ヨハンの訪問
馬車が正門をくぐってきたのは、昼前だった。
セレスティアは二階の窓から見ていた。
質素な馬車だ。紋章がない。王都の学術院が使う、地味な黒塗りの箱。御者台には見慣れない老人が座っていた。白髪。丸眼鏡。外套が着崩れている。旅装なのに、本を膝に開いたまま読んでいる。
ヨハン・エッケルトだ。
手紙では知っている。フェリクス経由で指導を受けてきた。だが直接会うのは初めてだった。
手紙で想像していたのは、もっと厳めしい顔の人物だった。筆跡が力強かったから。送ってくれた資料が緻密だったから。実物は——予想より、ずっと普通の老人に見えた。本を読みながら馬車を降りようとしている。それだけで少し好きになった。
セレスティアは廊下を駆けた。
◇
玄関ホールにフェリクスが先に出ていた。
「ヨハン先生。遠路、ありがとうございます」
「いや、本を読んでいたら着いた。問題ない」
ヨハンが馬車を降りた。背が高い。だが猫背で、実際より低く見える。手に本を持ったまま、フェリクスと握手した。
セレスティアが玄関に出た瞬間、ヨハンが眼鏡の奥からこちらを見た。
「ほう」
それだけだった。
しばらく、本当にしばらく、ヨハンはセレスティアを見ていた。品定めではない。観察だ。学者の目。虫眼鏡で昆虫を見る目。
「小さいな」
「五さいです」
「知っている。だが想像より小さい」
「ヨハン先生も想像より年よりです」
フェリクスが咳払いをした。ヨハンは動じなかった。
「正しい。私は老いている。だが頭はまだ動く。お前はどうだ」
「うごきます」
「見せてもらおう」
◇
訓練は庭で行われた。
ヨハンは石の縁に腰掛けて、本を閉じた。初めて本を手から離した。それだけで、ヨハンの集中が切り替わったのが分かった。本を持つ人と、観察する人は、同じ目をしていない。
フェリクスが傍に立っている。心配そうな目。
「普段通りにやれ。見ているだけだ」
セレスティアは水晶の棒を両手に持った。訓練道具。左右それぞれ一本ずつ。
呼吸を整える。三秒。四秒。五秒。
意識を分ける。右に光。左に闇。同時に。これが難しい。光は広がろうとし、闇は収縮しようとする。逆の性質を持つ二つを、同じ呼吸で動かす。
水晶が光った。白と黒。
一秒。二秒。三秒。四秒。五秒。六秒。七秒。
揺らいだ。右の光が不安定になった。吐く息で整える。八秒。九秒。十秒。
「離せ」
フェリクスが言った。手を開いた。水晶が草の上に落ちた。
額が汗ばんでいた。十秒が限界だ。
ヨハンが立っていた。いつの間にか立っていた。
「もう一度」
「先生、一日に一回が上限のはずです」
フェリクスが口を挟んだ。
「見たいのは限界ではなく、構造だ。一秒でいい。もう一度やれ」
セレスティアは水晶を拾い直した。
ヨハンが間近に来た。眼鏡が光を反射している。
「今度は目を閉じるな」
「めをとじていませんでした」
「そうか。では今度は私を見ながらやれ」
奇妙な指示だった。だがセレスティアは従った。
ヨハンの目を見ながら、呼吸を整える。光と闇を同時に起こす。三秒。
「止めろ」
止めた。
ヨハンが眼鏡を押し上げた。
「フェリクス君」
「はい」
「この子の魔力を、正直に言うと、私は四十年の研究で一度しか見たことがない」
フェリクスが息を飲んだ。
「一度、というのは」
「文献の中でだ。実物は初めて」
「エリーゼの記録か」フェリクスが静かに言った。
ヨハンが眼鏡を押し上げた。「知っているか」
「先生が以前送ってくれた資料に、名前だけあった。三百年前の保有者だと」
「そうだ。詳細は散逸している。だが残った断片と、今の型は一致する」
沈黙が落ちた。フェリクスが何か言いかけて、止まった。ヨハンがフェリクスの言葉を制するように、先に続けた。
「驚いているな。だがそれは今はいい。大事なのは次だ」
ヨハンはセレスティアの目線まで身を屈めた。白髪が風でゆれた。眼鏡の奥の目が、温かかった。
「セレスティア」
「はい」
「お前の力は、怖いか」
考えた。怖い、とは思ったことがある。暴走したら、と思うと怖い。でも力そのものは。
「こわくない。でも、しっぱいしたらこわい」
「正直だな」
ヨハンが立ち上がった。
「失敗しないようにする方法だけを考えろ。力そのものを怖がるな。それは訓練で解決できる。だが怖がることだけは訓練で解決できない」
セレスティアは頷いた。
◇
夕方、ヨハンは屋敷の書斎でフェリクスと話し込んだ。セレスティアは扉の外で、少しだけ聞いた。
聞くつもりはなかった。扉に向かっていたら、声が漏れていた。それだけだ。だが足が止まった。
「保護が必要だ」
ヨハンの声。
「分かっています。父も動いています」
フェリクスの声。
「宰相は気づいているかもしれない」
「……それも、把握しています」
「では私には何もできないな。学術院の人間にできることは、知識を渡すことだけだ」
「十分です、先生」
「……本当に、五歳か」
「五歳です」
「そうか」
長い沈黙。
「手紙の指示通りに続けろ。間違っていない。ただ、無理はさせるな。この子は身体が小さすぎる。魔力の器は大きいが、身体の器が追いついていない。焦らせるな」
「はい」
「それだけだ。あとは時間がやる。時間と訓練。それ以外に方法はない」
セレスティアは扉から離れた。聞いた言葉を、心の中で繰り返した。身体の器が追いついていない。それは分かっていた。でも「焦らせるな」という言葉が、誰かに言ってもらえたのは初めてだった。
◇
ヨハンが馬車に戻る時、セレスティアは門まで見送った。
「先生、またきますか」
「用があれば来る」
「ようって、なんですか」
「また見たくなったら来る」
同じことだった。
ヨハンが馬車に乗り込んだ。本をまた開いた。御者が馬を動かし始めた。
馬車が走り出す直前、ヨハンが窓から顔を出した。
「セレスティア」
「はい」
「力を怖がるな。それだけを守れ」
馬車が動いた。
セレスティアはそれが見えなくなるまで、門の前に立っていた。
怖がるな。
前世でも、誰かにそう言われたかった。
ヨハンは来てくれた。馬車で、本を読みながら。どこかにいる五歳の子供を見るために。
「また見たくなったら来る」と言った。研究者の言葉だ。だが、悪くなかった。
また来てくれる。見たいものがあれば。
それだけで、十分だった。
秋の夕暮れ。空が橙から紫に変わり始めている。ヨハンの馬車はもう見えない。門の影が長く伸びている。
セレスティアは屋敷に戻った。力を怖がらない。その言葉を、胸の中の確かな場所に置いた。




