イザベラの本音
雨の日だった。
王宮教育プログラムの午後、突然の豪雨で中庭での自由時間が中止になった。子供たちは教育棟の中で過ごすことになり、それぞれが思い思いの場所に散った。
フリーデリケは窓辺で雨を見ている。コンラートは空き教室で素振りの真似事。アレクシスは侍従と話している。ルシアンは姿が見えない。
セレスティアは図書室に向かった。小さな図書室だ。教育棟の一角にある、子供向けの本が並ぶ部屋。
扉を開けると、先客がいた。
イザベラ・ド・ガルニエ。
窓際の椅子に座り、本を読んでいた。分厚い革表紙の本。七歳の少女が読むには難しそうな本だ。
セレスティアが入ってきたことに気づき、イザベラが顔を上げた。
紫の瞳。いつもの冷たい光。だが今日は――少し、疲れて見えた。
「あら。セレスティア」
「イザベラさま、こんにちは。おひとりですか」
「ええ。雨の日は静かで好きよ」
意外な言葉だった。イザベラは常に人に囲まれている印象がある。宰相の娘として社交の中心にいる。だが「静かで好き」と言う。
セレスティアは本棚を眺める振りをしながら、イザベラを観察した。
本を読む姿勢は完璧だ。背筋が伸び、ページをめくる指先が優雅。だが目が本の文字を追っていない。ページが進んでいない。
読んでいる振りをしているだけだ。
考え事をしている。
セレスティアは一冊の絵本を手に取り、イザベラの近くの椅子に座った。距離は取る。近すぎず、遠すぎず。
しばらく沈黙が続いた。雨音だけが部屋を満たしている。
「セレスティア」
イザベラが先に口を開いた。
「なに?」
「あなた、魔力暴走の時、先に出たでしょう」
また聞かれた。ヴィオレッタにもアレクシスにも聞かれた質問。
「おなかがいたかったの」
「嘘ね」
直球。イザベラは回りくどいことを言わない。
「どうしてうそだとおもうの?」
「あなたの目。出る直前、一瞬だけ魔力炉を見たわ。普通の人間は見ない場所を」
見ていた。イザベラは見ていた。
七歳の宰相の娘の観察力。恐ろしいほど鋭い。
「……イザベラさまは、するどいね」
「お父様に鍛えられたの。人の嘘を見抜けなければ、宰相の娘は務まらない」
皮肉ではない。事実の陳述だ。だがその声の奥に、何かがある。
セレスティアは慎重に言葉を選んだ。
「イザベラさまは、すごいね。なんでもできるし、れいほうもかんぺきだし」
「できて当然よ。できなければ叱られるもの」
叱られる。
セレスティアの耳が引っかかった。「叱られる」ではなく「叱られるもの」。習慣を語る口調。日常的に叱られている。
「イザベラさま、おとうさまにおこられるの?」
イザベラの目が一瞬揺れた。
「怒られるんじゃないわ。教育されるの。違いがあるのよ」
「ちがうの?」
「怒りは感情。教育は方針。お父様は感情で動く方ではないわ」
七歳の少女が「感情」と「方針」を区別している。誰に教わったのか。宰相本人にだろう。
セレスティアはイザベラの目をじっと見た。紫の瞳。深い色。この目の奥に、何があるのか。
雨が強くなった。窓ガラスを叩く音が激しくなる。
イザベラが本を閉じた。膝の上に置いて、窓の外を見た。
「ねえ、セレスティア」
「なに?」
「あなたは、自分で選べていいわね」
心臓が止まるかと思った。
イザベラの声が変わっていた。冷たい令嬢の声ではない。七歳の少女の、生の声。
「えらべる?」
「友達を。服を。言葉を。何をするか、どこに行くか。あなたは自分で決めているでしょう」
セレスティアは黙った。
確かにそうだ。セレスティアは自分で動いている。フリーデリケと友達になったのも、アレクシスに話しかけたのも、自分の判断だ。
「イザベラさまは、えらべないの?」
イザベラは窓の外を見たまま、低い声で答えた。
「服はお父様が決めるわ。今日着ているこのドレスも。交友関係もお父様が管理しているわ。誰と話していいか、誰と話してはいけないか。本も――読んでいい本と、いけない本がある」
読んでいい本といけない本。七歳の子供の読書まで管理している。
「将来の婚約者も、もう決まっているの。私が何を望んでいるかなんて、聞かれたことはないわ」
セレスティアは息を呑んだ。
「……それは、さみしくない?」
イザベラがセレスティアを見た。紫の瞳が揺れている。
「寂しい? そんなこと、考えたこともないわ」
嘘だ。考えたことがないはずがない。今この瞬間、口にしているのだから。
「寂しいかどうかなんて、どうでもいいの。私は宰相の娘よ。それが私の役割なの」
役割。七歳の少女が自分の人生を「役割」と呼んでいる。
セレスティアの中で、何かが痛んだ。
この子は敵だ。宰相の娘だ。前世では宰相の手先として動いた。イザベラの存在が、セレスティアの破滅に加担した。
だが目の前にいるのは七歳の少女だ。自分で何も選べず、父の操り人形として生きている子供。
同情するな。同情で判断を曇らせるな。
だが――
「イザベラさま」
「なに」
「わたし、イザベラさまとおはなしするの、すき。イザベラさまはあたまがよくて、おもしろいから」
イザベラが目を見開いた。
「……面白い? 私が?」
「うん。ほかのひとはわたしに『かわいいね』としかいわないけど、イザベラさまは『うそね』っていう。それがおもしろい」
イザベラの唇が微かに動いた。笑おうとしたのだ。だが途中で止めた。笑うことを許されていないかのように。
「変な子ね。普通は嫌がるわ」
「わたし、ふつうじゃないもん」
それは本当のことだった。前世の記憶を持つ五歳児。普通ではない。
イザベラは窓の外に視線を戻した。
「セレスティア。一つだけ言っておくわ」
「なに?」
「私はあなたの味方にはなれない。お父様がそれを許さないから」
直球の宣言。だが敵意ではない。事実の提示だ。
「でも」
イザベラの声が少しだけ柔らかくなった。
「この図書室で話したことは、お父様には報告しないわ」
セレスティアは息を呑んだ。
だが「この会話は報告しない」と言った。
七歳の少女が、父への小さな反逆を選んだ。
「ありがとう、イザベラさま」
「礼を言う必要はないわ。これは私の判断よ。私が選んだの」
選んだ。
イザベラが「自分で選んだ」と言った。おそらく初めて。
セレスティアは微笑んだ。
しかし――この瞬間を、記憶に刻んでおく。
イザベラが自分の意志で選んだ瞬間を。いつか、この少女が自分の意志で「味方」を選ぶ日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
それは分からない。
だが可能性は、ゼロではなくなった。
◇
雨が止んだ。
窓の外に虹が架かっていた。薄い虹。すぐに消えるだろう。
「にじ」
セレスティアが呟いた。
イザベラは虹を見なかった。もう本を開いて、今度は本当に読んでいた。
冷たい令嬢の仮面が、再び降りていた。
だがセレスティアは知っている。仮面の下に、七歳の少女がいることを。
図書室を出る時、セレスティアは振り返らなかった。
振り返れば、イザベラは警戒する。自然に。さりげなく。何事もなかったように立ち去る。
廊下に出ると、ヴォルフが待っていた。
「お嬢様」
「なんでもないよ。おほんよんでただけ」
ヴォルフは頷いた。何も聞かない。いつも通り。
セレスティアは歩きながら考えた。
イザベラを敵から味方に変えることは、おそらく最も難しいことの一つだ。
宰相の娘。管理された人生。選ぶ自由のない少女。
だが今日、彼女は一つだけ選んだ。「報告しない」という選択を。
小さな罅だ。壁に入った、ほんの僅かな罅。
罅はいつか道になる。
――なるかもしれない。ならないかもしれない。
それでも、罅がないよりはましだ。
セレスティアは窓の外を見た。虹はもう消えていた。
だが空は、さっきより少しだけ明るかった。




