王太子への手紙
五歳の秋。
王宮での教育プログラムから公爵領に戻って、一ヶ月が経った。
セレスティアは書斎の小さな机に座っていた。便箋が一枚、白いまま置かれている。羽根ペンを持ったまま、もう十分以上、一文字も書いていない。
アレクシスへの手紙。
書くことは決まっている。書けないのではない。書き方が、決まらない。
◇
いつもの手紙は計算の産物だ。
アレクシスとの信頼を維持する。王妃エレオノーラへの繋がりを確認する。公爵家の状況を子供らしい言葉で包んで届ける。一文字ごとに目的がある。
だが今日の手紙は、何のために書くのか。
……会いたい。
それだけだった。
理由は他にない。戦略もない。伝えるべき情報もない。ただ、また話したい。それだけ。
こういう気持ちで手紙を書いたことが、前世でもなかった。
今世は違う。
王宮のプログラムで一ヶ月を共に過ごした。中庭で話した。本の話をした。将来の話をした。一緒に星を見た夜があった。
会いたい、と思う。
その気持ちを手紙に書いていいのか、分からなかった。
◇
窓の外に、ラベンダーが見えた。
庭師が秋の終わりに刈り込む前の、最後の開花だ。薄紫の穂が午後の光の中でゆれている。
セレスティアは机を離れた。
庭に出た。秋の空気が冷たかった。草の露がまだ残っていて、靴の先が濡れた。
ラベンダーの前にしゃがんだ。花の香りが鼻をくすぐる。
「アレクシス殿下も、こういうにおいがすきなのかな」
王宮での話の中で、アレクシスが「王妃の部屋にラベンダーがある」と言っていた。その時の顔を思い出した。「母上の部屋は花が多い」と言いながら、少し照れたような顔をした。王太子として話す時の顔ではなく、母親の話をする子供の顔だった。
王宮での一ヶ月。一番の記憶は、星を見た夜だった。広い中庭に出て、アレクシスが空を指した。「あれがリラの星座だ」と言った。「どれ?」と聞いたら、手を取って指の先を揃えた。子供の、無邪気な動作だった。その時の温度を——まだ覚えている。
ラベンダーの香りが、あの時の記憶を引っ張ってきた。
一本だけ、手で折った。
摘んだラベンダーを持ったまま、書斎に戻った。
◇
厚い本の間に、ラベンダーを挟んだ。
「三日くらいで乾くかな」
乾いたら、手紙に一緒に入れる。押し花。子供らしい贈り物。だがセレスティアは本当に、ただそうしたかっただけだった。
これを送ったら、アレクシスはどんな顔をするだろう。驚くかもしれない。少し照れるかもしれない。
そういうことを、計算ではなく、ただ思った。
便箋に向かった。
ペンを取る。
書き始める。
『殿下、おげんきですか。わたしはおうちにかえりました。おかあさまがとてもげんきです。』
続きを書く。
『おにわのラベンダーがさきました。殿下のおかあさまのおへやにもあるって、いってましたね。いいにおいです。いっしょにおくります。』
ペンが止まった。
次の一行が書けなかった。
書きたいことは分かっている。だが書くべきかどうかが分からない。
策略として書いているのか、それとも本当に思っているから書くのか。境界が、最近、分からなくなってきた。分からなくなってきた、というより、最初から一緒だったのかもしれない。計算していたつもりが、気づいたら本当にそう思っていた。
セレスティアは少し考えた。それから、書いた。
『また殿下とおはなし、したいです。』
読み返した。
一行だけ、違う。
他の行は全て、何かのために書かれている。だがこの一行だけは、ただそのまま、思ったことを書いた。会いたい。話したい。それだけの一行。
政治的に意味がある、と言えばある。信頼の表明。関係の維持。
だがそれだけではない。
それだけではない、ということが、大事だった。
計算だけで生きてきた前世に、計算ではない感情が混じる。それが怖いことなのか、嬉しいことなのか、まだ分からない。でも——消したくなかった。消せなかった、という方が正確かもしれない。
セレスティアは一行を消さなかった。
『セレスティアより』と書いて、ペンを置いた。
◇
三日後、ラベンダーが乾いた。
その三日間、何度かページを開いて確認した。花びらが崩れていないか。色が残っているか。
薄紫がすこし褪せていたが、形は残っていた。香りも、かすかに残っていた。手に持つと、秋の公爵邸の庭の香りがした。
折り畳んだ手紙の間に、そっと挟んだ。
平らになるように、慎重に。花びらが崩れないように。
封をした。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様」
「これ、おねがいします」
マルガレーテが手紙を受け取った。宛先を見て、目元が少し和らいだ。
「殿下への手紙ですね。かしこまりました」
侍女長が部屋を出ていく。
手紙が、手を離れた。
◇
セレスティアは窓から空を見た。雲が遠くに流れている。
この手紙が王都に着くのに、五日かかる。アレクシスが読むのはその後だ。ラベンダーの香りがまだ残っているといい。
……そんなことを考えている自分に気づいた。
計算ではなかった。
ただ、そう思った。
「ラベンダーの香りがまだ残っているといい」というのは、戦略ではない。アレクシスが何を感じるかへの、ただの期待だ。
五歳のセレスティアは今まで、相手の感情を読むことはしてきたが、相手に何かを感じてほしいと思ったことは少なかった。感情は計算の材料だった。
だが今日のこれは、違う。
アレクシスに、この香りを届けたい。
それだけのことだった。
手紙の中に、一行だけ違う文がある。アレクシスがその一行をどう読むかは、分からない。子供らしい言葉だから、子供らしく受け取るだろう。でも——書いたセレスティアは知っている。その一行だけが、計算ではなかったことを。
セレスティアは窓から庭を見た。ラベンダーの一本が、風にゆれた。




