ナターシャの成長
ナターシャが泣いていた。
別邸の裏庭。洗濯物を干す場所。午後の日差しの中で、十四歳の侍女が膝を抱えてうずくまっていた。
セレスティアは二階の窓からそれを見つけた。
「ヴォルフ」
「はい」
「ナターシャのところにいく」
ヴォルフは何も聞かずに付き従った。
裏庭に降りると、ナターシャは慌てて涙を拭った。
「お、お嬢様! 申し訳ございません、みっともないところを」
「どうしたの、ナターシャ」
「何でもございません。ただ、少し――」
「うそ。ないてた」
ナターシャの目がまた潤んだ。堪えようとしているが、堪えきれない。
セレスティアはナターシャの隣に座った。石段の上。五歳の令嬢が十四歳の侍女の隣に腰を下ろす。
「おはなしして。きくから」
ナターシャは唇を噛んだ。言うべきか迷っている。主人に愚痴をこぼすのは侍女として失格だ、と思っているのだろう。
だがセレスティアの碧い目がまっすぐにナターシャを見つめている。その目に促されるように、ナターシャはぽつりぽつりと話し始めた。
「王都の……他のお屋敷の侍女さんたちに……」
「いじめられた?」
ナターシャが頷いた。
「平民の侍女なんて珍しいと言われました。公爵家に仕えるのに身分が低すぎると。田舎の農家の娘が公爵家の侍女なんて、笑い話だと」
「それだけ?」
「……髪を引っ張られました。水をかけられました。洗濯物を汚されました」
セレスティアの手が拳になった。
十六歳の少女が、同じ使用人たちにいじめられている。理由は身分が低いから。ただそれだけで。
「だれ」
「え?」
「だれがやったの」
ナターシャは首を振った。「お嬢様にご迷惑をおかけするわけには」
「めいわくじゃない。ナターシャはわたしのたいせつなひと。たいせつなひとをいじめるやつは、わたしのてきだよ」
ナターシャが目を見開いた。
五歳の令嬢が「私の大切な人」と言い、「私の敵」と言った。子供の言葉だ。だがその碧い目には、子供らしからぬ重みがあった。
「ガルニエ家の……宰相家の侍女頭が中心です。エルザという方。他の侍女たちはエルザさんに逆らえなくて……」
宰相家の侍女頭。
セレスティアの目が細くなった。
「わかった」
セレスティアは立ち上がった。
「お嬢様、何をなさるおつもりですか」
「ナターシャ、あした、わたしといっしょにおちゃかいにいって」
「茶会? でもお嬢様、私のような者が――」
「わたしのつきそいとして。おきがえとか、おちゃのじゅんびとか、ぜんぶナターシャにやってもらう。おきゃくさまのまえで」
ナターシャの顔が青ざめた。貴族の茶会に平民の侍女が同席する。それがどれほど異例か、ナターシャは分かっている。
「お嬢様、それは――」
「わたしがきめたの。ナターシャはわたしのじじょうちょうよ。じじょうちょうがおちゃかいにでるのは、あたりまえでしょ?」
侍女長。マルガレーテが公爵領で担っている役職だ。王都ではナターシャがその代理を務めている。
名目は立つ。だが実態は五歳の令嬢が十四歳の侍女を守るために、わざわざ茶会に連れ出すということだ。
「お嬢様……」
ナターシャの目から涙が落ちた。今度は悲しみの涙ではない。
「ありがとうございます」
「なかないで。あした、きれいにしていくよ。マルガレーテにかみをやってもらって」
ナターシャは何度も頷いた。
◇
翌日の茶会。
王宮教育プログラムの保護者向け交流会。令嬢たちの侍女も同席する、格式張らない集まり。
セレスティアはナターシャを連れて会場に入った。
ナターシャは緊張で顔が強張っていたが、身なりは整えてある。マルガレーテが髪を結い、控えめだが清潔感のある侍女服を着せた。
会場には他の令嬢の侍女たちがいた。
その中に、エルザがいた。
三十代の女性。痩せた顔に薄い唇。目が鋭い。宰相家の侍女頭としての誇りが全身から滲み出ている。ナターシャを見た瞬間、エルザの唇がわずかに歪んだ。嘲りの表情。
セレスティアはそれを見逃さなかった。
茶会が始まった。令嬢たちがテーブルにつき、侍女たちが後ろに控える。
セレスティアはわざとナターシャに目立つ仕事を頼んだ。
「ナターシャ、おちゃをついで」
「は、はい」
ナターシャの手が震えている。だがこぼさなかった。公爵領で叩き込まれた作法が身体に染みついている。注ぐ角度。引く速度。完璧ではないが、十分に美しい所作。
「ナターシャ、おかしをとって」
「はい、お嬢様」
焼き菓子を銀のトングで皿に移す。これも丁寧だ。
フリーデリケが目を丸くした。「セレスティアちゃんの侍女さん、上手だね」
「うん。ナターシャはなんでもできるの。すごいんだよ」
セレスティアは声を張った。わざと。周囲に聞こえるように。
「ナターシャはわたしのいちばんのじじょうちょうなの。おうちのマルガレーテのつぎにたいせつなひと」
会場が一瞬静まった。
五歳の公爵令嬢が、平民の侍女を「一番大切な人」と公言している。貴族社会の常識では考えられない発言だ。
エルザの顔から笑みが消えた。
侍女を「大切な人」と呼ぶ令嬢がいる。その侍女をいじめることは、その令嬢を敵に回すことだ。
公爵家の令嬢を敵に回す。それがどういう意味か、使用人たちは分かっている。
セレスティアはエルザの方を見た。目が合った。
五歳の碧い瞳と、三十代の女の目。
セレスティアは微笑んだ。無邪気な笑顔。子供の笑顔。
だがその笑顔の下にあるものを、エルザは感じ取ったのだろう。視線を逸らした。
◇
茶会の後、ナターシャの表情が変わっていた。
怯えが消えている。完全にではないが、背筋が伸びている。
「お嬢様。私、もっと頑張ります」
「がんばらなくていいよ。ナターシャはもうじゅうぶんすごい」
「でも、お嬢様がここまでしてくださったのに、私が弱いままでは」
「よわくないよ。ないてもいいの。でもないたあと、またたてばいいの」
ナターシャはしばらく黙り、それから深く頭を下げた。
「お嬢様。私は一生、お嬢様にお仕えいたします」
忠誠の言葉。だがこの言葉には、形式を超えた重みがあった。
セレスティアは内心で頷いた。
前世でナターシャは、セレスティアのために全てを捧げた。独房に食事を運び、処刑の前夜まで傍にいてくれた。その恩を、今世で返したい。
「ナターシャ」
「はい」
「おうとのおやしきのひとたちと、なかよくなれる?」
「他のお屋敷の使用人たちとですか?」
「うん。おともだちつくって。いろんなおはなしきいて。おしえて」
ナターシャは首を傾げた。だがすぐに理解した。
「……情報をお集めになりたいのですか」
鋭い。この子は鋭い。前世でもそうだった。
「ナターシャ、おねがいできる?」
「もちろんです。お嬢様のお役に立てるなら、何でもいたします」
ナターシャの目に光が宿った。使命を与えられた人間の目。ただの侍女ではない。セレスティアの手足になる覚悟の目。
「でも、あぶないことはしないでね。ぜったい」
「はい。お約束します」
セレスティアはナターシャの手を握った。五歳の小さな手と、十四歳の少女の手。
「ありがとう、ナターシャ」
「お嬢様こそ。私を……私のような者を、大切にしてくださって」
ナターシャの声が震えた。だが涙は流さなかった。もう泣かないと決めた顔だった。
◇
それから数日で、ナターシャは変わった。
王都の使用人ネットワークに、少しずつ入り込み始めた。市場で買い物をする時に他の屋敷の侍女と言葉を交わし、洗濯場で噂話を仕入れ、茶会の片付けを手伝いながら情報を集める。
ナターシャには人に好かれる才能があった。明るく、真面目で、嘘がない。使用人たちはナターシャを信頼し、少しずつ口を開いた。
「お嬢様。宰相家の使用人が最近増えたそうです」
「ふうん」
「副宰相のマティアス様が、新しい書記官を雇ったと。その書記官、前は王宮医師団の事務方にいた人だそうです」
王宮医師団。母の処方箋を操作していた機関。そこから宰相派に人が移動している。
証拠隠滅か。処方箋操作の痕跡を知る人間を、宰相の直接管理下に置いた。
「ナターシャ、ありがとう。もっときいてきて」
「はい、お嬢様」
セレスティアの「諜報網」が、静かに動き始めていた。
五歳の令嬢と十四歳の侍女。小さな、だが確かな情報の糸が、王都に張り巡らされていく。
宰相は気づいていない。自分の足元で、蜘蛛の糸が一本ずつ張られていることに。
蜘蛛は五歳の少女だ。
銀の髪に碧い瞳の、小さな蜘蛛。




