ヨハンの訪問
馬車が正門をくぐってきたのは、昼前だった。セレスティアは二階の窓から見ていた。
質素な馬車だ。紋章がない。王都の学者が使うような、地味な黒塗りの箱。御者台には見慣れた学者が座っていた。ぼさぼさの栗色の髪。度の強い眼鏡。外套が着崩れている。旅装なのに、本を膝に開いたまま読んでいる。
ヨハン・エッケルトだ。王都の裏通りにある研究室で出会って以来、ヨハンには何度か指導を受けた。王都滞在の最後の二週間、フェリクスに連れられてあの本だらけの部屋へ通い、光と闇の分離制御を少しずつ練習した。
公爵領に戻ってからは、フェリクス経由の手紙だけが頼りだった。訓練記録を送り、返ってきた指示を読み、毎朝その通りに水晶を握る。だから、ヨハン本人が公爵邸に来るのは初めてだった。
本を読みながら馬車を降りようとしている。その変わらなさに、少し安心した。セレスティアは廊下を駆けた。
◇
玄関ホールにフェリクスが先に出ていた。
「ヨハン先生。遠路、ありがとうございます」
「いや、本で読んでいたら着いた。問題ない」
ヨハンが馬車を降りた。背が高い。だが猫背で、実際より低く見える。手に本を持ったまま、フェリクスと握手した。
セレスティアが玄関に出た瞬間、ヨハンが眼鏡の奥からこちらを見た。
「ほう」
それだけだった。ヨハンはしばらくセレスティアを見つめた。初対面の時と同じ、品定めではなく、虫眼鏡で昆虫を観察するような目だった。
「小さいな」
「五さいです」
「知っている。だが想像より小さい」
「ヨハン先生は、相変わらず年よりに見えます」
フェリクスが咳払いをした。ヨハンは動じなかった。
「正しい。私は老いている。だが頭はまだ動く。お前はどうだ」
「うごきます」
「見せてもらおう」
◇
フェリクスがヨハンを案内したのは、いつも訓練に使っている西棟の研究室だった。日中だというのに窓には厚いカーテンが引かれ、床には水晶を落としても割れないよう革布が敷かれている。廊下からは使用人の足音一つ聞こえなかった。
「ずいぶん静かだな」
「先生がいらっしゃる間だけ、西棟の仕事を止めてもらいました。表向きは、古文書の照合です」
ヨハンは眼鏡の位置を直し、閉ざされた窓と、扉の外に立つヴォルフを順に見た。
「それでいい。見せる相手は選べ」
そう言って作業机の前に椅子を引き、ようやく本を閉じて机上へ置いた。本を手から離しただけで、読書する人から観察する人へ集中が切り替わったのが分かる。フェリクスはすぐ傍に立ち、心配そうに妹を見ていた。
「普段通りにやれ。見ているだけだ」
セレスティアは訓練用の水晶棒を左右の手に一本ずつ握り、三秒、四秒、五秒と呼吸を整えた。
意識を二つに分け、右に光、左に闇を同時に流す。光は広がろうとし、闇は収縮しようとする。逆の性質を持つ二つを同じ呼吸で動かすのは難しい。それでもやがて、二本の水晶に白と黒の光が灯った。
一秒。二秒。三秒。四秒。五秒。六秒。七秒。
揺らいだ。右の光が不安定になった。吐く息で整える。八秒。九秒。十秒。
「離せ」
フェリクスに促されて手を開くと、水晶は床に敷いた厚い革布の上へ落ちた。額には汗が滲んでいる。十秒が限界だった。
ヨハンが立っていた。いつの間にか立っていた。
「もう一度」
「先生、一日に一回が上限のはずです」
フェリクスが口を挟んだ。
「見たいのは限界ではなく、構造だ。一秒でいい。もう一度やれ」
セレスティアは水晶を拾い直した。ヨハンが間近に来た。眼鏡が光を反射している。
「今度は目を閉じるな」
「めをとじていませんでした」
「そうか。では今度は私を見ながらやれ」
奇妙な指示だった。だがセレスティアは従った。
ヨハンの目を見ながら、呼吸を整える。光と闇を同時に起こす。三秒。
「止めろ」
止めた。ヨハンが眼鏡を押し上げた。
「フェリクス君」
「はい」
「この波形を、正直に言うと、私は長年の研究で一度しか見たことがない」
フェリクスが息を飲んだ。
「一度、というのは」
「文献の中でだ。実物は初めて」
「エステルの記録か」フェリクスが静かに言った。
ヨハンが眼鏡を押し上げた。「知っているか」
「先生が以前送ってくれた資料に、名前だけあった。三百年前の保有者だと」
「そうだ。詳細は散逸している。だが残った断片と、今の型は一致する」
沈黙が落ちた。フェリクスが何か言いかけて、止まった。ヨハンがフェリクスの言葉を制するように、先に続けた。
「驚いているな。だがそれは今はいい。大事なのは次だ」
ヨハンはセレスティアの目線まで身を屈めた。ランプの明かりが、ぼさぼさの栗色の髪と眼鏡の縁に淡く映っている。その奥の目は温かかった。
「セレスティア」
「はい」
「二秒だった保持が、十秒まで伸びた。伸びることは怖いか」
考えた。伸びること自体は怖くない。だが、暴走したらと思うと怖い。十秒という数字が、力の大きさをはっきり見せてくるから。
「のびるのは、こわくない。でも、しっぱいしたらこわい」
「正直だな」
ヨハンが立ち上がった。
「失敗しないようにする方法だけを考えろ。力そのものを怖がるな。それは訓練で解決できる。だが怖がることだけは訓練で解決できない」
セレスティアは頷いた。
◇
夕方、ヨハンは屋敷の書斎でフェリクスと話し込んだ。セレスティアは扉の外で、少しだけ聞いた。
聞くつもりはなかった。扉に向かっていたら、声が漏れていた。それだけだ。だが足が止まった。
「保護が必要だ」
ヨハンの声。
「分かっています。父も動いています」
フェリクスの声。
「宰相は気づいているかもしれない」
「……それも、把握しています」
「では私には何もできないな。学者にできることは、知識を渡すことだけだ」
「十分です、先生」
「……本当に、五歳か」
「五歳です」
「そうか」
長い沈黙。
「手紙の指示通りに続けろ。間違っていない。ただ、無理はさせるな。この子は身体が小さすぎる。魔力の器は大きいが、身体の器が追いついていない。焦らせるな」
「はい」
「それだけだ。あとは時間がやる。時間と訓練。それ以外に方法はない」
セレスティアは扉から離れた。聞いた言葉を、心の中で繰り返した。身体の器が追いついていない。それは分かっていた。でも「焦らせるな」という言葉が、誰かに言ってもらえたのは初めてだった。
◇
ヨハンが馬車に戻る時、セレスティアは門まで見送った。
「先生、またきますか」
「用があれば来る」
「ようって、なんですか」
「また見たくなったら来る」
同じことだった。ヨハンが馬車に乗り込んだ。本をまた開いた。御者が馬を動かし始めた。
馬車が走り出す直前、ヨハンが窓から顔を出した。
「セレスティア」
「はい」
「力を怖がるな。それだけを守れ」
馬車が動き出した。セレスティアはそれが見えなくなるまで門の前に立ち、「怖がるな」という言葉を胸の内で繰り返した。
前世でも、誰かにそう言われたかった。ヨハンは本を読みながら馬車に揺られ、遠い領地にいる五歳の子供を見に来てくれた。
「また見たくなったら来る」と言った。研究者の言葉だ。だが、悪くなかった。
見たいものがある限り、また来てくれる。その約束だけで十分だった。
夏の終わりの夕暮れ。空が橙から紫に変わり始めている。ヨハンの馬車はもう見えない。門の影が長く伸びている。
セレスティアは屋敷に戻った。力を怖がらない。その言葉を、胸の中の確かな場所に置いた。




