庭のお茶
庭に、小さなテーブルが出ていた。白いテーブルクロス。二つの椅子。銀のティーセット。庭師が丁寧に刈り込んだ草の上に、それだけが置かれている。リリアーナが先にいた。
白いドレス。金髪を緩く編んで肩に垂らしている。庭の光の中で、母は本当に綺麗だった。セレスティアはその姿を見るたびに、胸の奥がしんと痛む。前世の母はこんな風に座ったことが、たぶんなかった。前世の記憶の中の母は、白い寝間着を着たまま、ベッドの上にいた。午後の光の中で庭に座る体力は、なかった。
「おはよう、セレスティア」
「おはようございます、お母様」
椅子に座った。テーブルの上に、ティーポットが湯気を立てている。リンゴとシナモンの匂いに、庭の若葉と湿った土が混じる。初夏の公爵領の匂いだった。
「昨夜はよく眠れた?」
「うん。すごくよく眠れた」
「そう。良かった」
リリアーナが紅茶を注いでくれた。細い手。指が動くたびに、袖口の刺繍が揺れる。健康な人の動き。力のある手。前世では見たことのない手だった。
「お母様は? よく眠れた?」
「私は……少し目が冴えてしまったわ。ほっとしたせいかしら」
「ほっとしたのに?」
「ええ。無事に着いたと思ったら、かえって眠れなくなって。あなたは旅で疲れていないかしらと、お部屋を覗いてしまったの」
「えっ」
「起こしてしまった?」
「ぜんぜん。でも、こっそりみにきてたの?」
「寝顔を見るだけ。よく眠っていたから、満足して戻ったわ」
セレスティアは紅茶を一口飲んだ。温かい。甘い。蜂蜜が溶けている。
「お母様は、わたしが王宮にいっているあいだ、さびしかった?」
リリアーナは目を伏せた。
「寂しかった。でも、大丈夫だったわ」
「大丈夫だった?」
「帰ってくると、お話をしてくれたでしょう。殿下のことも、フリーデリケちゃんのことも、ラベンダーのことも。今日は何を聞かせてくれるかしらって、夕食を楽しみにしていたの」
「ぜんぶ、おぼえてるの?」
「ええ。マルガレーテも一緒に聞いていたでしょう。お友達と手をつないだお話をした時、あの方、目を拭いていたのよ」
セレスティアは笑った。マルガレーテが泣いている場面が、目に浮かんだ。
「マルガレーテ、すぐなくの」
「あの方は涙もろいのよ。でも強い方。私より、ずっと」
リリアーナが自分の紅茶を手に取った。静かに飲む。庭の向こうで、小鳥が鳴いている。
◇
しばらく、二人で黙って紅茶を飲んだ。沈黙が、ちっとも苦しくなかった。
誰かと同じ空気を共有して、言葉がなくても苦しくない、そういう時間を、前世では知らなかった。
今世の沈黙は違う。ただ、一緒にいる。それだけの沈黙。
「セレスティア」
「うん」
「王都で、怖いことはなかった?」
セレスティアは指を組んだ。
「ちょっとだけ」
「そう」
「でも、だいじょうぶだった」
「誰かが助けてくれた?」
「たくさんのひとが」
リリアーナが頷いた。それ以上聞かなかった。
「王都でも、わたしがおでかけしてるあいだ、おにわをあるいた?」
「ええ。別邸のお庭も、ずいぶん歩いたわ。ローレンツ先生に言われたとおり、疲れる前に椅子で休んでね。フェリクスも、お茶の時間には顔を出してくれたの」
「みんながみてたんだ、お母様のこと」
「みんな……そうね。マルガレーテも、お父様も、ローレンツ先生も。皆さんが気にかけてくれたおかげよ」
自分が傍にいない時も、母は一人ではなかった。そのことが、ただ嬉しかった。
リリアーナの目に光が滲んだ。それをごまかすように、スコーンを取った。
「食べなさい。焼きたてよ。リンゴジャムをつけると美味しいの」
「うん」
セレスティアはスコーンを一つ取った。リンゴジャムをたっぷりつけた。一口かじる。サクリ、と音がした。甘い。温かい。
「おいしい」
「良かった。お母様が焼いたのよ」
「え、おかあさまが?」
「王都でマルガレーテに教えてもらったの。あなたが授業に出ている間、別邸の厨房を少し借りて。今朝は一人で焼いてみたのよ」
「なんかい練習したの?」
「……五回」
セレスティアはまた笑った。
「五回。つよい」
「一回目は焦がして、二回目は膨らまなくて。でも五回目でやっと、マルガレーテに合格をもらったの」
「すごくおいしい」
「本当に?」
「本当に」
リリアーナが嬉しそうに笑った。その笑顔が、フリーデリケに面差しが似ていた。頑張ったことを認めてもらえた時の、素直な喜びの顔。いつも強くて、優しくて、少し頑固な母が、スコーン五回目の話をするだけで嬉しそうにしている。それが、可愛かった。
◇
お茶が終わりかける頃、風が吹いた。庭の木が揺れた。葉が数枚、テーブルの上に落ちた。リリアーナが葉を手で払いながら言った。
「来年も、こうしましょうね」
「来年?」
「ええ。来年も、再来年も。学園に入ってからは、帰省するたびにね。毎年の約束にしましょう」
何年でも。再来年も、その先も、母はここにいる。そう言った。前世の母は七歳で逝った。約束をする前に。庭でお茶をする前に。
「ずっとお茶できる?」
「できるわよ。お母様はどこにも行かないから」
どこにも行かない。前世では、母は二年後に逝った。
今世では、ここにいる。この先も、きっとここにいる。
「約束ね」
「約束よ」
リリアーナが小指を差し出した。五歳の子供のような仕草。でも母は笑っている。恥ずかしがってもいない。セレスティアは小指を絡めた。
「ゆびきり」
「ゆびきり」
二人で笑った。庭に午前の光が差している。スコーンの残り。冷めかけた紅茶。小鳥の声。前世には一度もなかった景色。
今世で初めて手に入れた、当たり前のもの。




