帰還と母の回復
五日間の帰路を終え、公爵領の門が見えた時、セレスティアは窓枠を握る指に力を込めた。
先頭の馬車はすでに門前で止まっていた。父は警備兵から帰還の報告を受けるため先に降り、母は後続の娘の馬車を迎えるため、門前に残っていた。
馬車の窓から身を乗り出す。ヴォルフが「お嬢様、危のうございます」と言ったが、止められなかった。
門の前には、金色の髪と紫の瞳を持つ女性が、白いドレスに身を包んで午後の陽光の中に立っていた。母、リリアーナ・フォン・アルヴェインだ。懐かしい屋敷を背にして娘を待つ姿が、胸の奥に残る前世の景色を鮮やかに塗り替えていく。セレスティアの目が熱くなった。
七歳のあの日。母の葬儀。白い棺。花に埋もれた、もう二度と笑わない顔。
今、母は門前で笑っている。ここが二人の帰る家だと、その笑顔が告げていた。馬車が止まるのを待てなかった。
扉が開いた瞬間、セレスティアは飛び出した。
「おかあさま!」
走った。五歳の足で、砂利の道を全力で走った。転びそうになった。構わなかった。リリアーナが両腕を広げた。セレスティアは母の胸に飛び込んだ。
温かい。柔らかい。抱きしめる腕には、確かな力がある。
「おかえりなさい、セレスティア」
母の声。穏やかで、深くて、温かい声。
「ただいま、おかあさま」
ただいま、と声にした途端、王都での八週間と、母とは別の馬車で過ごした五日間の緊張がほどけた。
「まあ、どうしたの。泣いているの?」
泣いていた。五歳の身体が感情を制御できないのか、それとも前世の記憶が溢れているのか、分からない。ただ涙が止まらなかった。
「王都ではずっと気を張っていたものね。もう大丈夫。おうちに着いたわ」
リリアーナがセレスティアの銀髪を撫でた。細い指。でも温かい指。
「あなたが帰ってくるのが嬉しくて、お茶の支度もしてもらったの。落ち着いたら一緒にいただきましょう」
「うん」
セレスティアは母の顔を見上げた。涙の向こうで、薔薇色の頬と艶やかな金髪が午後の光に滲んだ。
「おかあさま、きれい」
「あら。ありがとう」
リリアーナが笑った。花が咲くような笑顔。
「朝からそわそわしていたものだから、マルガレーテに笑われてしまったわ」
「マルガレーテも?」
「ここにおりますよ、お嬢様」
振り返ると、門の脇にマルガレーテが立っていた。いつもの黒い侍女服。柔らかな茶色の髪に銀が混じり始め、それを丁寧に結い上げた四十代の女性。目元には笑い皺が浮かんでいる。
「おかえりなさいませ。お嬢様、王都はいかがでしたか」
「マルガレーテ!」
セレスティアは母から降ろしてもらい、マルガレーテにも抱きついた。
「お疲れでしょう。お部屋も、お気に入りの兎も、お帰りを待っていますよ」
「うさぎさんも?」
「ええ。きちんと枕元におります」
変わらないやり取りが嬉しくて、セレスティアはようやく涙のまま笑った。馬車からフェリクスが降りてきた。
「母上。留守の間、屋敷の采配をありがとうございました」
「フェリクス。あなたも元気そうね。でも少し痩せたかしら? ちゃんと食べていた?」
「研究に集中していると食事を忘れるのは、僕の悪い癖です」
「ヨハン先生と同じですね」
リリアーナが溜息をついた。学者の息子は、学者の悪癖も受け継ぐらしい。
◇
公爵家の屋敷に入ると、懐かしい匂いがした。
石造りの廊下。古い木材の匂い。花瓶に活けられた野花。王都の豪奢さとは違う、どっしりとした質実の空気。
ここがセレスティアの城だ。最初の砦。三歳から築き上げてきた場所。
「セレスティア。お父様が書斎でお待ちよ」
「おとうさま!」
セレスティアは廊下を走った。マルガレーテが「お嬢様、走ってはいけません」と後ろから叫んだが、止まらなかった。
書斎の扉を叩く。
「おとうさま、セレスティアです」
「入れ」
低い声。冷たい声ではない。抑制された声。公爵ライナルトの通常運転。
扉を開けると、父が執務机の向こうに座っていた。銀髪。碧眼。左頬の古傷。厳めしい顔。
セレスティアが入ってきた瞬間、その厳めしさがほんの一瞬だけ緩んだ。他の誰にも分からない変化だったが、セレスティアには父が安堵したのだと分かった。
「おとうさま、ただいまもどりました」
「ああ」
淡々と。だがその「淡々と」の裏に、家族が無事に揃ったことへの安堵がある。この人は感情を見せない。見せないだけで、ないわけではない。
「おとうさま、おうとのこと、おはなししたい」
公爵の目が鋭くなった。政治家の目。
「今日はまず休め。明日話を聞く」
「でも――」
「セレスティア」
静かだが有無を言わせない声。
「お前はまだ五歳だ。八週間も王都にいた。身体が疲れている。まず休め」
父の配慮。政治家としてではなく、父親としての判断。
セレスティアは頷いた。「はい、おとうさま」
「……よく帰った」
最後の一言だけ、声が少し低くなった。セレスティアは書斎を出た。目頭が熱い。ヴォルフが廊下で待っていた。
「おへやにもどる」
「はい」
自室に戻ると、ベッドの上にぬいぐるみが置いてあった。兎のぬいぐるみ。マルガレーテが作ったものだ。出発前からベッドにいた古い友達。セレスティアはぬいぐるみを抱きしめた。
「ただいま」
誰に言ったのか。ぬいぐるみに。部屋に。この家に。この世界に。
窓の外に公爵領の緑が広がっている。畑と森と丘。王都とは違う、広い空。
ここが自分の場所だ。ここから始まった。ここに帰ってきた。セレスティアはベッドに横になった。
疲れが一気に押し寄せてきた。八週間分の緊張が、帰宅と同時に溶け出した。五歳の身体は、とっくに限界だったのだ。目を閉じた。今日は悪夢を見ない気がした。
帰る場所がある。それだけで、人は眠れる。
◇
翌朝、セレスティアが目を覚ますと、枕元に手紙が置いてあった。母の筆跡。
『おはよう、セレスティア。昨日は疲れていたでしょう。今日はお庭でお茶をしましょうね。――母より』
手紙の端に、小さな花の絵が描いてあった。母が描いた、素朴な花。フリーデリケの絵と同じくらい、上手ではない。セレスティアは手紙を胸に当てた。
当たり前のこと。他の子供なら当たり前のこと。だがセレスティアにとっては、奇跡だ。
三歳の時に決めた。母を救うと。毒を止めると。
止めた。救った。母は生きている。手紙を書いている。花の絵を描いている。この奇跡を、絶対に手放さない。
セレスティアは寝台から飛び起き、着替えを始めた。
今日は母とお茶をする。ただそれだけの、幸せな一日。
計画も政治も陰謀も、今日だけは忘れていい。今日だけは。五歳の少女として、母と過ごす。
それが、セレスティアにとって最も贅沢な休息だった。




