新たな護衛体制
エドヴァルトが帰ってきた。
長兄。十八歳。公爵家の嫡男。近衛騎士団での研修を終え、公爵領に戻った。
セレスティアがエドヴァルトと再会したのは、帰還から一週間後の朝だった。
中庭で剣を振っていた。
朝霧の中に、銀色の軌跡が走る。素振りではない。型稽古。流れるような一連の動き。斬り上げ、横薙ぎ、突き、受け、いなし。全てが途切れなく繋がっている。
セレスティアは回廊の柱に隠れて見ていた。
エドヴァルト・フォン・アルヴェイン。銀髪碧眼。父に似た厳めしい顔立ちだが、目元に母の柔らかさがある。背が高く、肩幅が広い。騎士の体格。
前世のエドヴァルトは、セレスティアにとって「遠い存在」だった。十五歳年上。騎士としての任務で家を空けることが多く、会話をした記憶も少ない。
剣を振る兄の姿を、セレスティアは静かに見つめていた。
「そこにいるのは分かっている」
エドヴァルトの声。剣を振りながら、振り向かずに言った。
「……ばれた」
セレスティアは柱の陰から出た。
エドヴァルトが剣を収め、振り返った。汗が顎から落ちている。だが息は乱れていない。鍛え込まれた身体。
「セレスティアか。大きくなったな」
「おにいさま、おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
ぎこちない再会。エドヴァルトはセレスティアとの距離感を測りかねている。十五歳差の末妹。赤ん坊の頃に少し抱いた記憶はあるが、それ以降はほとんど関わっていない。
セレスティアも同じだった。この兄をどう扱えばいいか、前世の経験では分からない。
「おにいさまのけん、きれいだった」
「見ていたのか」
「うん。おにいさま、つよいの?」
エドヴァルトの口元が緩んだ。ほんの僅か。
「強いかどうかは分からん。だが負けたことはない」
「すごい」
「すごくはない。まだ実戦を知らんからな。訓練で負けないのと、戦場で生き残るのは違う」
「おにいさま。わたしのこと、しってる?」
「何を?」
「おとうさまがわたしのこと、なんていってるか」
エドヴァルトの目が真剣になった。
「父上は多くを語らない方だ。だが『セレスティアを守れ』とは言われた。それだけで十分だ」
それだけで十分。
「今日から、お前の護衛体制を強化する。父上の命だ」
「ごえい?」
「ヴォルフに加えて、もう一人つける。女性騎士だ。カタリナという」
「カタリナ?」
「辺境伯ギュンターの推薦だ。腕は俺が保証する。近衛での研修で一緒だった」
辺境伯ギュンターの推薦。コンラートの父だ。
◇
その日の午後、カタリナが公爵家に着任した。
カタリナ・ヴァイスハウプト。辺境伯家の傍系。二十歳。
第一印象は「赤」だった。
赤い髪。短く切り揃えた、炎のような赤毛。日に焼けた肌。琥珀の目。体格は女性としては大柄で、ヴォルフより背は低いが、肩幅は負けていない。
そしてヴォルフとは正反対の雰囲気だった。
「カタリナ・ヴァイスハウプト、本日より参りました! セレスティア様、お初にお目にかかります!」
声が大きい。明るい。元気がある。
ヴォルフが隣で微かに眉を動かした。この騎士なりの「戸惑い」の表現だ。
「カタリナさん、よろしくね」
「はい! 命に代えてもお守りいたします!」
命に代えても。ヴォルフと同じ誓い。
エドヴァルトが腕を組んで見守っていた。
「カタリナ。ヴォルフとの連携を取れ。交代制で護衛する。分からないことはヴォルフに聞け」
「了解です、エドヴァルト殿!」
「殿はいい。エドでいい」
「了解です、エド!」
ヴォルフが再び微かに眉を動かした。
◇
新しい生活が始まった。
朝は魔力制御の訓練。
王都にいたヨハンとは手紙でやり取りし、訓練メニューを受け取る。フェリクスが指導役を務める。
「右手に光、左手に闇。同時保持。今日は五秒を目指せ」
セレスティアは水晶の棒を両手に握った。
三秒吸う。三秒止める。意識を分割する。右に光。左に闇。
水晶が光った。白と黒。
一秒。二秒。三秒。四秒――
右手の光が揺らいだ。闇が膨張しようとする。
抑える。呼吸を整える。
五秒。
「離せ」
フェリクスの声で手を開いた。水晶が転がった。
額に汗。だが前回の二秒から五秒に伸びた。
「上出来だ」
「もっとやりたい」
「駄目だ。今日はここまで。ヨハン先生の指示では、一日一回、五秒が上限だ。身体に負荷をかけすぎるな」
フェリクスは厳しい。だがそれはセレスティアの身体を案じているからだ。
昼は学問。
歴史。政治。法律。マルガレーテが基礎を教え、フェリクスが応用を教える。
「レグナシオン王国の建国は約五百年前。初代国王ヴィルヘルム一世が、魔力を持つ貴族たちを統合して――」
セレスティアは前世で全て学んでいる。だが「知っている」と言うわけにはいかない。適度に「すごい」「おもしろい」と反応しながら、知識の確認と更新を行う。
前世と今世で、歴史の細部が微妙に異なる場合がある。時間が戻ったことで変化したのか、前世の記憶が不正確なのか。どちらにせよ、確認は必要だ。
夕方は、エドヴァルトの剣術稽古の見学。
中庭でエドヴァルトと公爵家の騎士たちが組手をしている。セレスティアは回廊に座って見学する。
「なぜ見学させるのか分かるか」
エドヴァルトが稽古の合間に聞いた。
「けんじゅつをおぼえるため?」
「違う。お前が剣を振る必要はない。戦術眼を養うためだ」
戦術眼。
「どの騎士が強いか見ろ。なぜ強いか考えろ。弱い騎士はなぜ弱いか。どうすれば弱点を突けるか。それが指揮官の目だ」
「おにいさま。あのひと、ひだりあしがよわい」
セレスティアが指差した騎士。左足の踏み込みが浅い。
エドヴァルトの目が見開かれた。
「……正解だ。あいつは去年、左膝を痛めた。まだ完治していない」
「だから、みぎからせめられるとさがる」
「お前は」
エドヴァルトは呆れたように笑った。
「本当にフェリクスの妹だな。見る目が同じだ」
「フェリクスおにいさまもおなじこというの?」
「あいつは学術的な目。お前は戦術的な目。似ているようで違う」
エドヴァルトはセレスティアの頭を軽く叩いた。兄の仕草。ぎこちないが、悪くない距離感。
少し間があった。
「お前が小さい頃、ほとんど家にいなかった」
エドヴァルトが、どこか遠くを見るように言った。
「……すまない」
セレスティアは首を振った。
「いま、いるからいいの」
エドヴァルトは何も言わなかった。だが、もう一度だけ、セレスティアの頭に手を置いた。今度は叩かずに、ただ置くだけ。
◇
夜。
セレスティアは自室で日記を書いていた。
日記と言っても、普通の日記ではない。暗号で書いている。フェリクスに教わった簡易暗号。万が一誰かに見られても、内容が分からないように。
今日の訓練結果。魔力の同時保持五秒。改善点。右手の光の密度が不安定。闇の方が制御しやすい。
扉を叩く音。
「お嬢様。カタリナです。夜間の見回りに入ります」
「はーい」
カタリナの声は小さくしても元気がある。不思議な人だ。
日記を閉じ、枕の下に滑り込ませた。
寝台に横になる。
五歳の身体は、朝から夜まで使い切るとすぐに眠くなる。訓練、学問、見学。全てが消耗する。
だが充実している。
今世は違う。人に囲まれている。守られている。そして、守るべきものがある。
目を閉じた。
明日もまた、訓練から始まる。五秒を六秒に。六秒を七秒に。
セレスティアは眠りに落ちた。
今夜は、悪夢を見なかった。




