社交シーズンの終わり
王宮教育プログラムの最終日。
八週間。長いようで短い王都滞在が終わる。
最後の授業は、子供たちの前でそれぞれが「学んだこと」を発表するという、簡素な修了式だった。
教育棟の広間。椅子が半円形に並べられ、中央に発表台が置かれている。アンネリーゼ教師が進行を務め、オスヴァルトが後方で腕を組んで見守っている。
保護者の参観はない。子供たちだけの場だ。
最初にコンラートが立った。
「俺は、礼法がちょっと分かった。フォークは左で持つ」
それだけ。会場が静まった。アンネリーゼ教師が額に手を当てた。
「コンラート様。もう少し、詳しくお話しくださいませんか」
「あと、背筋を伸ばす。以上」
堂々としている。ある意味で立派だった。セレスティアは笑いを堪えた。
次にフリーデリケ。
「わたしは、お友達ができました。セレスティアちゃんと、アレクシス殿下と、お花の名前をたくさん覚えました。マーガレットと、ラベンダーと、えっと……」
花の名前を十個以上並べた。フリーデリケらしい発表だった。温かい拍手が起きた。
ヴィオレッタは完璧だった。
「私はこのプログラムを通じて、王国の未来を担う方々と交流する機会を得ました。礼法、歴史、魔術基礎、全てにおいて新たな知見を――」
七歳とは思えない格調高い言葉。だが機械的だ。与えられた答えを暗唱しているような。
セレスティアはヴィオレッタの目を見た。紫の瞳に、この八週間でほんの僅かな変化がある。他の誰にも分からない程度に。
ルシアンは腕を組んで発表した。
「馬術の先生がいなかったのが不満だ。次は馬術も入れてほしい」
不満の表明。だが声にいつもの刺がない。ほんの僅か、だが確かに。
イザベラは簡潔だった。
「有意義な時間でした。以上です」
それだけ。だがセレスティアは知っている。あの図書室での会話を。イザベラの「以上です」の裏にあるものを。
アレクシスの番が来た。
王太子は真っ直ぐに立ち、全員の顔を見渡した。
「僕は、このプログラムで大切なことを学びました」
声が微かに震えている。だが止まらない。
「怖い時に、誰かの手を引くこと。それが王子の務めだと、思いました」
セレスティアの胸が熱くなった。あの日の言葉を。フリーデリケの手を引いたことを。覚えている。
アレクシスはセレスティアの方を一瞬だけ見た。目が合った。碧と蒼。
そして、セレスティアの番。
発表台に立った。みんなの顔が見える。コンラートの退屈そうな顔。フリーデリケの期待に満ちた顔。ヴィオレッタの観察する目。イザベラの冷静な目。ルシアンのそっぽを向いた横顔。アレクシスの真っ直ぐな目。
「わたしがまなんだこと」
五歳の声で、ゆっくりと。
「みんな、ちがうっていうこと」
一呼吸。
「コンラートさまは、つよくて、まっすぐ。フリーデリケちゃんは、やさしくて、おはなのなまえをたくさんしってる。ヴィオレッタさまは、かしこくて、すごい。ルシアンさまは、おうまがだいすきで、かっこいい。イザベラさまは、するどくて、おもしろい。殿下は、やさしくて、つよい」
一人ずつ、名前を呼んだ。一人ずつ、良いところを言った。
会場が静まった。
「みんなちがって、みんなすごい。わたしはそれをまなびました」
子供の言葉だ。幼い。拙い。だがこの場にいる子供たちの全員の名前を呼び、全員の良さを語った五歳児に、何人かが目を丸くしていた。
コンラートが照れたように顎を引いた。フリーデリケが嬉しそうに手を叩いた。ヴィオレッタが僅かに目を伏せた。ルシアンが「べ、別に」と呟いた。イザベラは無表情だったが、紫の瞳が揺れた。
アレクシスが微笑んだ。
アンネリーゼ教師が拍手をした。「素晴らしいですね、セレスティア様」
オスヴァルトが後方で腕を組んだまま、何かを考える目をしていた。
修了式が終わった。
◇
広間を出た後、子供たちがそれぞれに別れの挨拶をした。
フリーデリケがセレスティアに抱きついた。
「セレスティアちゃん、またね。おてがみかくね。ぜったいだよ」
「うん。ぜったいかくね」
コンラートが無骨に手を差し出した。「また会おう。次は俺が強くなってる」
セレスティアはその手を握った。「たのしみ。コンラートさまならすぐつよくなるよ」
ヴィオレッタは目を合わせなかった。だが通り過ぎる時に、小さく呟いた。
「次は負けないわ」
何に負けたのか。セレスティアは聞かなかった。
イザベラは何も言わなかった。ただ、すれ違う時にセレスティアの手に何かが触れた。
紙片。
小さく折り畳まれた紙が、セレスティアの掌に押し込まれた。イザベラはそのまま歩き去った。振り返らない。
セレスティアは紙片をポケットに滑り込ませた。ヴォルフにも見えないように。
ルシアンは廊下の角から声をかけた。
「おい。レオナールに会いに来るって約束、忘れるなよ」
「わすれないよ。やくそくだもん」
「約束なんか――」
言いかけて、ルシアンは口を噤んだ。何かを飲み込むように喉を動かし、そっぽを向いて去っていった。
最後に、アレクシス。
「セレスティア」
「殿下」
「また会えるよね?」
「もちろんです。つぎは、がくえんで」
「学園か。そうだね。七歳になったら」
アレクシスがポケットからハンカチを出した。セレスティアがあの日渡したハンカチ。きれいに洗われ、丁寧に折り畳まれている。
「返すよ。洗った」
「さしあげたのに」
「借りたものは返す。父上に教わった」
セレスティアは受け取った。ハンカチからは、かすかにラベンダーの香りがした。王妃の部屋に飾ってあるラベンダー。アレクシスの母の香り。
「また貸してほしい時は、言うから」
アレクシスが笑った。五歳の少年の、嘘のない笑顔。
「はい。いつでも」
金髪の少年が去っていく。侍従カスパルが傍に付き従う。
だが今は手が出せない。証拠がない。
二年後だ。学園に入ったら、カスパルの問題にも取り組む。
◇
帰りの馬車。
セレスティアはヴォルフと二人きりだった。フェリクスは別の馬車で、ヨハンとの最後の打ち合わせをしている。
馬車が王都の石畳を走り始めた。窓の外に、王宮の塔が遠ざかっていく。
セレスティアはポケットからイザベラの紙片を取り出した。
小さく折り畳まれた紙。開くと、整った筆跡で一行だけ書かれていた。
『雨の日のことは覚えている。――I』
イザベラのイニシャル。
図書室での会話を覚えている。報告しなかったことを覚えている。
セレスティアは紙片を握りしめた。
小さな罅。前より少しだけ広がった。
紙片を破り、窓の外に放った。証拠は残さない。
馬車は王都の門を出た。街道に入る。公爵領への長い帰路。
得たものは多い。だが失ったものもある。「無名の五歳児」という安全な立場を失った。
セレスティアは窓の外を見た。街道の並木が流れていく。
(次は学園だ)
七歳。王立学園初等部。そこが本当の戦場だ。
子供たちが大人の縮図として争い始める場所。派閥が形成され、同盟が結ばれ、裏切りが起きる場所。
今世は違う。種は蒔いた。
二年間で、その種を育てる。公爵領で力を蓄え、魔力を磨き、知識を深める。
そして七歳で王都に戻る。今度は、一人の友もいなかった前世とは違う形で。
馬車が揺れた。
ヴォルフが窓の外を見張っている。寡黙に。忠実に。
セレスティアはヴォルフの背中を見て、小さく微笑んだ。
この騎士がいる。兄がいる。父がいる。母がいる。
一人じゃない。
だから戦える。
馬車は公爵領に向かって走り続けた。夕陽が街道を金色に染めている。
五歳の少女の影が、馬車の窓に長く伸びていた。
小さな影。だがその影の中に、十八年分の記憶と、書き換えるべき未来の全てが詰まっている。
社交シーズンは終わった。
だがセレスティアの戦いは、始まったばかりだ。




