副宰相の接触
それは、王宮教育プログラムの七週目に起きた。
午前の授業が終わり、子供たちが中庭で自由時間を過ごしている最中のことだった。
セレスティアはフリーデリケと花壇の前にいた。フリーデリケが花の絵を描きたいと言い出し、セレスティアが花の名前を教える、という穏やかな時間。
「セレスティアちゃん、この紫のお花はなんていうの?」
「ラベンダーだよ。いいにおいがするの」
「描けた! 見て見て」
フリーデリケが差し出した紙には、紫の丸い塊が描かれていた。花というよりは葡萄に近い。だが六歳の少女の一所懸命な筆致に、セレスティアは素直に笑った。
「じょうずだね」
「えへへ」
その時、影が差した。
文字通りの影。太陽を背にして、一人の男が二人の少女を見下ろしていた。
セレスティアの全身が凍った。
マティアス・ベルンハルト。
副宰相。宰相ヴィクトール・ド・ガルニエの右腕。情報操作の専門家。前世でセレスティアの有罪証拠を捏造した、あの男。
四十代前半。柔和な顔立ち。穏やかな茶色の目。口元に常に微笑みを湛えている。一見すると善良な紳士。子供が警戒しない種類の大人。
だがセレスティアは知っている。この微笑みの裏に何があるか。
前世の法廷。証拠として提出された「セレスティアの手紙」。王太子暗殺計画を示す手紙。あれを偽造したのが、この男だ。筆跡鑑定さえ通るほど精巧な偽造。セレスティア自身が「自分が書いたのか」と一瞬疑ったほどの。
「おや、可愛らしいお嬢様方ですね」
マティアスの声は柔らかい。温かい毛布のような声。
フリーデリケが無邪気に顔を上げた。「こんにちは」
「こんにちは。何をなさっているのですか?」
「おはなのえを描いてるの!」
「まあ、それは素敵ですね。見せていただけますか?」
フリーデリケが嬉しそうに絵を見せる。マティアスは絵を覗き込み、感嘆の声を上げた。
「お上手ですね。この紫はラベンダーですか? 色使いがとても繊細です」
フリーデリケの頬が赤くなった。大人に褒められて嬉しいのだ。
セレスティアは微動だにしなかった。笑顔を貼り付けたまま。五歳児としての笑顔を。
呼吸を整える。三秒吸う。三秒止める。心臓の鼓動を抑える。
恐怖を顔に出すな。警戒を悟らせるな。この男の前では、ただの五歳児でいろ。
マティアスの目がセレスティアに向いた。
「そちらは……ああ、アルヴェイン公爵のお嬢様ですね。セレスティア様」
「はい。マティアスさま、はじめまして」
初めましてではない。前世で何度も顔を合わせている。だが今世は初対面だ。
「お噂はかねがね。公爵閣下のお子様は皆様ご優秀と伺っていますが、末のお嬢様も大変聡明でいらっしゃるとか」
世間話の体裁。だが一語一語が計算されている。「聡明」という言葉を投げ込み、セレスティアの反応を見ている。
「わたし、あたまよくないです。おにいさまたちのほうがすごいです」
謙遜。五歳児の素朴な謙遜。フェリクスとエドヴァルトの名前を出すことで、自分から注意を逸らす。
マティアスは微笑んだ。目が笑っていない。
いや――目も笑っている。完璧に。この男の恐ろしさは、嘘が顔に出ないことだ。宰相ヴィクトールは「微笑の裏に冷徹さがある」と分かる男だ。だがマティアスには裏がない。裏があること自体が見えない。
だからこそ、最も危険なのだ。
「フリーデリケ様。絵がお好きなのですね。今度、王宮の画廊をご案内しましょうか。素晴らしい絵画がたくさんございますよ」
「ほんとう? 行きたい!」
フリーデリケが飛びついた。セレスティアの胸が軋んだ。
「セレスティア様も、ご一緒にいかがですか?」
「ありがとうございます。おとうさまにきいてみます」
距離を置く回答。自分では判断しない。父に聞く。五歳児として自然で、かつ副宰相との接触を父の承認制にする。
マティアスは頷いた。「もちろん、公爵閣下のご許可をいただいてからで。ご無理は申しません」
紳士的。完璧に紳士的。だからこそ警戒が浸透しない。
マティアスは中庭を見回した。子供たちが遊んでいる光景。コンラートが木剣を振り、アレクシスがそれを見学し、ルシアンが離れた場所で地面を蹴っている。
「王宮教育プログラムは素晴らしい取り組みですね。未来の王国を担う子供たちが、こうして交流する。宰相閣下も大変お喜びです」
宰相の名前を出した。さりげなく。「宰相がこのプログラムを管轄している」という事実を、セレスティアに刷り込もうとしている。
「さいしょうさまって、えらいひとなんですよね?」
わざと聞いた。無知な五歳児の質問。
「ええ、国王陛下のお傍で国を治めるお方です。とても立派な方ですよ」
「おとうさまよりえらいの?」
マティアスの目が一瞬だけ光った。ほんの刹那。セレスティアでなければ見逃していた。
「公爵閣下は公爵閣下のお立場で、宰相閣下は宰相閣下のお立場で、それぞれ王国に尽くしておられます。どちらが偉いということではありませんよ」
模範的な回答。政治家の回答。だがその一瞬の光は、「公爵家の娘がどう思っているか」を探る目だった。
この男は、セレスティアを「値踏み」しに来たのだ。
魔力暴走事件の前に退出した公爵令嬢。王太子に接近する公爵令嬢。宰相の娘イザベラと図書室で会話する公爵令嬢。
全てが報告されている。副宰相の耳に。
「セレスティア様。一つお伺いしてもよろしいですか?」
「なんですか?」
「先日の魔力暴走事件。お身体に異常はございませんでしたか? お早めに退出されたと聞きましたが」
来た。
セレスティアの心臓が速まる。だが顔には出さない。
「おなかがいたくなって、でたの。そしたらそのあと、どかんってなったんだって。こわかった」
同じ嘘。何度も繰り返した嘘。アレクシスには見破られ、イザベラにも見破られた嘘。
マティアスにはどう映る。
副宰相は穏やかに頷いた。
「それは大変でしたね。お腹の具合は、もう大丈夫ですか?」
「うん、もうだいじょうぶ」
「それはよかった。お身体は大切にしてくださいね」
追及しなかった。
だがそれは「信じた」という意味ではない。「今は追及しない」という判断だ。
「では、お二人ともお元気で。楽しい時間を過ごしてくださいね」
マティアスは優雅に会釈し、去っていった。歩き方にも隙がない。穏やかで、脅威を感じさせない。
彼の背中が建物の中に消えるまで、セレスティアは笑顔を保ち続けた。
消えた瞬間、膝が震えた。
「セレスティアちゃん? どうしたの?」
フリーデリケが心配そうに覗き込んだ。
「なんでもない。ちょっとおひさまがまぶしくて」
嘘をつく。また嘘。何度嘘をつけばいいのか。
ヴォルフが近づいてきた。彼はマティアスとセレスティアの会話を、少し離れた場所から見ていた。
「お嬢様」
低い声。ヴォルフの目に警戒の色がある。この騎士は副宰相の「何か」を感じ取ったのだ。
「ヴォルフ、あのひと、だれ?」
わざと聞いた。ヴォルフの認識を確認するために。
「副宰相マティアス・ベルンハルト殿です。宰相閣下の側近中の側近」
「やさしいひとだったね」
ヴォルフは一秒の間を置いた。
「……左様でございますか」
同意しなかった。ヴォルフは「優しい人だった」とは言わなかった。この騎士の直感は正しい。
◇
その夜。
別邸の自室で、セレスティアは寝台の上に座り、考えていた。
副宰相の接触。これは偶然ではない。宰相派がセレスティアを「調査対象」に格上げした証拠だ。
前世では、セレスティアが宰相派の視野に入ったのは十歳の魔力暴走以降だった。それまでは「公爵家の病弱な母を持つ、取るに足りない末娘」に過ぎなかった。
今世は違う。五歳にして既にマークされている。
早すぎる。動きすぎた。
いや。動かなければ母は死んでいた。王太子は宰相の手先になっていた。何も変わらなかった。
リスクを取った結果が、副宰相の接触だ。
問題は、ここからどう動くか。
セレスティアは窓の外を見た。王都の夜空。星が見えない。灯りが多すぎるからだ。
「……引けない」
呟いた。
引けば母が危ない。毒は止まったが、宰相派がいつまでも放置するとは思えない。別の手段で来る可能性がある。
引けば、イザベラの小さな罅が閉じてしまう。アレクシスとの信頼が薄れる。ナターシャの情報網が枯れる。
ここまで積み上げたものを、恐怖で手放すわけにはいかない。
「でも、きをつけなきゃ」
マティアスは宰相より危険だ。宰相は「方針」で動く。副宰相は「情報」で動く。方針は読める。情報は読めない。どこから何を掴まれているか分からない。
扉が叩かれた。
「お嬢様。フェリクス様がお見えです」
ナターシャの声。セレスティアは姿勢を正した。
「おにいさま、どうぞ」
フェリクスが入ってきた。手に本を抱えている。いつもの光景だが、今夜のフェリクスの顔は硬い。
「セレスティア。今日、副宰相と話したそうだな」
もう伝わっている。ヴォルフからか、別のルートからか。
「うん。おはなのえをみせてくれたの」
「どんな話をした」
フェリクスの声は穏やかだが、その奥に緊張がある。十五歳の兄は、妹が宰相派の高官と接触したことの意味を正確に理解している。
セレスティアは会話の内容をそのまま伝えた。子供の言葉で。花の絵。画廊の案内。宰相は偉い人か。魔力暴走事件のこと。
フェリクスは眼鏡を押し上げた。
「値踏みだな」
「ねぶみ?」
「お前の能力を測りに来た。魔力暴走事件の前に退出したことが、宰相派の中で話題になっている。偶然か、それとも何かを感じ取ったのか。五歳児にそんな能力があるのか。それを確認しに来たんだ」
フェリクスの分析は正確だった。
「わたし、ちゃんとごさいじにみえた?」
「副宰相をごまかせたかどうかは分からない。あの男は宰相より読みにくい」
「当面は不用意な行動を控えろ。魔力の訓練も、ヨハン先生のところへ行く時は経路を変える。同じ道を使うな」
「うん」
「それと――父上に報告しておく。副宰相が直接接触してきたことは、父上の耳に入れるべきだ」
セレスティアは頷いた。
フェリクスは立ち上がりかけ、ふと振り返った。
「セレスティア」
「なに」
「怖かったか」
沈黙が落ちた。
セレスティアは考えた。嘘をつくべきか。兄にまで弱みを見せるべきではないか。
だがフェリクスの目を見て、決めた。
「こわかった」
正直に。
フェリクスはセレスティアの頭に手を置いた。大きな手。学者の手。でも温かい手。
「怖い時は俺に言え。お前は一人じゃない」
ヨハンと同じ言葉。一人じゃない。
前世では誰も言ってくれなかった言葉を、今世では何度も聞ける。
「ありがとう、おにいさま」
フェリクスが出ていった後、セレスティアは寝台に横になった。
天井を見つめる。
副宰相マティアス・ベルンハルト。宰相の影。情報の蜘蛛。
この男をどう扱うか。
前世では、セレスティアはマティアスの存在に気づくことすらできなかった。全てが終わった後で、法廷の記録を読んで初めて知った。証拠を捏造したのがこの男だと。
今世では顔を知っている。手口を知っている。
知っているということは、対策が打てるということだ。
マティアスが情報で攻めるなら、こちらも情報で守る。
蜘蛛が蜘蛛と戦うなら、より細い糸をより多く張った方が勝つ。
セレスティアは目を閉じた。
明日から、また動く。慎重に。だが止まらずに。
副宰相の微笑みが、瞼の裏にちらつく。
あの微笑みを、いつか法廷で崩してやる。
前世のお返しだ。
五歳の少女は拳を握り、眠りについた。
夢の中でも、計算は止まらなかった。




