新たな護衛体制
長兄エドヴァルトが、近衛騎士団での研修を終えて公爵領へ帰ってきた。二十歳になった彼は、いずれ公爵家を継ぐ嫡男でもある。
セレスティアがエドヴァルトと再会したのは、帰還から一週間後の朝だった。兄は中庭で剣を振っていた。
朝霧の中に、剣が銀色の軌跡を描いていた。単なる素振りではなく、斬り上げ、横薙ぎ、突き、受け、いなしを流れるように繋ぐ型稽古だ。セレスティアは回廊の柱に身を隠し、その途切れない動きを見つめていた。
エドヴァルト・フォン・アルヴェイン。銀髪碧眼で、父に似た厳めしい顔立ちをしているが、目元には母の柔らかさがある。高い背と広い肩は、以前よりも騎士らしく鍛えられていた。
前世のエドヴァルトは、セレスティアにとって「遠い存在」だった。十五歳年上。騎士としての任務で家を空けることが多く、会話をした記憶も少ない。
剣を振る兄の姿を、セレスティアは静かに見つめていた。
「そこにいるのは分かっている」
剣を振りながら、エドヴァルトがこちらを見もせずに言った。
「……ばれた」
セレスティアが柱の陰から出ると、エドヴァルトは剣を収めて振り返った。顎から汗が落ちているのに息は乱れておらず、日々の鍛錬がその身体に表れていた。
「セレス。……でかくなったな」
「おにいさま、おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
二年ぶりだった。以前は肩へ乗せてもらい、兄の髪を掴んで笑っていた。今は自分の脚で立ち、鍛えられた兄を見上げている。過ぎた時間を目の前に置かれたようで、ほんの少し寂しかった。
兄の大きな手が伸びてきて、頭の上に乗った。掌は剣の胼胝で硬かった。
「乗せてやろうか。肩」
「もう五さいです」
「五歳は乗るだろ」
「……のります」
エドヴァルトが笑った。回廊の端まで響く笑い声。この声だけは、二年前と同じだった。
前世のセレスティアは、この兄の素顔をほとんど知らないまま死んだ。今世の自分は知っている。声が大きく、歩幅も広いくせに、妹が遅れれば何も言わず歩みを緩める人だと。
「おにいさまのけん、きれいだった」
「見ていたのか」
「うん。おにいさま、つよいの?」
エドヴァルトの口元が緩んだ。ほんの僅か。
「強いかどうかは分からん。だが負けたことはない」
「すごい」
「すごくはない。まだ実戦を知らんからな。訓練で負けないのと、戦場で生き残るのは違う」
「おにいさま。わたしのこと、しってる?」
「何を?」
「おとうさまがわたしのこと、なんていってるか」
エドヴァルトの目が真剣になった。
「父上は多くを語らない方だ。だが『セレスティアを守れ』とは言われた。それだけで十分だ」
多くを語らない父から託された、その一言だけで兄には十分だったのだ。
「今日から、お前の護衛体制を強化する。父上の命だ」
「ごえい?」
「ヴォルフに加えて、もう一人つける。女性騎士だ。カタリナという」
「カタリナ?」
「辺境伯ギュンターの推薦だ。腕は俺が保証する。近衛での研修で一緒だった」
辺境伯ギュンターは、コンラートの父でもある。その人物が推薦した騎士なら、父が受け入れた理由も分かった。
◇
その日の午後、カタリナが公爵家に着任した。
カタリナ・フォン・ヴァイスハウプト。辺境伯家の傍系。二十歳。
第一印象は、鮮やかな「赤」だった。炎のような赤毛を短く切り揃え、日に焼けた肌には琥珀色の目がよく映える。女性としては大柄で、ヴォルフより背は低いものの肩幅では見劣りしない。そして何より、纏う雰囲気がヴォルフとは正反対だった。
「カタリナ・フォン・ヴァイスハウプト、本日より参りました! セレスティア様、お初にお目にかかります!」
よく通る声には、明るさと有り余るほどの活気があった。
ヴォルフが隣で微かに眉を動かした。この騎士なりの「戸惑い」の表現だ。
「カタリナさん、よろしくね」
「はい! 命に代えてもお守りいたします!」
「命に代えても」という言葉は、ヴォルフが立てた誓いと同じだった。エドヴァルトは口を挟まず、腕を組んで見守っている。
「カタリナ。ヴォルフとの連携を取れ。交代制で護衛する。分からないことはヴォルフに聞け」
「了解です、エドヴァルト殿!」
「殿はいい。エドでいい」
「了解です、エド!」
ヴォルフが再び微かに眉を動かした。
◇
新しい護衛体制のもとで始まる一日は、朝の魔力制御訓練から動き出した。
王都にいたヨハンとは手紙でやり取りし、訓練メニューを受け取る。フェリクスが指導役を務める。
「右手に光、左手に闇。同時保持。今日は五秒を目指せ」
セレスティアは水晶の棒を両手に握った。今使っているのは、フェリクスから最初に教わった呼吸法を、四秒の長さに伸ばしたものだ。四秒で吸い、四秒止め、四秒で吐き、もう一度四秒止める。その一定の流れへ意識を乗せ、右に光、左に闇と分けると、二本の水晶に白と黒の光が同時に宿った。
一秒、二秒、三秒、四秒。五秒目に入ったところで右手の光が揺らぎ、代わりに闇が膨らもうとした。呼吸の長さを崩さず、どちらも同じ場所へ押し戻す。
どうにか五秒を保ちきった。
「離せ」
フェリクスの声で手を開くと、水晶が机の上を転がった。額には汗が滲んでいたが、前回の二秒から五秒まで伸ばせた。
「上出来だ」
「もっとやりたい」
「駄目だ。今日はここまで。ヨハン先生の指示では、一日一回、五秒が上限だ。身体に負荷をかけすぎるな」
フェリクスは厳しい。だがそれが、幼い身体へ無理をさせないための厳しさであることを、セレスティアは知っていた。
昼からは学問の時間になる。
学ぶのは歴史、政治、法律で、マルガレーテが基礎を、フェリクスが応用を教えた。
「レグナシオン王国の建国は約五百年前。初代国王ヴィルヘルム一世が、魔力を持つ貴族たちを統合して――」
セレスティアは前世で全て学んでいる。だが「知っている」と言うわけにはいかない。適度に「すごい」「おもしろい」と反応しながら、知識の確認と更新を行う。
教本の記述と、前世で学んだ内容が微妙に食い違うこともある。前世の記憶が曖昧なのか、書き手や時代によって歴史の解釈が異なるのか。どちらにせよ、知っているつもりで読み飛ばすのは危険だった。
夕方には、エドヴァルトの剣術稽古を見学した。
中庭でエドヴァルトと公爵家の騎士たちが組手をしている。セレスティアは回廊に座って見学する。
「なぜ見学させるのか分かるか」
エドヴァルトが稽古の合間に聞いた。
「けんじゅつをおぼえるため?」
「違う。お前が剣を振る必要はない。戦術眼を養うためだ」
剣を握るためではなく、人と戦場を見るための目を養うのだ。
「どの騎士が強いか見ろ。なぜ強いか考えろ。弱い騎士はなぜ弱いか。どうすれば弱点を突けるか。それが指揮官の目だ」
「おにいさま。あのひと、ひだりあしがよわい」
セレスティアが指差した騎士。左足の踏み込みが浅い。エドヴァルトの目が見開かれた。
「……正解だ。あいつは去年、左膝を痛めた。まだ完治していない」
「だから、みぎからせめられるとさがる」
「お前は」
エドヴァルトは呆れたように笑った。
「本当にフェリクスの妹だな。見る目が同じだ」
「フェリクスおにいさまもおなじこというの?」
「あいつは学術的な目。お前は戦術的な目。似ているようで違う」
エドヴァルトはセレスティアの頭を軽く叩いた。兄らしく振る舞おうとする仕草にはまだ少しぎこちなさがあるが、この距離は嫌いではなかった。やがて、その手が止まった。
「お前が小さい頃、ほとんど家にいなかった」
エドヴァルトが、どこか遠くを見るように言った。
「……すまない」
セレスティアは首を振った。
「いま、いるからいいの」
エドヴァルトは何も言わなかった。だが、もう一度だけ、セレスティアの頭に手を置いた。今度は叩かずに、ただ置くだけ。
◇
夜になると、セレスティアは自室で日記を書いていた。
日記と言っても、普通の日記ではない。フェリクスに教わった簡易暗号を使い、万が一誰かに見られても内容が分からないようにしていた。
今日の訓練結果は、魔力の同時保持が五秒。右手の光は密度が不安定で、闇の方が制御しやすい――そこまで書いたところで、扉を叩く音がした。
「お嬢様。カタリナです。夜間の見回りに入ります」
「はーい」
カタリナの声は小さくしても元気がある。不思議な人だ。日記を閉じ、枕の下に滑り込ませた。寝台に横になる。
五歳の身体は、訓練と学問と見学で朝から夜まで使い切れば、すぐに眠気にさらわれる。それでも、一日の疲れには満ち足りた重さがあった。
今世の自分は人に囲まれ、守られている。そして自分にも、守りたいものがある。その温かさを胸に、セレスティアは身体の力を抜いた。
明日もまた訓練から始まる。五秒を六秒へ、やがて七秒へ。先を急ぐ心も、今夜だけは廊下を巡るカタリナの足音に預けてよかった。




