王妃の密談
母がやってきた。
王妃エレオノーラの招きで、リリアーナが王宮を訪れた。
馬車から降りた母の姿を見て、セレスティアは息を呑んだ。
顔色が違う。頬に血色がある。目の下の隈が薄くなっている。髪に艶が戻り始めている。何より、自分の足でしっかりと地面を踏みしめている。以前は馬車を降りるだけで侍女の手を借りていたのに。
毒が止まって数週間。人の身体というのは、毒が抜ければこうも変わるものか。
「おかあさま!」
セレスティアは走った。五歳の足で、別邸の玄関から駆け出して、母の腕に飛び込んだ。
「まあ、セレスティア。お行儀が悪いわよ」
リリアーナは笑いながらセレスティアを抱きしめた。その腕に力がある。以前は抱き上げることもできなかった腕が、今はしっかりとセレスティアの小さな身体を支えている。
温かい。
この温もりを守った。自分の手で。三歳の手で蒔いた種が、こうして実を結んでいる。
「おかあさま、げんきになった?」
「ええ。お薬を変えてもらったら、嘘みたいに楽になったの。フェリクスのおかげよ」
フェリクスのおかげ。そう思ってくれていい。フェリクスが処方箋の異常に気づき、父が薬を止めさせた。それが表の経緯だ。
その全てを仕組んだのが三歳の娘だったとは、母は知らない。知らなくていい。
「おうひさまにあうの?」
「ええ。エレオノーラとは昔からの親友なの。久しぶりにお会いするのが楽しみだわ」
母の目が輝いている。旧友との再会を心待ちにする女性の顔。病人の顔ではない。生きている人間の顔だ。
◇
王宮の奥まった一室。
王妃の私的な茶室だった。豪華だが落ち着いた内装。窓辺に白いカーテンがたなびき、テーブルには銀のティーセットと焼き菓子が並んでいる。
王妃エレオノーラが立ち上がって迎えた。
「リリアーナ。元気そうで本当によかった」
「エレオノーラ。お久しぶり」
二人の女性が抱き合った。形式的な抱擁ではない。本物の友情の抱擁だ。
セレスティアはその光景を見つめていた。
「リリアーナ、顔色が良くなったわ。前にお会いした時は心配したけれど」
「ありがとう。薬を変えてもらったら、嘘みたいに楽になったの」
王妃の目が一瞬だけ鋭くなった。「薬を変えた」という言葉の裏に何があるか、この女性は察している。
「そう。良い変化ね」
それ以上は追及しなかった。王妃は聡明な人だ。踏み込むべき時と、引くべき時を知っている。
侍女たちが茶を注ぎ、退室した。部屋にはリリアーナ、エレオノーラ、そしてセレスティアだけが残った。
五歳の子供は足元で絵本を読んでいる体裁だ。実際には耳を澄ませている。
「エレオノーラ」
リリアーナの声が変わった。社交の声ではない。友人としての、本音の声。
「宰相の力が強すぎます。陛下は……」
「分かっているわ」
王妃は紅茶のカップを置いた。
「陛下は……お優しいお方よ。でも優しすぎる。宰相の言葉を疑わない。いいえ、疑えないの。宰相が国政を回しているのは事実だから。実績がある人間に逆らうのは、理屈に合わないと仰る」
「でも、あの方は分かっていないの。宰相が国を回しているのは、宰相が国を握っているからよ。情報も人事も財政も、全て宰相の手の中。陛下には宰相を通さずに動かせるものが何もない」
リリアーナの目が厳しくなった。
「それは――もはや国王ではなく、宰相が国主ということ?」
「そこまでは言わないわ。でも、近い。そしてアレクシスの教育にも宰相が口を出し始めている。王太子の家庭教師の人選。学問の方向。交友関係。全てに」
セレスティアの手が止まった。絵本のページをめくる振りをしながら、一語も聞き逃さない。
「私は抵抗しているわ。でも一人では限界がある」
王妃の声に疲労がにじんだ。
「後宮の侍女たちの半分は宰相派の息がかかっている。私の動きは全て報告されている。信頼できるのは数人だけ」
孤立。王妃も孤立している。宰相に包囲されている。
リリアーナが王妃の手を握った。
「エレオノーラ。私たちのお家は、宰相と戦うと決めました。夫が……ライナルトが決断したの」
王妃の目が光った。
「公爵が?」
「はい。詳しくは言えないけれど……私たちの家で、宰相派の陰謀が発覚したの。それがきっかけで、夫の目が覚めたのだと思う」
毒のことだ。母は全てを知っているわけではないが、公爵が宰相派と戦う決意をしたことは知っている。
王妃は長い沈黙の後、リリアーナの手を握り返した。
「ありがとう、リリアーナ。あなたがいてくれて、本当に心強い」
「私こそ。一人では何もできないけれど……」
「一人じゃないわ。もう一人じゃない」
二人の女性が微笑み合った。旧友の絆が、政治的同盟として復活した瞬間だった。
セレスティアは絵本に目を落としたまま、唇の端を上げた。
◇
茶会の後、廊下でセレスティアは王妃と二人きりになる瞬間があった。
リリアーナが化粧室に立った、わずかな時間。
王妃がセレスティアを見下ろした。翡翠の目。穏やかだが、その奥に鋼がある。
「セレスティア」
「はい、おうひさま」
「あなたの母上が元気になったこと。薬を変えたこと。あなたが何か関わっているのでしょう?」
心臓が跳ねた。
王妃は知っている。いや、確信はないだろう。だが勘が働いている。リリアーナの回復と、五歳の娘の聡明さ。点と点を繋いでいる。
「わたしは、おかあさまがげんきになってほしかっただけです」
嘘ではない。本音だ。
王妃は微笑んだ。
「そうね。それが一番大切なこと」
それ以上は聞かなかった。だが王妃の目は「覚えておくわ」と語っていた。
この女性は味方だ。だが鋭い味方だ。いつか全てを見抜かれる日が来るかもしれない。
その時は――その時だ。
今は目の前の一手に集中する。
◇
帰りの馬車の中で、リリアーナはセレスティアを膝の上に乗せていた。
「エレオノーラとお話しできて嬉しかったわ。あの方は昔から頼りになるのよ。学園時代、一緒に泣いたり笑ったり……」
母の目が遠くなった。少女時代の記憶に浸っている。
「おかあさま、おうひさまとなかよしだったの?」
「ええ。一番の親友よ。いろいろあって、しばらく会えなかったけれど……これからはまた、お会いできると思うわ」
いろいろあって。母の病気のせいで。宰相派の毒のせいで。
だがもうその毒は止まった。母は生きている。友情も生きている。
「おかあさま」
「なあに?」
「ずっとげんきでいてね」
リリアーナはセレスティアの額にキスをした。柔らかい唇。温かい息。
「もちろんよ。お母様はどこにも行かないわ」
前世では嘘になった言葉。
今世では、本当にする。
セレスティアは母の胸に顔を埋め、目を閉じた。
馬車が王都の石畳を走る。車輪の音が規則的に響く。
この音を聞きながら、セレスティアは次の計画を組み立てていた。
王妃との同盟は成立した。次は、宰相派の内部情報を得る手段が要る。
ナターシャだ。
あの侍女は今、王都の使用人たちの間でどう動いているだろうか。
明日、確認しよう。
母の腕の中で、五歳の策士は静かに目を閉じた。
温もりの中で、冷たい計算が回り続けている。
それがセレスティア・フォン・アルヴェインという少女の日常だった。




