王太子への手紙
五歳の夏。王宮での教育課程を終えて公爵領に戻ってから、八週間が経った。
セレスティアは書斎の小さな机に座っていた。便箋が一枚、白いまま置かれている。羽根ペンを持ったまま、もう十分以上、一文字も書いていない。アレクシスへの手紙。
書きたいことは決まっている。書けないのではなく、どう書けばよいのかが決まらなかった。
◇
いつもの手紙は計算の産物だ。アレクシスとの信頼を維持する。王妃エレオノーラへの繋がりを確認する。公爵家の状況を子供らしい言葉で包んで届ける。一文字ごとに目的がある。だが今日の手紙は、何のために書くのか。
浮かんでくるのは、会いたいという気持ちだけだった。
戦略も、伝えるべき情報もない。ただ、もう一度話したい。その気持ち以外に理由はなかった。
こういう気持ちで手紙を書いたことが、前世でもなかった。今世は違う。
王宮の教育課程でともに過ごした八週間には、中庭で本や将来について話し、一緒に星を見た夜もあった。それを思い出すと、会いたいと思った。
その気持ちを手紙に書いていいのか、分からなかった。
◇
窓の外に、ラベンダーが見えた。庭師が夏の終わりに刈り込む前の、最後の開花だ。薄紫の穂が午後の光の中で揺れている。セレスティアは机を離れた。
庭に出た。夏の午後も、木陰に入ると少し涼しい。草の露がまだ残っていて、靴の先が濡れた。
ラベンダーの前にしゃがんだ。花の香りが鼻をくすぐる。
「アレクシス殿下も、こういうにおいがすきなのかな」
王宮での話の中で、アレクシスが「王妃の部屋にラベンダーがある」と言っていた。その時の顔を思い出した。「母上の部屋は花が多い」と言いながら、少し照れたような顔をした。王太子として話す時の顔ではなく、母親の話をする子供の顔だった。
王宮での八週間。一番の記憶は、星を見た夜だった。広い中庭に出て、アレクシスが空を指した。「あれがリラの星座だ」と言った。「どれ?」と聞いたら、手を取って指の先を揃えた。子供の、無邪気な動作だった。その時の温度を、まだ覚えている。
ラベンダーの香りが、あの時の記憶を連れてきた。セレスティアは花穂を一本だけ、傷めないように摘み取った。
摘んだラベンダーを持ったまま、書斎に戻った。
◇
厚い本の間に、ラベンダーを挟んだ。
「三日くらいで乾くかな」
乾いたら押し花にして、手紙へ同封しよう。子供らしい贈り物だが、誰かの意図を装うためではなく、本当にそうしたかった。
これを送ったら、アレクシスは驚くだろうか。それとも、少し照れた顔をするだろうか。そんな姿を思い浮かべながら、セレスティアは便箋に向かってペンを取り、ようやく書き始めた。
『殿下、おげんきですか。わたしはおうちにかえりました。おかあさまがとてもげんきです。』
庭の花を思い浮かべながら、続きを書いた。
『おにわのラベンダーがさきました。殿下のおかあさまのおへやにもあるって、いってましたね。いいにおいです。いっしょにおくります。』
ペンが止まった。次の一行が書けなかった。
書きたいことは分かっている。だが書くべきかどうかが分からない。
策略として書いているのか、それとも本当に思っているから書くのか。境界が、最近、分からなくなってきた。分からなくなってきた、というより、最初から一緒だったのかもしれない。計算していたつもりが、気づいたら本当にそう思っていた。
セレスティアは少し考えた。それから、書いた。
『また殿下とおはなし、したいです。』
読み返すと、その一行だけがほかとは違って見えた。信頼を示し、関係を保つという政治的な意味を後から与えることはできる。けれど、書いた瞬間にあったのは、もう一度会って話したいという思いだけだ。
計算に頼って生きてきた自分の中へ、目的を持たない感情が混じり始めている。それが怖いことなのか、嬉しいことなのかは、まだ分からない。それでも消したくないと思い、セレスティアはその一行を残した。
『セレスティアより』と書いて、ペンを置いた。
◇
三日後、ラベンダーが乾いた。
その三日間、セレスティアは何度か本を開き、花びらが崩れていないか、色が残っているかを確かめた。
薄紫の色は少し褪せていたが、花の形と香りはかすかに残っていた。手に持つと、夏の公爵邸の庭を思い出す匂いがした。
薄紫の花びらを崩さないよう、折り畳んだ手紙の間へ慎重に挟み、そっと封をした。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様」
「これ、おねがいします」
マルガレーテが手紙を受け取った。宛先を見て、目元が少し和らいだ。
「殿下への手紙ですね。かしこまりました」
侍女長が部屋を出ていくと、書きあぐねていた手紙が本当に自分の手を離れたのだと実感した。
◇
セレスティアは窓から空を見た。雲が遠くに流れている。
手紙が王都へ着くまで五日かかり、アレクシスが読むのはその後になる。それまでラベンダーの香りが残っていてほしい。相手の感情を読むことには慣れていても、誰かに何かを感じてほしいと願ったことは少なかった。けれど今は、夏の庭の香りをアレクシスへ届けたいと素直に思えた。
アレクシスが「またお話ししたい」という一行をどう読むかは分からない。子供らしい言葉として、そのまま受け取るのだろう。それでよかった。書いたセレスティアだけは、その一行が計算から生まれたものではないと知っている。
セレスティアが窓から庭を見ると、残ったラベンダーの花穂が風に揺れていた。




