知らないのは当然よ。大した話でもないもの」
セレスティアは何も言わなかった。今ここで同情を示せば、ヴィオレッタは壁を高くする。プライドの高い子だ。憐れみは受け入れない。
代わりに、ベッドの上にぬいぐるみを置いた。ヴォルフがくれた兎の木彫り。
ヴィオレッタが目を止めた。
「それ、何?」
「うちのきしがつくってくれたの。うさぎ。なまえはまだない」
「騎士がぬいぐるみを? 変なの」
「へんだよね。でも、かわいいでしょ」
ヴィオレッタの口元が、ほんの僅かに緩んだ。一瞬だけ。すぐに引き締めたが、セレスティアは見逃さなかった。
この子は、子供らしいものに飢えている。
◇
夕食は大食堂で取った。
長テーブルが学年ごとに並び、初等部の一年生は最も入口に近いテーブル。上級生になるほど奥のテーブルに座る。
セレスティアの隣にフリーデリケが座り、向かいにアレクシスとコンラートがいた。ヴィオレッタは少し離れた席で、他の侯爵家の令嬢と話している。
食堂の奥、上級生のテーブルにルシアンがいた。腕を組んで、食事にあまり手をつけていない。視線が一瞬だけ、こちらのテーブルに向いた。
目が合った。
ルシアンはすぐに前を向いた。それだけだった。だが首筋が、一瞬だけ冷えた。
「セレスティアちゃん、寮のお部屋どう?」
「ヴィオレッタさまと同室だよ」
「えっ。ヴィオレッタさま、ちょっと怖いよね……大丈夫?」
「だいじょうぶ。ヴィオレッタさま、ほんとうはやさしいとおもう」
フリーデリケは首を傾げた。だが深くは聞かなかった。フリーデリケの美点は、踏み込みすぎないことだ。
食事の後、寮に戻った。
部屋に入ると、ヴィオレッタは既にベッドにいた。ナイトガウンに着替え、本を読んでいる。
セレスティアも着替え、自分のベッドに入った。
消灯の鐘が鳴った。蝋燭を消す。月明かりだけが窓から差し込んでいる。
暗闇の中で、二人の少女が天井を見つめている。
沈黙。
長い沈黙の後、ヴィオレッタが小さな声で言った。
「……ねえ」
「なに?」
「あなた、私のこと嫌い?」
意外な質問。
「きらいじゃないよ」
「嘘。公爵家と侯爵家は対立してるのよ。あなたのお父様と私のお父様は仲が悪いって、知ってるでしょ」
「おとうさまたちのことは、おとうさまたちのことだよ。わたしとヴィオレッタさまは、わたしたちでしょ」
沈黙。
「……変な子」
「うん。よくいわれる」
ヴィオレッタが寝返りを打った。セレスティアに背を向ける。
だがその背中は、来た時よりも少しだけ柔らかかった。
セレスティアは目を閉じた。
敵の隣に眠る夜。
月明かりが二つのベッドを等しく照らしていた。公爵の娘と侯爵の娘を、同じ光で。
明日から学園生活が本格的に始まる。
隣のベッドから、微かな寝息が聞こえていた。
セレスティアはいつの間にか、眠っていた。
◇
翌朝。
目を覚ますと、ヴィオレッタは既に起きていた。鏡の前で髪を整えている。
「起床の鐘は七時よ。あなた、寝坊したら恥ずかしいわよ」
「ありがとう。おこしてくれたの?」
「違う。私が先に起きただけ。結果的にうるさかっただけ」
音を立てていたとは思わなかった。それがヴィオレッタなりの言い訳だということは、七歳でも分かった。
制服を着た。ナターシャがいれば手伝ってくれるが、部屋にナターシャは入れない。一人で着替え、リボンを結ぶ。
「リボン、曲がってる」
ヴィオレッタが振り向いた。指を伸ばして、セレスティアのリボンを直した。素早く、無言で。終わると、何事もなかったように鏡に向き直った。
「……ありがとう、ヴィオレッタさま」
「別に。見ていられなかっただけ」
廊下に出た。二人並んで歩く。
「朝食、どこに座る?」
ヴィオレッタが聞いた。一緒に座るかどうかではなく、どちらに向かうかの確認だ。
「きめてない。ヴィオレッタさまは?」
「決めていない」
沈黙。
「……じゃあ、どこでもいいわね」
二人は食堂へ向かった。並んで。同じ歩幅で。
それが寮生活の、二日目だった。
食堂に入ると、フリーデリケが手を振った。アレクシスがいた。コンラートが何かを食べながら手を上げた。
ヴィオレッタは視線を向けない。だが歩く速度が、わずかに落ちた。
「ヴィオレッタさまも、いっしょにすわる?」
「……席が空いているなら」
空いていた。




