社交シーズンの終わり
王宮教育課程の最終日を迎え、八週間に及んだ王都滞在も終わろうとしていた。
最後の授業は、子供たちの前でそれぞれが「学んだこと」を発表するという、簡素な修了式だった。
教育棟の広間には椅子が半円形に並べられ、中央に発表台が置かれていた。ヘンリエッテ教師が進行を務め、オスヴァルトは後方で腕を組んで見守っている。保護者の参観はなく、ここにいるのは教師と子供たちだけだった。
父は領地の仕事を片づけるため、先に帰る案を出していた。だが、宰相派の監視が続くなかで家族を分散させるのは危険だ。結局、父母とも修了式まで王都に残り、帰路は同じ車列で戻ることになった。先頭には父母の馬車を置き、中央を子どもたちの馬車、前後を護衛騎士が固める。王都別邸の管理はナターシャに託し、必要な人員だけを残した。
「帰りの馬車は別になるけれど、同じ車列よ。門に着いたら、先に降りて待っているわ」
出立の朝、母はそう言って、なかなかセレスティアを抱く腕をほどかなかった。母の馬車と離れるのは不安だったが、護衛の配置も、フェリクスとヴォルフが同じ車列にいることも確認してある。その温もりを思い出しているうちに修了式が始まり、最初にコンラートが立った。
「俺は、礼法がちょっと分かった。フォークは左で持つ」
あまりに簡潔な発表に会場が静まり、ヘンリエッテ教師は困ったように額へ手を当てた。
「コンラート様。もう少し、詳しくお話しくださいませんか」
「あと、背筋を伸ばす。以上」
それでも堂々としているところが、ある意味では立派だった。セレスティアが笑いを堪える中、次にフリーデリケが立った。
「わたしは、お友達ができました。セレスティアちゃんと、アレクシス殿下と、お花の名前をたくさん覚えました。マーガレットと、ラベンダーと、えっと……」
花の名前を十個以上並べる、いかにもフリーデリケらしい発表に温かな拍手が起きた。続くヴィオレッタの発表は、隙のないものだった。
「私はこの課程を通じて、王国の未来を担う方々と交流する機会を得ました。礼法、歴史、魔術基礎、全てにおいて新たな知見を――」
六歳とは思えないほど格調高い言葉だが、与えられた模範解答を暗唱しているような硬さがあった。
セレスティアはヴィオレッタの金色の目に、この八週間で生まれた僅かな変化を見つけた。ほかの誰にも分からないほど小さなものだった。次に立ったルシアンは、腕を組んだまま発表した。
「馬術の先生がいなかったのが不満だ。次は馬術も入れてほしい」
内容は不満の表明なのに、声にはいつもの刺がなかった。僅かではあるが、確かな変化だった。イザベラの発表は簡潔だった。
「有意義な時間でした。以上です」
それだけで終わったが、セレスティアは図書室で交わした会話を覚えている。イザベラの「以上です」の裏に、言葉にしなかった思いがあることも知っていた。
アレクシスの番が来た。王太子は真っ直ぐに立ち、全員の顔を見渡した。
「僕は、この課程で大切なことを学びました」
声は微かに震えていたが、アレクシスは言葉を止めなかった。
「怖い時に、誰かの手を引くこと。それが王子の務めだと、思いました」
セレスティアの胸が熱くなった。あの日に交わした言葉も、アレクシスがフリーデリケの手を引いたことも、彼は覚えていたのだ。
アレクシスはセレスティアの方を一瞬だけ見た。目が合った。碧と蒼。そして、セレスティアの番。
発表台に立った。みんなの顔が見える。コンラートの退屈そうな顔。フリーデリケの期待に満ちた顔。ヴィオレッタの観察する目。イザベラの冷静な目。ルシアンのそっぽを向いた横顔。アレクシスの真っ直ぐな目。
「わたしがまなんだこと」
セレスティアは五歳らしいゆっくりとした声で話し始めた。
「みんな、ちがうっていうこと」
一度息を継ぎ、みんなの顔をもう一度見渡した。
「コンラートさまは、つよくて、まっすぐ。フリーデリケちゃんは、やさしくて、おはなのなまえをたくさんしってる。ヴィオレッタさまは、かしこくて、すごい。ルシアンさまは、おうまがだいすきで、かっこいい。イザベラさまは、するどくて、おもしろい。殿下は、やさしくて、つよい」
一人ずつ、名前を呼んだ。一人ずつ、良いところを言った。会場が静まった。
「みんなちがって、みんなすごい。わたしはそれをまなびました」
幼く拙い言葉だった。それでも、この場にいる子供たち全員の名前を呼び、一人ずつ良さを語った五歳児に、何人かが目を丸くしていた。
コンラートが照れたように顎を引いた。フリーデリケが嬉しそうに手を叩いた。ヴィオレッタが僅かに目を伏せた。ルシアンが「べ、別に」と呟いた。イザベラは無表情だったが、紫の瞳が揺れた。
アレクシスが微笑んだ。
ヘンリエッテ教師が拍手をした。「素晴らしいですね、セレスティア様」
後方では、オスヴァルトが腕を組んだまま何かを考える目をしていた。やがて全員の発表が終わり、修了式は閉会した。
◇
広間を出た後、子供たちがそれぞれに別れの挨拶をした。フリーデリケがセレスティアに抱きついた。
「セレスティアちゃん、またね。おてがみかくね。ぜったいだよ」
「うん。ぜったいかくね」
コンラートが無骨に手を差し出した。「また会おう。次は俺が強くなってる」
セレスティアはその手を握った。「たのしみ。コンラートさまならすぐつよくなるよ」
ヴィオレッタは目を合わせなかった。だが通り過ぎる時に、小さく呟いた。
「次は負けないわ」
何に負けたのか、セレスティアはあえて聞かなかった。
イザベラは何も言わなかった。ただ、すれ違いざまに小さく折り畳んだ紙片をセレスティアの掌へ押し込み、そのまま振り返らずに歩き去った。
セレスティアは紙片をひとまずポケットへ滑り込ませた。廊下の角から、ルシアンが声をかけてきた。
「おい。ノワールに会いに来るって約束、忘れるなよ」
「わすれないよ。やくそくだもん」
「約束なんか――」
言いかけて、ルシアンは口を噤んだ。何かを飲み込むように喉を動かし、そっぽを向いて去っていった。最後に、アレクシス。
「セレスティア」
「殿下」
「また会えるよね?」
「もちろんです。つぎは、がくえんで」
「学園か。そうだね。七歳になったら」
アレクシスがポケットからハンカチを出した。セレスティアがあの日渡したハンカチ。きれいに洗われ、丁寧に折り畳まれている。
「返すよ。洗った」
「さしあげたのに」
「借りたものは返す。父上に教わった」
セレスティアは受け取った。ハンカチからは、かすかにラベンダーの香りがした。王妃の部屋に飾ってあるラベンダー。アレクシスの母の香り。
「また貸してほしい時は、言うから」
アレクシスが笑った。五歳の少年の、嘘のない笑顔。
「はい。いつでも」
去っていく金髪の少年には、侍従カスパルが付き従っていた。疑いだけで手を出すことはできないが、二年後に学園へ入ったら、必ず彼の問題にも向き合おうと決めた。
◇
帰りの車列の中央にはセレスティアとヴォルフの馬車がいた。先頭を父母の馬車、後方をヨハンとの最後の打ち合わせを終えたフェリクスの馬車と護衛騎士が固めている。王都別邸の管理を任されたナターシャだけは、別邸に残った。
馬車が王都の石畳を走り始めた。窓の外に、王宮の塔が遠ざかっていく。
セレスティアはポケットからイザベラの紙片を取り出した。
小さく折り畳まれた紙を開くと、整った筆跡で一行だけ書かれていた。
『雨の日のことは覚えている。――I』
末尾のイニシャルはイザベラのものだ。図書室での会話も、それを父へ報告しなかったことも覚えているという意思表示だった。セレスティアは紙片を握りしめた。
宰相が築いた壁に入った小さな罅が、前より少しだけ広がったのだ。セレスティアは紙片をヴォルフへ差し出した。
「次の休憩で、誰にも見られないように燃やして」
ヴォルフは文字に目を落とさず、紙片を革の書類入れへ収めた。これで道端に証拠を残すこともない。
馬車は王都の門を出て、公爵領へ続く長い街道に入った。
この八週間で得たものは多い一方、「無名の五歳児」という安全な立場は失った。
セレスティアは窓の外を見た。街道の並木が流れていく。
次は学園だ、とセレスティアは心の中で告げた。
七歳で入る王立クレセンティア学園初等部こそ、本当の戦場になる。子供たちが大人の縮図として争い、派閥や同盟、裏切りが生まれる場所だ。だが今世では、すでにいくつもの種を蒔いている。
これからの二年間、公爵領で力を蓄え、魔力を磨き、知識を深めながら、その種を育てよう。そして七歳で、一人の友もいなかった前世とは違う形で王都へ戻る。決意に応えるように馬車が揺れた。
ヴォルフは変わらず寡黙に、窓の外を見張っている。
セレスティアはヴォルフの背中を見て、小さく微笑んだ。
この騎士も、兄も、父も、母もいる。もう一人ではないから、これからも戦える。
馬車は公爵領に向かって走り続けた。夕陽が街道を金色に染めている。
馬車の窓には、五歳の少女の影が長く伸びていた。その影の中に、前世十八年分の記憶と、これから書き換える未来が重なっている。
街道の先に、公爵領の灯りが見え始めた。母が待つ家へ、馬車は静かに近づいていった。




