ディートリヒの自白
公爵家の地下牢。セレスティアがその存在を知ったのは、前世のことだった。屋敷の東棟、階段を二つ降りた先にある石造りの部屋で、窓はなく、灯りは燭台だけだ。
元は古い酒蔵だった場所を、公爵家が非常時の拘禁室に改装したものだ。長期収監を想定した牢ではないが、石壁と二重の鉄格子に囲まれ、地上へ出るには三つの鍵を通らなければならない。
死罪判決を受け、その執行を止められているディートリヒ・クラウスは、そこにいた。
王都から帰還して五日目の夜。公爵がヘルマンを伴って地下に降りた。セレスティアも、ヴォルフに付き添われて後に続いた。
本来、五歳の子供を尋問に立ち会わせる場所ではない。だが今夜聞き出す情報には、セレスティアの聖魔力と命が関わっている。父は彼女の願いを退けきれず、三つの条件をつけて傍聴を許した。内側の鉄格子より先へ出ないこと。声を立てないこと。必ずヴォルフの傍にいること。
地下へ通じる扉には二人の騎士が立ち、階段の下にも施錠された鉄格子がある。ヘルマンが鍵と封印を確認してから公爵とともに尋問室へ入り、内側から再び錠を下ろした。セレスティアは鉄格子の手前に設けられた監視用の踊り場で、ヴォルフと並んで立った。ディートリヒからは手の届かない場所だ。
石壁が反響させる声に、セレスティアは耳を澄ませた。
「ディートリヒ」
公爵の声。氷のように冷たい。
「閣下」
ディートリヒの声は、二年前とは別人だった。張りがない。枯れている。収監と、いつ執行されるか分からない死罪の重みが、この男から全ての虚勢を削ぎ落としていた。
「二年前、お前は十二年前から内通し、リリアーナを弱らせる計画に加担したと認めた。今夜、それを聞き直すつもりはない」
石壁の向こうで、ディートリヒが息を呑んだ。
「答えろ。誰がお前を引き入れた。偽造証明書を通した部署はどこだ。そして、最後の報告書に何を書いた」
長い沈黙。そして、ディートリヒが前回は伏せた名を口にした。
「始まりは副宰相マティアス・ベルンハルト殿です。私が公爵家の家臣に取り立てられて三年目、王都での任務中に声をかけられました」
副宰相マティアス。やはり、あの男が起点だった。
「最初は何気ない世間話でした。公爵家の近況を尋ねられ、差し支えない範囲でお答えした。それだけのことだと思っていました」
「だが違った」
「はい。少しずつ、質問が具体的になりました。公爵閣下のご予定。家臣団の配置。領内の財政状況。私は気づかぬうちに、情報を渡していたのです」
蛙を茹でるように、少しずつ温度を上げる。マティアスの手口だ。
「気づいた時には手遅れでした。既に私は宰相派の内通者として記録されていた。証拠を握られていた。逃げることも、告白することもできませんでした」
「脅迫されていた、と」
「はい。ですが――」
ディートリヒの声が震えた。
「それだけではありません。報酬もありました。金と、地位の約束と。私は……弱かったのです」
公爵は沈黙した。
「毒の仕組みは既に聞いた。今度は、それを可能にした部署を話せ」
空気が変わった。氷から、鉄になった。
「薬材規格の偽装は、宰相府の指示です。王宮医師団の事務方と王立検査所に宰相派の人間がおり、未希釈の灰銀草を『四倍希釈済み』とする証明書を発行していました。奥方様の処方箋そのものは、書面上は安全です。私の役目は、偽装された薬材と証明書が公爵家に届く経路を確保することでした」
「実名は知らないのか」
「書簡では符号だけでした。ですが、証明書の発行番号と薬材の搬入記録を照合すれば、担当者を絞れるはずです」
初めて、追える形の情報が出た。公爵はヘルマンに目を向け、ヘルマンが無言で頷いた。
「宰相派のネットワークを話せ。公爵領内に、お前以外の内通者はいるか」
「私が知る限り、いません。だが王都には多くの協力者がいます。貴族院の議員のうち、少なくとも三分の一は宰相派です。残りの三分の一は中立を装っていますが、実質的に宰相に逆らえません」
「毒入りの茶缶を棚へ置いた、短期雇いの女は」
「名も知りません。私は台所の納品日と配膳手順を報告しただけです。実行役は別の者が選び、別の経路で指示する。情報を渡す者と、手を下す者を会わせない。それがマティアス殿のやり方でした」
二年前、毒殺未遂の直後に捕らえた女は、ディートリヒの仲間ではなかった。ディートリヒさえ知らないところで買われた、一度限りの実行役。その証言と、今の言葉が一致した。
公爵はヘルマンに目を向けた。ヘルマンが小さく頷く。屋敷の内部に残る者については、二年前の調査で洗い直している。少なくとも、ディートリヒの知る常設の内通網は他にない。
「近衛騎士団は?」
「騎士団長ジークフリート殿は王妃派です。だが副団長は宰相の推薦で就任した人物です。騎士団の中も割れています」
「王宮魔術師団は」
「魔術師長オスヴァルト殿は中立です。学者ですので、政治には関与しない方針です。だが宰相は魔術師団の予算を握っています。予算を人質に取られれば、中立も危うい」
オスヴァルト。あの男は中立を保てるのか。
「そして――」
ディートリヒの声が、さらに低くなった。
「閣下。一つ、最も重要なことをお伝えしなければなりません」
「言え」
「セレスティア様の異常覚醒に関する報告は、既に宰相に届いています」
背中に冷たい汗がにじんだ。
「何だと」
公爵の声が変わった。氷でも鉄でもない。獣の唸りに近い声。
「いつだ。いつ漏れた」
「私が王都へ発つ際に持ち出した、最後の報告書です。セレスティア様の魔力に異常がある旨を記しました。聖魔力という言葉を知ったのは、帰還後、閣下から問われた時が初めてです。報告書にはその名を一字も書いておりません。ただ、フェリクス様が魔力学者の元を訪れていたこと、セレスティア様の魔力が通常の光属性とは異なることは記しました。宰相なら、その断片から聖魔力を疑い、調査を始めるはずです」
セレスティアは唇を噛んだ。フェリクスがヨハンを訪れていたことまで知られていた。ディートリヒの監視網はそこまで及んでいたのだ。
「宰相は今、何を考えている」
「分かりません。私は幽閉されてから外部との接触を断たれています。ですが……」
「だが?」
「宰相閣下は、聖魔力を脅威と見なすでしょう。歴史上の聖魔力保有者は、全て『管理下に置かれる』か『排除される』かの二択でした。宰相は管理できないものは排除する方です」
排除。
「閣下。お嬢様を守ってください。宰相は……容赦しません」
ディートリヒの声に、初めて本物の感情がにじんだ。公爵は立ち上がった。
「ヘルマン」
「はい」
「死罪の執行停止は継続する。恩赦ではない。だが証言できないほど衰弱させても意味がない。食事を改善しろ。それと、今後も定期的に情報を聞き出す。この男が知っていることは、まだあるはずだ」
「承知いたしました」
公爵が尋問室から戻ってくる足音が近づいた。ヘルマンが鉄格子の錠を開ける。
公爵はセレスティアの前で足を止めた。最初からそこにいると知っていた父の目だった。
「聞いたな」
「はい」
「今夜のことは、この場にいる者以外には話すな」
「やくそくします」
公爵は頷き、ヴォルフに視線を向けた。
「部屋まで送れ」
「承知しました」
公爵の横顔が、燭台の光に照らされていた。顎が引き締まっている。目に炎がある。怒り。そして覚悟。
◇
ヴォルフに送られて自室へ戻ったセレスティアは、寝台の上で膝を抱えた。
聖魔力へ辿り着き得る報告が、宰相の手元にある。
その言葉が頭の中で反響した瞬間、全身から血の気が引いた。呼吸が止まり、小さな身体が震えた。断頭台。斧の光。群衆の目。
――いや。だめ。セレスティアは歯を食いしばった。
落ち着け。考えろ。震えている暇はない。前世より早い。歴史を変えた代償だ。
良くも悪くも、歴史は変わっている。宰相が次に何をするか。予測する。
前世の宰相は、聖魔力を「脅威」と断定し、排除に動いた。だがそれは十歳以降、暴走事故の後だった。今世はまだ五歳。暴走もしていない。宰相にとって、まだ「確認段階」のはずだ。
おそらく、今すぐには動かない。情報を集める段階だ。副宰相マティアスが接触してきたのも、その一環だ。
セレスティアの聖魔力が本物かどうか。制御できるかどうか。脅威のレベルはどの程度か。それを見極めてから動く。猶予はある。だが長くはない。二年。学園に入るまでの二年間。
その間に、魔力を制御し、味方を固め、宰相の攻撃に耐えうる態勢を作る。セレスティアは拳を握った。前世では、全てが手遅れだった。
今世では、間に合わせる。何としても。窓の外に、月が出ていた。満月に近い月。白い光が部屋に差し込んでいる。セレスティアは右手を月にかざした。
手のひらに、かすかな光が宿る。白い光。聖魔力の片鱗。
すぐに消した。制御はまだ不完全だ。ヨハンの訓練が要る。
「まにあわせる」
呟いた。月に向かって。月は何も答えなかった。だが光は、セレスティアの銀髪を白く照らしていた。




