フェリクスと魔力学者ヨハン
王都には、表に出ない学者たちがいる。
王宮の裏通りに面した石造りの古い建物。看板はない。窓は曇りガラスで中が見えない。知る者だけが訪れる場所。
フェリクスがセレスティアをそこに連れてきたのは、王都滞在の六週目のことだった。
「ここにヨハン先生がいる。魔力学の権威だ。僕の師でもある」
十五歳のフェリクスは、眼鏡の奥の目を光らせていた。学者が同族の学者に会う時の、あの特有の高揚感。
「おにいさまのせんせい?」
「王都学術院の元教授だ。今は在野の研究者として、独自に魔力学の研究をしている。王宮の学者たちとは……少し折り合いが悪い」
「おりあい?」
「考え方が違うんだ。王宮の学者は宰相の意向に従う。ヨハン先生は従わない。だから追い出された」
宰相の意向に従わない学者。それだけでセレスティアの中で信頼度が上がった。
扉を叩くと、しばらくして内側から物音がした。本が崩れる音。何かがぶつかる音。「あいたた」という声。
扉が開いた。
痩せた男が立っていた。四十代半ば。ぼさぼさの栗色の髪。度の強い眼鏡。白衣は染みだらけで、袖がまくり上げられている。目の下に深い隈。頬がこけている。食事を忘れて研究に没頭する人間の顔だ。
「おお、フェリクスか。約束の日か。すまん、すっかり忘れておった」
「先生、いつも通りですね」
「まあ入れ入れ。散らかっているが気にするな。――おや、そちらの小さいのは」
ヨハンの目がセレスティアに向いた。
その瞬間、ヨハンの表情が変わった。
学者の目。オスヴァルトとは違う種類の、もっと無邪気で、もっと貪欲な知的好奇心の目。
「フェリクス。この子は」
「妹のセレスティアです。先生にお見せしたいものがあって」
「見せたいもの……」
ヨハンはセレスティアの前にしゃがみ込んだ。顔が近い。眼鏡の奥の目が、セレスティアの全身を舐めるように観察している。
「……これは」
ヨハンの手が震えた。
「フェリクス。この子、魔力が――」
「はい。先生なら分かると思いました」
ヨハンは立ち上がり、部屋の奥に走った。本の山を掻き分け、棚の奥から器具を引っ張り出す。水晶の棒。金属の輪。魔力測定器だ。
「計測させてくれ。頼む。お願いだ」
学者の目が狂気じみていた。長年追い求めてきたものが目の前にある時の、あの目。
セレスティアはフェリクスを見た。フェリクスが頷いた。
「だいじょうぶ。いたくない?」
「痛くない痛くない。水晶の棒を握るだけだ。ほら」
ヨハンが水晶の棒を差し出した。透明な水晶。長さ三十センチほど。
セレスティアは呼吸を整えた。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
魔力を制御する。光と闇。どちらも抑えず、どちらも暴走させず。自然体のまま。
水晶の棒を握った。
光った。
白と黒。二つの光が水晶の中で渦を巻いた。白い光が棒の上半分を、黒い光が下半分を満たし、中央で二つの色が混じり合っている。混ざる境界線で、銀色の輝きが生まれた。
ヨハンの眼鏡が光を反射した。
「聖魔力」
声が震えている。
「光と闇の共存。しかもこの密度は……」
ヨハンは机に駆け寄り、ペンを掴み、紙に数字を走らせた。
「魔力密度指数、概算で……いや、これは……歴代最高クラスだ。文献に記録されている聖魔力保有者は過去五百年で三人。その中でも最も高かったのが二百年前の聖女マリエルだが……この子はそれを超えている可能性がある」
フェリクスの目が見開かれた。
「超えている?」
「あくまで概算だ。正確な測定にはもっと精密な装置が要る。だが間違いなく規格外だ」
ヨハンはセレスティアに向き直った。
「お嬢さん。その力を、今どの程度制御できている?」
「すこし。いきをとめると、しずかになる」
呼吸法のことだ。フェリクスに教わった基礎制御。
「呼吸法か。基礎の基礎だな。だがそれだけでこの密度の魔力を安定させているのは……驚異的だ」
ヨハンは椅子に座り、額を押さえた。
「フェリクス。この子の力は、正しく制御すれば国を救う力になる」
セレスティアの心臓が速まった。
「だが間違えれば――国を滅ぼしかねない」
沈黙が落ちた。
前世のセレスティアは、十歳で魔力が暴走した。制御できなかった。その暴走が、「危険な存在」というレッテルの始まりだった。
今世では暴走させない。絶対に。
「せんせい」
セレスティアはヨハンを見上げた。
「わたし、ちゃんとつかえるようになりたい。このちから」
ヨハンの目が丸くなった。五歳児が「力を使えるようになりたい」と明確に意志を示している。
「……君は、怖くないのか。この力が」
「こわいです。でも、こわいからにげたら、もっとこわいことになる」
前世の経験だ。逃げた結果が処刑台だった。
ヨハンは眼鏡を外し、目を擦った。
「フェリクス。この子は五歳か?」
「五歳です」
「……五歳か」
ヨハンは眼鏡をかけ直し、真剣な目でセレスティアを見た。
「いいだろう。教えよう。魔力制御の基礎から。正しい方法で」
「ほんとう?」
「ただし条件がある。週に一度、ここに来ること。そして、絶対に無理をしないこと。五歳の身体は器が小さい。聖魔力は器を超えた力だ。無理をすれば器が壊れる。つまり――」
「しんじゃう?」
「最悪の場合、そうだ」
セレスティアは頷いた。
「やくそくする。むりしない」
ヨハンは溜息をついた。だがその目は、教師が新しい弟子を得た時の光を宿していた。
「よし。まず基本から。呼吸法は知っているようだから、次の段階だ。光と闇を分離して、片方ずつ制御する練習。利き手に光を。反対の手に闇を。同時に保持する」
「できる? わたしに」
「できるかどうかは、やってみなければ分からん。だが才能はある。それだけは確かだ」
ヨハンが水晶の棒を二本用意した。右手用と左手用。
「やってみろ」
セレスティアは深呼吸し、両手にそれぞれの棒を握った。
右手に光を。左手に闇を。
意識を二つに分ける。身体の右半分と左半分。光と影。昼と夜。
右手の水晶が白く光った。左手の水晶が黒く光った。
二つの光が、互いに干渉しようとする。光が闇を飲み込もうとし、闇が光を侵食しようとする。
抑える。両方を。どちらも暴走させない。
「……くっ」
五歳の身体が軋む。器が小さい。ヨハンの言う通りだ。聖魔力の総量に対して、身体の容量が圧倒的に足りない。
右手の光が揺らいだ。左手の闇が膨らんだ。バランスが崩れかける。
「離せ!」
ヨハンの声で、セレスティアは反射的に棒を手放した。
二つの水晶が机の上に転がった。光は消えた。
セレスティアの額に汗が浮かんでいた。息が荒い。
「……二秒。まずまずだ」
ヨハンが時計を見ながら言った。
「初回で二秒保持できれば上等だ。普通の光属性の子供なら、光だけでも五秒が限界だ。お前は光と闇の同時制御を二秒。才能は本物だ」
「もっと、やりたい」
「今日はここまでだ。身体に負荷がかかっている。明日も来い。少しずつ伸ばしていく」
フェリクスがセレスティアの額の汗を布で拭いた。
「無理するなと言っただろう」
「むりしてない。あと一ぷんはいけた」
「嘘をつくな。顔が青いぞ」
ヨハンが笑った。師と弟子と、その兄。奇妙な三人だが、不思議と座りがいい。
「フェリクス、お前がこの子の管理役だ。練習の後は必ず体調を確認しろ。異常があればすぐに中断」
「分かりました」
「そしてこのことは――」
ヨハンの目が真剣になった。
「絶対に外に漏らすな。聖魔力の存在が正式に確認されたと知られれば、この子は政治に利用される。今以上に」
今以上に。ヨハンは「今も利用されかけている」と分かっている。鋭い男だ。
「誰にも言いません」
「私は学者だ。政治には興味がない。だがこの子の力を正しく育てることには、命を賭ける価値がある」
ヨハンの目に、純粋な知的情熱が燃えていた。
この男は味方だ。オスヴァルトとは違う種類の味方。オスヴァルトが「研究対象としてのセレスティア」に関心を持っているのに対し、ヨハンは「教え子としてのセレスティア」に向き合おうとしている。
「せんせい、ありがとう」
「礼はまだ早い。お前がこの力を使いこなせるようになった時に、礼を言え」
セレスティアは頷いた。
◇
帰り道、フェリクスと並んで歩きながら、セレスティアは手のひらを見つめた。
右手と左手。光と闇。
二秒。たった二秒しか同時保持できなかった。
前世では、十歳で暴走した。制御を学ぶ機会がなかった。誰も教えてくれなかった。聖魔力は禁忌とされ、セレスティアは一人で抱え込んだ。
今世は違う。
一人じゃない。
「おにいさま」
「なんだ」
「ヨハンせんせい、いいひとだね」
「ああ。変人だが、本物の学者だ。王宮を追い出されたのは、宰相の教育政策を批判したからだ。『子供の才能は政治の道具にするな』と」
セレスティアは足を止めた。
子供の才能は政治の道具にするな。
その言葉は、自分自身に刺さった。セレスティアは自分の力を政治の道具にしようとしている。宰相を倒すために。家族を守るために。
ヨハンが知ったら、何と言うだろう。
だが仕方がない。道具にしなければ、殺される。前世の結末がそれを証明している。
力は使うものだ。使わなければ、使われる。
「おにいさま、つぎのれんしゅう、いつ?」
「三日後だ。身体を休めてからだ」
「はーい」
素直に返事した。だが心の中では、今夜から呼吸法の精度を上げる練習を始めるつもりだった。
二秒を三秒に。三秒を五秒に。五秒を十秒に。
いつか、この力で世界を変える日のために。
王都の夕暮れの中、銀髪の少女と銀髪の青年が並んで歩いた。
兄の歩幅は大きいが、今日は妹に合わせてくれた。




