王妃の密談
王宮へ出かける支度を整えた母が、玄関広間へ下りてきた。
淡い藤色のドレスに、真珠の髪飾り。リリアーナは手袋の端を整えながら、娘に微笑んだ。
「お待たせ、セレスティア」
「おかあさま、きれい」
「ありがとう。あなたもよ」
リリアーナはセレスティアの胸元のリボンを直し、そのまま小さな手を取った。
「おうひさまと、またおはなしするの?」
「ええ。先日のお話の続きをね。今日はお父様からも伝言を預かっているの」
二人は手をつないで別邸を出た。玄関前には、王宮へ向かう馬車が待っていた。
◇
王宮の奥まった一室。
王妃の私的な茶室だった。豪華だが落ち着いた内装。窓辺に白いカーテンがたなびき、テーブルには銀のティーセットと焼き菓子が並んでいる。
王妃エレオノーラが立ち上がって迎えた。
「リリアーナ、待っていたわ」
「エレオノーラ、お招きありがとう」
「今日はゆっくり話せるわ。先日の続きも、まだたくさん残っているもの」
「まあ。王妃陛下を独り占めしてしまうわね」
「今日くらいは許されるわ」
二人は顔を見合わせて笑い、席についた。
侍女たちが茶を注ぎ、退室した。部屋にはリリアーナ、エレオノーラ、そしてセレスティアだけが残った。
五歳の子供は足元で絵本を読んでいる体裁だ。実際には耳を澄ませている。
「エレオノーラ。先日お話しした件だけれど」
リリアーナの声が変わった。社交の声ではない。友人としての、本音の声。
「夫から伝言を預かってきました。アルヴェイン家は、宰相の専横をこれ以上見過ごさない、と」
王妃は静かに息を吸った。
「……公爵が正式に決めたのね」
「ええ。ただ、今すぐ表立って動けば、証拠を潰されます。しばらくは互いに知らぬ顔をして、力を蓄える必要があります」
「私も同じ考えよ。後宮の侍女たちの半分には、宰相派の息がかかっている。私の動きも、おそらく報告されているわ」
王妃は紅茶のカップを置き、声を落とした。
「それでも、信頼できる者は残っている。その者たちを通じて、王宮内の動きを知らせます。……ただ、十年前と同じやり方では駄目ね」
「ええ。あの時は、わたくしたちの手紙が止められた」
「止められたのではないわ。読まれてから、届いていたの。気づくまでに二年かかった」
リリアーナが息を呑んだ。
貴族の封書は監視される。使者は買収される。ならば要るのは、手紙に見えない手紙だ。
セレスティアがそこまで考えた時には、母がもう口を開いていた。
「エレオノーラ。球根を送ってもいいかしら」
「球根?」
「秋に植えるものを。北部の土で育ったスノードロップと、ムスカリと、チューリップを少し。王宮の庭は南向きでしょう。北部の球根なら花期がずれて、長く楽しめるわ」
「……ええ。ぜひ」
「木箱で送ります。籾殻を詰めて。……秋は球根。春は苗。夏は押し花と、来年の種を」
「年中あるのね」
「庭仕事は年中あるものよ。月に二度でも足りないくらい」
王妃の目が動いた。理解した目だった。
「植え方の書付を添えてくださる? わたくし、球根は不得手なの」
「もちろん。長くなるかもしれないけれど」
「長いほうが、助かるわ」
「今までのお手紙も、変わらずに」
「ええ。季節の話と、子供の話を。読んで面白いものを書くわ」
封書は開かれる。庭師に回される木箱は開かれない。
誰かに教えられたのではない。二人は自分たちで、開かれても不自然でない合図を思いついていた。
セレスティアは絵本のページをめくる振りをしながら、一語も聞き逃さなかった。
リリアーナが王妃の手を握った。
「今度は、何があっても途切れさせないわ」
「ええ。私も」
二人の女性が微笑み合った。長く途絶えていた手紙が、今度は宰相に抗うための糸になる。細くとも、決して切らせてはならない糸に。
セレスティアは絵本に目を落としたまま、唇の端を上げた。
◇
茶会の後、廊下でセレスティアは王妃と二人きりになる瞬間があった。
リリアーナが化粧室に立った、わずかな時間。
王妃がセレスティアを見下ろした。翡翠の目。穏やかだが、その奥に鋼がある。
「セレスティア」
「はい、おうひさま」
「先日の席で、あなたはお母様に頷いて、話すべきことを選ばせたわね。毒に気づくきっかけを作ったのも、あなたなの?」
セレスティアは膝の上で指を組み直した。
王妃は疑っている。五歳の娘が、母の命を救うきっかけを作ったのではないかと。
「わたしは、おかあさまがげんきになってほしかっただけです」
嘘ではない。本音だ。
王妃は微笑んだ。
「そうね。それが一番大切なこと」
それ以上は聞かなかった。だが王妃の目は「覚えておくわ」と語っていた。
この女性は味方だ。だが鋭い味方だ。いつか全てを見抜かれる日が来るかもしれない。
その時は――その時だ。
今は目の前の一手に集中する。
◇
帰りの馬車の中で、リリアーナはセレスティアを膝の上に乗せていた。
「エレオノーラとお話しできて嬉しかったわ。あの方は昔から頼りになるのよ。学園時代、一緒に泣いたり笑ったり……」
母の目が遠くなった。少女時代の記憶に浸っている。
「おかあさま、うれしそう」
「ええ。エレオノーラとお話ししていると、学園にいた頃へ戻ったような気持ちになるの」
二人の時間を奪ったのは、母の病と、宰相派が仕込んだ毒だった。
けれど、その毒はもう止まった。母は生きている。二人の友情も、途切れてはいない。
「おかあさま」
「なあに?」
「ずっとげんきでいてね」
リリアーナはセレスティアの額にキスをした。柔らかい唇。温かい息。
「もちろんよ。お母様はどこにも行かないわ」
前世では嘘になった言葉。
今世では、本当にする。
セレスティアは母の胸に顔を埋め、目を閉じた。
馬車が王都の石畳を走る。車輪の音が規則的に響く。
この音を聞きながら、セレスティアは次の計画を組み立てていた。
王妃との連絡路は固まった。次は、宰相派の内部情報を得る手段が要る。
ナターシャだ。
あの侍女は今、王都の使用人たちの間でどう動いているだろうか。
明日、確認しよう。
母の腕の中で、五歳の策士は静かに目を閉じた。
温もりの中で、冷たい計算が回り続けている。
それがセレスティア・フォン・アルヴェインという少女の日常だった。




