最後の夏
六歳最後の夏が、終わろうとしていた。ほどなく七歳の誕生日を迎え、秋になれば王立クレセンティア学園初等部へ入学する。寮制の学園だから、家族と離れて暮らすことになる。
前世でもそうだった。七歳で学園に入り、一人で過ごした。
だが前世の七歳の秋には、母を失う日が待っていた。今世の母は、庭で花を摘んでいる。
◇
朝。リリアーナがセレスティアの部屋に来た。
「セレスティア、今日は一緒に庭を歩きましょう」
母の顔色は良かった。毒が完全に抜けて三年。頬には血色があり、金髪は艶やかで、紫の瞳が朝日に透けている。
四十代の初め。だが長く毒に蝕まれていたとは思えないほど若々しい。
前世の六歳の夏、母はベッドから起き上がれなかった。枕元に水差しがあり、薬の匂いが部屋に充満していた。窓を開ける体力もなかった。その母が、庭を歩こうと言っている。
「うん。いく」
セレスティアは母の手を取った。小さな手。大きな手。繋いで歩く。
庭は夏の盛りだった。薔薇が咲いている。白と赤と淡い桃色。マルガレーテが丹精した花壇。水路の修繕が終わった東区画の灌漑は順調で、畑の作物も青々としている。
「お母様、この花、なんていうの」
「これはクレマチス。お祖母様が好きだった花よ」
「おばあさまに会ったことある?」
「ないの。お母様が嫁いでくる前に亡くなったの。でもお父様が時々話してくれるわ」
父が亡き母の思い出を妻に語り、それを母が娘へ渡してくれる。前世では途切れていた家族の話が、今世ではこうして繋がっている。
「おかあさま」
「なあに」
「おかあさまは、わたしがいなくなってもだいじょうぶ?」
リリアーナが足を止めた。
「いなくなる?」
「がくえんにいくから。おうちにいなくなる」
リリアーナの目が揺れた。笑おうとして、失敗した。
「大丈夫よ。お母様は強いから」
気丈な返事とは裏腹に、最後の音だけがかすかに揺れていた。
「おかあさま、なかないで」
「泣いてないわ。目にゴミが入っただけ」
エドヴァルトと同じ言い訳。この家の人間は泣く時に目にゴミが入る。
セレスティアは母の腰にしがみついた。六歳の身長では、母の腰がちょうどいい高さだ。
「てがみかくね。まいしゅう。おかあさまのことぜんぶかく」
「全部?」
「おはなのこと。おべんきょうのこと。ごはんのこと。ぜんぶ」
リリアーナが笑った。今度は本当に笑った。涙も一緒に落ちたが。
「楽しみにしてるわ」
◇
午後。エドヴァルトが中庭で木剣を振っていた。
二十一歳。騎士として正式に叙任されている。筋肉質の腕。日焼けした肌。だが妹の前ではいつも笑っている。
「セレス、見てろ。新しい型を覚えた」
木剣が空を切った。流れるような動き。剣術の型は芸術に近い。
「すごい。おにいさま、かっこいい」
「だろう? 今度は実戦でも使えるようにする」
エドヴァルトが木剣を置き、セレスティアの前にしゃがんだ。
「セレス。学園では俺がいない。ヴォルフは門の外にいるが、寮の中には入れない」
「うん」
「何かあったら鷹便を飛ばせ。どこにいても、最速で駆けつける」
「おにいさま、騎士団のおしごとは」
「妹より大事な仕事はない」
いかにも不器用な兄らしい言葉だったが、本気なのは分かる。今世では、この人も、この笑顔も守り抜く。
「おにいさま。しなないでって、やくそくしたよね」
「した。百まで生きる」
「ひゃくまでいきて」
「しつこいな。約束は一度でいい」
エドヴァルトがセレスティアの頭を撫でた。大きな手。ごつごつした手。
この手は剣を握る手だが、妹の頭を撫でる時だけは柔らかくなる。
◇
書庫。フェリクスが本を読んでいた。
十六歳。銀髪に眼鏡。相変わらず机の上は本の山だ。だが三年前と違い、目の下の隈は薄くなっている。生活が規則的になったのだ。マルガレーテが毎日決まった時間に食事を持ってくるようになってから。
「セレス。学園に持っていく本のリストを作った」
「リスト?」
「三十冊。魔力学、薬草学、歴史学、地理学、政治学の基礎。これだけ読めば初等部の授業は問題ない」
「さんじゅっさつ」
「足りないか? 五十冊にするか?」
「たりなくない。おおい」
フェリクスは首を傾げた。「少ないと思ったが」。学者の感覚はずれている。
「おにいさま。がくえんのひとたちって、どんなかんじ?」
フェリクスがページをめくった。「人間関係については調べてある。大きく三つに分かれている。宰相派、王妃派、中立だ」
「さいしょうは」
「イザベラを中心に宰相の息のかかった子女が集まる。お前が入ると、間違いなく最初から牽制してくる。ヴィオレッタもそちら寄りに見られている」
「……ルシアンさまは」
フェリクスが一度ページを閉じた。「第一王子については情報が薄い。宰相派でも王妃派でもない。だが独自に動いている形跡がある。距離が読めない相手だ」
「わかった」
セレスティアは少しの間、その言葉を頭の中に置いた。宰相派。王妃派。中立。そしてルシアン。
「おにいさま。ひとつおねがいがあるの」
「何だ」
「おかあさまを、みてて。わたしがいないあいだ」
フェリクスの手が止まった。本のページを押さえたまま、セレスティアを見た。
「母上を」
「おかあさま、わたしがいなくなったらさみしがる。おにいさまは、おうちにいるでしょ。だから」
「……俺は人付き合いが得意じゃない。母上の相手なんか」
「おにいさまがむずかしいかおしてほんよんでるだけで、おかあさまはうれしいの。そばにいるだけでいいの」
フェリクスは黙った。しばらくして、眼鏡を直した。
「善処する」
学者らしい回答。だがフェリクスの声は少しだけ柔らかかった。
◇
夕方。マルガレーテがセレスティアの部屋で荷物の準備をしていた。
学園に持っていく衣類。日用品。筆記用具。フェリクスのリストの本。一つずつ丁寧に畳み、箱に入れている。マルガレーテの手が震えていた。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様」
「てがふるえてる」
「あら。寒いのかしら」
夏だ。寒いはずがない。
「マルガレーテ、さみしい?」
マルガレーテの手が完全に止まった。衣類を持ったまま、動かない。
「……マルガレーテは、お嬢様がお生まれになった日からお傍にいました」
「うん」
「赤ちゃんの頃、夜泣きする度にあやしました。初めて歩いた日も、初めて言葉を話した日も、マルガレーテが傍にいました」
「うん」
「お嬢様が三歳のあの朝から、少し変わられた時も。怖い夢を見る夜も。ずっと」
マルガレーテは一度息を継いだが、次の言葉は涙に濡れていた。
「六年間、毎日お傍にいました。それが当たり前で、それがマルガレーテの全てで……」
「マルガレーテ」
「寂しいです」
涙が落ちた。マルガレーテが泣くのを見たのは、あの夜泣きの夜以来だ。
「寂しいです。お嬢様がいなくなるのが。部屋が空っぽになるのが。朝起こす人がいなくなるのが」
セレスティアはマルガレーテに駆け寄り、腰に抱きついた。
「マルガレーテ。わたし、もどってくるよ。なつやすみと、ふゆやすみと、はるやすみ。もどってくる」
「分かっています。分かっているのに」
「おてがみもかく。マルガレーテにいちばんさいしょにかく」
「一番最初に?」
「うん。いちばんさいしょ。おかあさまよりさき」
マルガレーテが泣き笑いした。
「お母様より先は駄目ですよ。お母様が拗ねます」
「じゃあおなじひにだす。ふたつ」
「ふふ。それなら」
マルガレーテがセレスティアを抱き上げた。六歳。もう赤ん坊ではない。だが侍女長の腕にはまだ収まる。
「マルガレーテ。わたしのいちばんだいじなひと」
「お嬢様も、マルガレーテの一番大事なお嬢様です。世界で一番」
夕日が窓から差し込み、抱き合う二人の影を床の上に長く伸ばした。学園で何があっても、どんな敵と向き合っても、この温もりを忘れたくない。
帰る場所があり、待っている人がいる。その確かさが、これから一人で立つための力になる。
◇
夜になると、セレスティアは寝台に横になっていた。
枕元には、六歳の誕生日にもらった木彫りの兎やブローチ、手袋、本が並んでいる。母が縫ってくれた白いドレスは箪笥にかけてあった。あとひと月余りで、この部屋を離れる。
前世では七歳の入学が恐ろしかった。孤独の始まり。誰も味方がいない場所に放り込まれる恐怖。
今世は違う。アレクシスも、フリーデリケも、コンラートもいる。ナターシャも付いてきてくれる。それでも、この家を離れる寂しさまで消えるわけではなかった。
母の匂い。兄の笑い声。父の静かな頷き。マルガレーテの子守唄。ヴォルフの影のような存在。
手放すのではなく、しばらく離れるだけだ。手紙や鷹便を使えば、家族と結ばれた糸は切れない。そう思いながら目を閉じると、今夜は断頭台の夢を見ずに済む気がした。
もしかしたら、庭の花の夢を見るかもしれない。
母と手を繋いで歩いた庭と、クレマチスの花、草木の濃い匂いを思い浮かべた。家を離れる前の最後の夏は終わる。けれど夏そのものが失われるわけではない。
来年の夏は学園で迎え、休暇になればこの家へ帰ってくる。その先にも、前世で命を奪われた年齢へ至るまで、幾度もの夏がある。その一つ一つを、今度こそ守ってみせる。
枕元の木彫りの兎に見守られながら、セレスティアは微笑んで眠りについた。やがて朝が来て、新しい一日が始まる。
それは、家を離れる前に過ごす最後の夏の、静かな一夜だった。




