帰還と母の回復
公爵領の門が見えた時、セレスティアの心臓が跳ねた。
馬車の窓から身を乗り出す。ヴォルフが「お嬢様、危のうございます」と言ったが、止められなかった。
門の前に、人が立っていた。
金色の髪。紫の瞳。白いドレスに身を包んだ女性が、午後の陽光の中に立っている。
母だ。
リリアーナ・フォン・アルヴェインが、門前で娘の帰りを待っていた。
セレスティアの目が熱くなった。
前世の記憶が重なる。七歳のあの日。母の葬儀。白い棺。花に埋もれた母の顔。冷たかった。もう二度と笑わない顔。
今、母が立っている。自分の足で。門前で。笑っている。
馬車が止まるのを待てなかった。
扉が開いた瞬間、セレスティアは飛び出した。
「おかあさま!」
走った。五歳の足で、砂利の道を全力で走った。転びそうになった。構わなかった。
リリアーナが両腕を広げた。
セレスティアは母の胸に飛び込んだ。
温かい。柔らかい。生きている。
腕の力がある。以前の母は抱き上げることもできなかった。今は違う。しっかりとセレスティアの身体を支えている。
「おかえりなさい、セレスティア」
母の声。穏やかで、深くて、温かい声。
「おかあさま、おかあさま、おかあさま」
何度も呼んだ。名前を呼ぶことが嬉しかった。この名前を呼べることが。
「まあ、どうしたの。泣いているの?」
泣いていた。
五歳の身体が感情を制御できないのか、それとも前世の記憶が溢れているのか、分からない。ただ涙が止まらなかった。
「さみしかったの? ごめんなさいね。お母様、ちゃんとここにいるわ」
リリアーナがセレスティアの銀髪を撫でた。細い指。でも温かい指。
「セレスティア。お母様、元気になったのよ」
「ほんとう?」
「ほんとうよ。見て。顔色、良くなったでしょう?」
セレスティアは母の顔を見上げた。涙で滲んだ視界の中で、母の顔が見える。
頬に血色がある。目の下の隈がほとんど消えている。唇に色がある。髪に艶がある。
今世の母は立っている。笑っている。娘を抱きしめている。
毒が止まった。
「おかあさま、きれい」
「あら。ありがとう」
リリアーナが笑った。花が咲くような笑顔。
「お母様、セレスティアが帰ってくるのが嬉しくて、朝からそわそわしていたのよ。マルガレーテに笑われてしまったわ」
「マルガレーテも?」
「ここにおりますよ、お嬢様」
振り返ると、門の脇にマルガレーテが立っていた。いつもの黒い侍女服。銀髪の混じった金髪を丁寧に結い上げた、四十代の女性。目元に笑い皺。
「おかえりなさいませ。お嬢様、王都はいかがでしたか」
「マルガレーテ!」
セレスティアは母から降ろしてもらい、マルガレーテにも抱きついた。
「おおきくなりましたね。少しお背が伸びましたか」
「のびた? ほんとう?」
「ええ。お出かけ前より、ほんの少し」
八週間で伸びたかどうかは分からない。だがマルガレーテの優しい嘘は心地よかった。
馬車からフェリクスが降りてきた。
「母上。お元気そうで何よりです」
「フェリクス。あなたも元気そうね。でも少し痩せたかしら? ちゃんと食べていた?」
「研究に集中していると食事を忘れるのは、僕の悪い癖です」
「ヨハン先生と同じですね」
リリアーナが溜息をついた。学者の息子は、学者の悪癖も受け継ぐらしい。
◇
公爵家の屋敷に入ると、懐かしい匂いがした。
石造りの廊下。古い木材の匂い。花瓶に活けられた野花。王都の豪奢さとは違う、どっしりとした質実の空気。
ここがセレスティアの城だ。最初の砦。三歳から築き上げてきた場所。
「セレスティア。お父様が書斎でお待ちよ」
「おとうさま!」
セレスティアは廊下を走った。マルガレーテが「お嬢様、走ってはいけません」と後ろから叫んだが、止まらなかった。
書斎の扉を叩く。
「おとうさま、ただいまもどりました」
「入れ」
低い声。冷たい声ではない。抑制された声。公爵ライナルトの通常運転。
扉を開けると、父が執務机の向こうに座っていた。銀髪。碧眼。左頬の古傷。厳めしい顔。
だがセレスティアが入ってきた瞬間、その厳めしさが一瞬だけ緩んだ。ほんの一瞬。他の誰にも分からない変化。
だがセレスティアには分かった。父が「安堵した」のだと。
「おとうさま、おかあさま、げんきになってた」
「ああ。薬を正したからな」
淡々と。だがその「淡々と」の裏に、妻の回復を喜ぶ感情がある。この人は感情を見せない。見せないだけで、ないわけではない。
「おとうさま、おうとのこと、おはなししたい」
公爵の目が鋭くなった。政治家の目。
「今日はまず休め。明日話を聞く」
「でも――」
「セレスティア」
静かだが有無を言わせない声。
「お前はまだ五歳だ。八週間も王都にいた。身体が疲れている。まず休め」
父の配慮。政治家としてではなく、父親としての判断。
セレスティアは頷いた。「はい、おとうさま」
「……よく帰った」
最後の一言だけ、声が少し低くなった。
セレスティアは書斎を出た。目頭が熱い。
ヴォルフが廊下で待っていた。
「おへやにもどる」
「はい」
自室に戻ると、ベッドの上にぬいぐるみが置いてあった。兎のぬいぐるみ。マルガレーテが作ったものだ。出発前からベッドにいた古い友達。
セレスティアはぬいぐるみを抱きしめた。
「ただいま」
誰に言ったのか。ぬいぐるみに。部屋に。この家に。この世界に。
窓の外に公爵領の緑が広がっている。畑と森と丘。王都とは違う、広い空。
ここが自分の場所だ。ここから始まった。ここに帰ってきた。
セレスティアはベッドに横になった。
疲れが一気に押し寄せてきた。八週間分の緊張が、帰宅と同時に溶け出した。五歳の身体は、とっくに限界だったのだ。
目を閉じた。
今日は悪夢を見ない気がした。
帰る場所がある。それだけで、人は眠れる。
◇
翌朝。
セレスティアが目を覚ますと、枕元に手紙が置いてあった。
母の筆跡。
『おはよう、セレスティア。昨日は疲れていたでしょう。今日はお庭でお茶をしましょうね。――母より』
手紙の端に、小さな花の絵が描いてあった。母が描いた、素朴な花。フリーデリケの絵と同じくらい、上手ではない。
セレスティアは手紙を胸に当てた。
当たり前のこと。他の子供なら当たり前のこと。だがセレスティアにとっては、奇跡だ。
三歳の時に決めた。母を救うと。毒を止めると。
止めた。救った。母は生きている。手紙を書いている。花の絵を描いている。
この奇跡を、絶対に手放さない。
セレスティアは寝台から飛び起き、着替えを始めた。
今日は母とお茶をする。ただそれだけの、幸せな一日。
計画も政治も陰謀も、今日だけは忘れていい。
今日だけは。
五歳の少女として、母と過ごす。
それが、セレスティアにとって最も贅沢な休息だった。




