ヴォルフの過去
ヴォルフが眠らない夜がある。
セレスティアは知っていた。別邸の自室の扉の向こうに、この騎士が立ち続ける夜があることを。
普段は交代制だ。ヴォルフと、もう一人の護衛騎士が四刻ずつ交代する。だが時折、ヴォルフは交代せず一晩中立っている。
今夜がそうだった。
副宰相の接触があった日から三日後の夜。セレスティアは寝付けなかった。前世の夢を見たからだ。
法廷の夢。証人席に立つ人々。指を突きつけてくる貴族たち。そして――刃。
目が覚めた。汗が冷たい。心臓が痛い。
扉の向こうに、気配がある。
セレスティアは寝台を降り、裸足で扉に近づいた。小さな手で、扉を少しだけ開ける。
廊下の燭台の弱い光の中に、ヴォルフが立っていた。
壁に背を預けず、剣の柄に手を添え、まっすぐに立っている。二十三歳の騎士。長身。灰色の短髪。暗がりの中でも鋭い緑の目。
セレスティアが扉を開けたことに、ヴォルフはすぐ気づいた。
「お嬢様。お目覚めですか」
「ねむれないの」
「……悪い夢ですか」
セレスティアは頷いた。
ヴォルフは一瞬だけ迷い、それから片膝をついてセレスティアの目線に合わせた。
「お部屋にお戻りになりますか。温かい飲み物をお持ちしましょうか」
「いい。ヴォルフとおはなしがしたい」
「私と、ですか」
「うん。ヴォルフもねてないでしょ」
ヴォルフの目が僅かに見開かれた。気づかれていたことに驚いたのだ。
「……護衛の務めですので」
「きょうはこうたいのひじゃないよ。ヴォルフのばん、もうおわってるよ」
沈黙。
ヴォルフは交代時間を過ぎても立ち続けていた。それをセレスティアに指摘された。
「……お嬢様は、よくお気づきになりますね」
「ヴォルフのこと、みてるから」
五歳の少女の言葉。だが嘘ではない。セレスティアはヴォルフを見ている。前世から、ずっと。
前世のヴォルフ。セレスティアの専属騎士。寡黙で忠実で、最後の最後まで傍にいた男。処刑が決まった時、ヴォルフだけが辞職を申し出なかった。公爵家が崩壊し、他の騎士が去った後も、独房の前に立ち続けた。
処刑の朝。ヴォルフは剣を抜いた。処刑を止めようとしたのだ。近衛騎士に取り押さえられた。セレスティアは牢の中からその音を聞いた。金属がぶつかる音。ヴォルフの声。
「お嬢様に手を出すな」
無駄な抵抗だった。だがヴォルフは最後まで抵抗した。
「ヴォルフ。おへやにはいって。いっしょにすわろう」
「お嬢様、深夜に騎士が令嬢のお部屋に入るのは――」
「いいの。わたしがいれてっていったの」
ヴォルフは逡巡し、それから静かに部屋に入った。扉を少しだけ開けたまま。騎士としての礼節。
セレスティアは寝台の端に座り、ヴォルフは扉の傍に立った。
「すわって」
「立っております」
「おねがい」
ヴォルフは溜息をつき、壁際に腰を下ろした。剣は手元に置いたまま。
月明かりが窓から差し込んでいる。白い光が部屋を淡く照らしている。
「ヴォルフ」
「はい」
「ヴォルフって、ちいさいころ、どんなこだった?」
沈黙が長かった。ヴォルフが自分の過去を語ることは、ほとんどない。セレスティアは前世でも断片的にしか知らない。
「……私は孤児です」
静かな声だった。
「王都の南区で生まれました。親の顔は知りません。物心ついた時には、路地裏で暮らしていました」
路地裏。王都の暗部。浮浪児が溢れる場所。盗みを覚え、喧嘩を覚え、生き延びる術を叩き込まれる場所。
「八つの時に、公爵家の馬車を襲いました」
「えっ」
「食い詰めて。仲間と三人で、馬車の荷物を盗もうとしたのです」
セレスティアは息を呑んだ。前世では知らなかった話だ。
「公爵閣下が直接、馬車から降りてこられました」
「おとうさまが?」
「はい。八歳の浮浪児三人を前に、剣を抜くでもなく、騎士を呼ぶでもなく、ただ立って、こう仰いました」
ヴォルフの目が遠くなった。十五年前の記憶を見ている。
「『腹が減っているのか。ならば食わせてやる。だが盗みはするな。盗みは弱い者のすることだ。お前は弱いのか?』」
「私は答えました。『弱くない』と。嘘でした。弱いから盗みをしていたのです。でも、あの時、あの方の前で『弱い』とは言えなかった」
「……それで?」
「公爵閣下は私を馬車に乗せ、公爵家に連れ帰りました。仲間の二人も。三人とも公爵家の使用人見習いとして引き取られました」
セレスティアの目が熱くなった。
父はそういう人だ。冷徹で合理的に見えるが、根本に「弱者を拾う」強さがある。
「仲間の一人は料理人になりました。もう一人は公爵領の農夫になりました。私は――剣を選びました」
「どうして?」
「公爵閣下にお返しをしたかった。命を救ってくださった恩を。だが私には学もなければ才覚もない。できるのは身体を張ることだけでした」
ヴォルフは自分の手を見た。大きな手。剣胼胝がある手。
「騎士の訓練は厳しかった。何度も辞めようと思いました。だが辞めれば路地裏に戻る。あの暗い場所に。だから歯を食いしばって続けました」
「それで、つよくなったの」
「強いかどうかは分かりません。ただ、立ち続けることはできるようになりました」
立ち続ける。今夜もそうだ。交代時間を過ぎても、立ち続けている。
「お嬢様のお傍に配属された時、公爵閣下に言われました。『この子を守れ。命に代えても』と」
「おとうさまが」
「最初は、赤子のお守りかと思いました。騎士の務めではないと」
ヴォルフの唇の端が、ほんの僅かに上がった。この男にしては珍しい表情の変化。
「しかしお嬢様を見ているうちに、分かりました。この方は普通のお子ではない。守るべき方だと」
「わたし、ふつうじゃない?」
「三歳の時に、初めてお会いした日のことを覚えています。お嬢様は私を見上げて、こう仰いました」
セレスティアは記憶を辿った。三歳の頃。ヴォルフと初めて会った日。
「『ヴォルフ、よろしくね』と。三歳のお嬢様が、初対面の騎士の名を知っていた。誰も紹介していないのに」
セレスティアの背筋が冷えた。
前世の記憶だ。ヴォルフの名前を知っていたのは、前世で長年傍にいたから。それを三歳の自分がうっかり口にしてしまっていた。
「……マルガレーテにきいたの」
「マルガレーテ殿に確認しましたが、お嬢様にお名前をお伝えしていないと仰っていました」
嘘が通じていなかった。二年も前のことを、ヴォルフは覚えている。
「それ以来、私はお嬢様を観察してきました。普通の子供ではないことは確かです。何を見て、何を知っているのか、私には分かりません。分かる必要もありません」
ヴォルフの目がセレスティアを捉えた。緑の目。暗がりの中で光る、獣のような目。
「私の務めは守ることです。お嬢様が何者であろうと、私はお傍を離れません」
セレスティアの喉が詰まった。
「ヴォルフ」
「はい」
「わたし、こわいゆめをみるの。くびを……きられるゆめ」
声が震えた。
今まで誰にも言えなかった言葉。フリーデリケにも、フェリクスにも、父にも母にも。
首を切られる夢。それは「悪夢」ではない。「記憶」だ。実際に起きたことだ。
なぜヴォルフに言えたのか、自分でも分からない。ただ、この男の前では、嘘をつかなくてもいいと思った。
ヴォルフは顔色を変えなかった。
五歳の少女が「首を切られる夢を見る」と言った。普通なら動揺する。原因を問う。心配する。
ヴォルフは何もしなかった。ただ、膝の上の剣に手を置いた。
「誰にも切らせません」
低い声。鉄のような声。
「この剣にかけて。お嬢様の首には、誰一人、指一本触れさせません」
誓い。騎士の誓い。形式ではない。命を賭けた誓い。
セレスティアの目から涙が落ちた。
堪えようとしたが、堪えられなかった。五歳の身体は、感情の制御が効かない。
泣いた。声を殺して。拳を握って。
ヴォルフは動かなかった。慰めもしなかった。背中をさすりもしなかった。
ただそこにいた。
騎士として。壁として。盾として。
泣き止むまで、ヴォルフはそこにいた。
◇
翌朝。
セレスティアが目を覚ました時、ヴォルフは部屋の外に立っていた。いつもの位置に。いつもの姿勢で。
昨夜のことは、なかったかのように。
「おはよう、ヴォルフ」
「おはようございます、お嬢様」
いつもの声。いつもの目。
だがセレスティアには分かった。ヴォルフの立ち方が、昨日と違う。
剣の位置が、ほんの少し前に出ている。いつでも抜けるように。
五歳の少女の告白が、騎士の覚悟を一段階引き上げた。
セレスティアは小さく笑った。
「きょうもよろしくね、ヴォルフ」
「はい。お嬢様」
寡黙な騎士は、それだけを答えた。
それだけで十分だった。
(この人は——必要がなくなるまで、ここを離れない。そしてその日が来たら、静かに場所を空けるのだろう。ヴォルフは、そういう人だ)




