王立クレセンティア学園
七歳になった朝、セレスティアは鏡の前に立っていた。
銀髪が肩を超えた。碧い目は二年前より深くなっている。頬の丸みは残っているが、少しずつ輪郭が整ってきた。子供と少女の境目。七歳のセレスティア・フォン・アルヴェインが、鏡の中からこちらを見ている。
白い制服。紺のリボン。金の校章。
王立クレセンティア学園初等部の入学式の日だった。
「お嬢様、お支度はよろしいですか」
マルガレーテの声。いつもの穏やかな声。だが今日はその奥に、微かな寂しさが混じっている。
「うん。だいじょうぶ」
「初めてお一人で……いえ、ナターシャが付いていますから一人ではありませんが……」
「マルガレーテ、だいじょうぶだよ。わたし、もうおおきいんだから」
マルガレーテの目が潤んだ。侍女長は涙を見せまいと顔を背けたが、間に合わなかった。
七歳。寮制の学園に入る。初めて家族から離れて暮らす。
前世でもそうだった。七歳で学園に入り、一人で過ごした。
今世は違う。
父が馬車の前に立っていた。
公爵ライナルト。銀髪に碧眼。左頬の古傷。厳めしい顔。だが今日はその厳めしさの中に、普段はない表情が混じっていた。
不安。父が不安を感じている。
「セレスティア」
「はい、おとうさま」
「学園では目立ちすぎるな。だが隠れすぎるな。自然に。お前の最も得意なことだ」
政治的な助言。だが最後に、父はセレスティアの頭に手を置いた。
「身体に気をつけろ」
それは父親の言葉だった。
母は馬車の傍にいた。リリアーナ。金髪紫眼。二年前より更に元気になっている。毒が完全に抜け、健康を取り戻した母は、三十代後半とは思えないほど若々しい。
「セレスティア、忘れ物はない? ハンカチは持った? 替えの靴下は?」
「もったよ。ぜんぶ」
「手紙、ちゃんと書いてね。お母様、待っているから」
「うん。まいしゅう、かくね」
リリアーナがセレスティアを抱きしめた。母の匂い。花の香水。温かい腕。
「いってきます、おかあさま」
「いってらっしゃい」
母が泣いていた。笑いながら泣いていた。
エドヴァルトが馬の上から声をかけた。「セレス、何かあったら鷹便を飛ばせ。半日で駆けつける」
フェリクスが馬車の中から本を差し出した。「暇な時に読め。新しい呼吸法の理論書だ」
兄たちの送り出し。それぞれのやり方で。
馬車が走り出した。ヴォルフが御者台の隣に座り、カタリナが後続の馬で追従する。護衛は学園の門まで。寮に入ればヴォルフたちは公爵家の王都別邸に詰める。
ナターシャが馬車の中でセレスティアの隣に座っていた。十六歳になった侍女。二年前より落ち着いて、だが芯は変わっていない。
「お嬢様。準備は万全です。寮の下調べも済んでいます」
「ありがとう、ナターシャ」
「同室の方のことも調べました。ヴィオレッタ・モンテヴェルデ様です」
セレスティアの心臓が跳ねた。
ヴィオレッタと同室。偶然か。意図的な配置か。
だが同時にリスクもある。同室者は最も身近な監視者になりえる。
「ナターシャ。寮の部屋に、わたしの私物の中で見られてまずいものは入れないで。全部ナターシャの部屋に保管して」
「承知しました。暗号帳も、ヨハン先生との書簡も、全て私が管理します」
頼もしい。ナターシャは二年間で「侍女」から「諜報員」に成長した。
ただし、ここから先は勝手が違う。
学園の侍女規則は厳しい。使用人は寮の指定区画から外に出ることができない。令嬢と共に廊下を歩くことも、他の令嬢の部屋に立ち入ることも、禁じられている。
ナターシャの目は、学園の外までは届く。公爵領から、王都から、情報は来る。
だが学園の中は、セレスティア自身の目でしか見えない。
◇
王立クレセンティア学園。
王都の東、緩やかな丘の上に建つ白亜の学舎。創立三百年。貴族子女の教育機関として王国随一の歴史と格式を誇る。
馬車が丘の上に着いた時、セレスティアは窓から学園を見上げた。
前世の記憶と重なる。だが前世よりも、建物が白く見えた。天気のせいか。それとも、今世の目が前世より明るいからか。
正門の前に馬車が列をなしている。各地の貴族が子女を送り届けている。紋章の入った馬車。護衛の騎士。着飾った令嬢たち。
セレスティアは馬車を降りた。
すぐに視線が集まった。銀髪碧眼。公爵家の令嬢。二年前の王宮教育プログラムで名を馳せた少女。
「アルヴェインの……」「公爵家の末嬢よ」「聡明だって噂の……」「公爵夫人は王女の血筋だそうよ」「王妃殿下とご縁があるって……」
囁き。好奇の目。値踏みの目。
セレスティアは表情を変えなかった。王家の血。母から引き継いだ血筋。この学園の中では、それは名誉にも的にもなりうる。
セレスティアは微笑んだ。令嬢としての完璧な微笑み。マルガレーテに叩き込まれた礼法の成果。
正門をくぐると、中庭に出た。噴水がある。花壇がある。前世と同じ配置。
そして――顔見知りが並んでいた。
最初に目に入ったのは、金色の髪。
アレクシス。二年ぶりの再会。
七歳の王太子は、五歳の時より背が伸びていた。顔立ちが少し引き締まり、目元に聡明さが増している。だが笑顔は変わっていなかった。セレスティアを見つけた瞬間、表情が明るくなった。
「セレスティア」
「殿下。ご無沙汰しております」
「手紙、全部読んだよ。ラベンダーの押し花、ありがとう」
手紙の中に忍ばせた押し花を覚えている。セレスティアの胸が温かくなった。
その隣に、コンラート。九歳。二年前より一回り大きくなった。
「おう、セレスティア! 見ろ、俺もう木剣じゃなくて鉄の剣を振ってるぞ!」
「すごいね、コンラートさま。つよくなった?」
「当然だ! 父上にも勝ったんだぞ!」
嘘だろう。辺境伯ギュンターに七歳で勝てるはずがない。だがコンラートの自信に満ちた顔を見て、セレスティアは笑った。
フリーデリケが走ってきた。「セレスティアちゃーん!」
七歳の少女が七歳の少女に抱きついた。
「フリーデリケちゃん、おおきくなったね」
「セレスティアちゃんも! 一緒の学園、嬉しい!」
視線を巡らせると、他の顔も見えた。
イザベラ・ド・ガルニエ。九歳。宰相の娘。紫の瞳は二年前と変わらず冷たい。だがセレスティアと目が合った時、ほんの一瞬、瞳が揺れた。あの図書室の記憶が、まだ残っているのだろうか。
ヴィオレッタ・モンテヴェルデ。八歳。相変わらず気位が高い。顎を上げ、周囲を睥睨する姿。だがセレスティアを見た時、その視線が一瞬だけ止まった。品定め。何かを量るような目。同室になることは、既に知っているのだろう。
そして――ルシアン。
第二王子。九歳。上級生として既に学園にいる。中庭の隅から、腕を組んでこちらを見ていた。灰緑色の目。二年前より鋭くなっている。
目が合った。
ルシアンは視線を逸らさなかった。セレスティアも逸らさなかった。一瞬。二瞬。
それからルシアンは、ゆっくりと口元だけで微笑んだ。
温かくない微笑みだった。
入学式の鐘が鳴った。
子供たちが講堂に向かって歩き出す。セレスティアもその流れに加わった。
七歳。王立クレセンティア学園。
講堂の扉をくぐる時、セレスティアは一度だけ振り返った。
正門の向こうに、ヴォルフの姿が見えた。門の外で、まっすぐに立っている。寮には入れない。だがあの騎士は、門の向こうからでもセレスティアを守ろうとしている。
小さく手を振った。
ヴォルフは微動だにしなかった。だがその目が、僅かに頷いた。
セレスティアは前を向いた。
学園生活が始まる。




