ディートリヒの自白
公爵家の地下牢。
セレスティアがその存在を知ったのは、前世のことだ。公爵家の屋敷の東棟、階段を二つ降りた先にある石造りの部屋。窓のない、灯りは燭台だけの場所。
罪人を収監するための部屋ではない。元は古い酒蔵だった場所を、公爵家が「来客用の控え室」として改装した。だが実質は幽閉部屋だ。
ディートリヒ・クラウスは、そこにいた。
帰還から五日目の夜。公爵がヘルマンを伴って地下に降りた。セレスティアは「寝ている」ことになっていた。
寝ていなかった。
ヴォルフの目を盗み――いや、ヴォルフはおそらく気づいていた。だが止めなかった。この騎士は時折、セレスティアの行動を「見なかった」ことにする。
地下への階段の途中で、セレスティアは身を潜めた。石壁の陰。小さな五歳の身体は、影に紛れやすい。
声が聞こえる。石の壁が音を反響させる。
「ディートリヒ」
公爵の声。氷のように冷たい。
「閣下」
ディートリヒの声は、二ヶ月前とは別人だった。張りがない。枯れている。幽閉の間に、この男から全ての虚勢が削ぎ落とされていた。
「最後の機会だ。全てを話せ。お前が知る全てを」
「……何からお話しすれば」
「宰相との繋がり。いつから、どのように」
長い沈黙。そして、ディートリヒが話し始めた。
「十二年前です。私が公爵家の家臣に取り立てられて三年目。王都での任務中に、マティアス・ベルンハルト殿に声をかけられました」
副宰相マティアス。やはり、あの男が起点だった。
「最初は何気ない世間話でした。公爵家の近況を尋ねられ、差し支えない範囲でお答えした。それだけのことだと思っていました」
「だが違った」
「はい。少しずつ、質問が具体的になりました。公爵閣下のご予定。家臣団の配置。領内の財政状況。私は気づかぬうちに、情報を渡していたのです」
蛙が茹で上がるように。少しずつ温度を上げる。マティアスの手口だ。
「気づいた時には手遅れでした。既に私は宰相派の内通者として記録されていた。証拠を握られていた。逃げることも、告白することもできませんでした」
「脅迫されていた、と」
「はい。ですが――」
ディートリヒの声が震えた。
「それだけではありません。報酬もありました。金と、地位の約束と。私は……弱かったのです」
公爵は沈黙した。
「奥方様への毒について話せ」
空気が変わった。氷から、鉄になった。
「処方箋の操作は、宰相府の指示です。王宮医師団の事務方に宰相派の人間がおり、奥方様の薬に灰銀草を増量する処方箋を発行していました。私の役目は、その処方箋が公爵家に届くよう経路を確保することでした」
「お前は直接手を下したのか」
「薬庫の鍵を管理していましたので、処方通りに調合されるよう監視していました。直接混入したことは……ありません」
「間接的に加担した、ということだな」
「はい」
ディートリヒの声が消えかけた。
「閣下。奥方様に対し、取り返しのつかないことを……」
「謝罪は要らん。情報を出せ」
冷徹。だが公爵の手が、僅かに震えていた。セレスティアは階段の陰からそれを見た。
「宰相派のネットワークを話せ。公爵領内に、お前以外の内通者はいるか」
「私が知る限り、いません。だが王都には多くの協力者がいます。貴族院の議員のうち、少なくとも三分の一は宰相派です。残りの三分の一は中立を装っていますが、実質的に宰相に逆らえません」
「近衛騎士団は?」
「騎士団長ジークフリート殿は王妃派です。だが副団長は宰相の推薦で就任した人物です。騎士団の中も割れています」
「王宮魔術師団は」
「魔術師長オスヴァルト殿は中立です。学者ですので、政治には関与しない方針です。だが宰相は魔術師団の予算を握っています。予算を人質に取られれば、中立も危うい」
オスヴァルト。あの男は中立を保てるのか。
「そして――」
ディートリヒの声が、さらに低くなった。
「閣下。一つ、最も重要なことをお伝えしなければなりません」
「言え」
「聖魔力の情報は、既に宰相に届いています」
セレスティアの心臓が止まるかと思った。
「何だと」
公爵の声が変わった。氷でも鉄でもない。獣の唸りに近い声。
「いつだ。いつ漏れた」
「私が幽閉される直前です。王都への最後の密書で、セレスティア様の魔力に異常がある旨を報告しました。聖魔力とまでは断定していませんが……フェリクス様が魔力学者の元を訪れていること、セレスティア様の魔力が通常の光属性ではないこと。それだけでも宰相には十分な情報です」
セレスティアは唇を噛んだ。
フェリクスがヨハンを訪れていたことまで知られていた。ディートリヒの監視網はそこまで及んでいたのだ。
「宰相は今、何を考えている」
「分かりません。私は幽閉されてから外部との接触を断たれています。ですが……」
「だが?」
「宰相閣下は、聖魔力を脅威と見なすでしょう。歴史上の聖魔力保有者は、全て『管理下に置かれる』か『排除される』かの二択でした。宰相は管理できないものは排除する方です」
排除。
「閣下。お嬢様を守ってください。宰相は……容赦しません」
ディートリヒの声に、初めて本物の感情がにじんだ。
公爵は立ち上がった。
「ヘルマン」
「はい」
「ディートリヒの処遇はそのままだ。だが食事を改善しろ。それと、今後も定期的に情報を聞き出す。この男が知っていることは、まだあるはずだ」
「承知いたしました」
公爵が地下から出てくる足音が近づいた。セレスティアは素早く階段を駆け上がり、陰に隠れた。
公爵とヘルマンが通り過ぎた。
公爵の横顔が、燭台の光に照らされていた。顎が引き締まっている。目に炎がある。
怒り。そして覚悟。
◇
自室に戻ったセレスティアは、寝台の上で膝を抱えた。
聖魔力の情報が宰相に届いている。
その言葉が頭の中で反響した瞬間、心臓が跳ねた。
呼吸が止まった。小さな身体が、震えた。
断頭台。斧の光。群衆の目。
――いや。
だめ。
セレスティアは歯を食いしばった。
落ち着け。考えろ。震えている暇はない。
前世より早い。
歴史を変えた代償だ。
良くも悪くも、歴史は変わっている。
宰相が次に何をするか。予測する。
前世の宰相は、聖魔力を「脅威」と断定し、排除に動いた。だがそれは十歳以降、暴走事故の後だった。今世はまだ五歳。暴走もしていない。宰相にとって、まだ「確認段階」のはずだ。
おそらく、今すぐには動かない。情報を集める段階だ。副宰相マティアスが接触してきたのも、その一環だ。
セレスティアの聖魔力が本物かどうか。制御できるかどうか。脅威のレベルはどの程度か。それを見極めてから動く。
猶予はある。だが長くはない。
二年。学園に入るまでの二年間。
その間に、魔力を制御し、味方を固め、宰相の攻撃に耐えうる態勢を作る。
セレスティアは拳を握った。
前世では、全てが手遅れだった。
今世では、間に合わせる。何としても。
窓の外に、月が出ていた。満月に近い月。白い光が部屋に差し込んでいる。
セレスティアは右手を月にかざした。
手のひらに、かすかな光が宿る。白い光。聖魔力の片鱗。
すぐに消した。制御はまだ不完全だ。ヨハンの訓練が要る。
「まにあわせる」
呟いた。月に向かって。
月は何も答えなかった。だが光は、セレスティアの銀髪を白く照らしていた。




