翌日の中庭
朝の授業前。
中庭に花壇がある。春の花が並んでいる。昨日、三人でしゃがんだ場所だ。
アレクシスは噴水の縁に腰を下ろしていた。今日はフリーデリケもコンラートも別の場所にいる。朝の早い時間だから、学院はまだ静かだ。廊下を通る生徒の数も少ない。アレクシスが一人でいる時間は最近少なくなったが、夜明け直後のこの時間だけは、まだ誰も来ない。
「おはようございます、殿下」
ヴォルフを連れて花壇に近づいたら、アレクシスが気づいた。
「……おはよう、セレスティア」
声が普段と変わらなかった。変わらないように努力している、というのが分かった。昨日のことを持ち越さないようにしている。廊下の角での出来事を、今朝の中庭に持ち込まない。そうしようとしている。
よかった、と思った。それでいい。
花壇の前に並んで立った。昨日の続きのように。どちらが言い出したわけでもなく、自然に。二人で同じ花を見る。
「きのうのほし、まだあります」
星涙草。青い花弁に白い斑点。昨日の朝より花が一つ増えている。夜の間に開いたのだろう。
「うん。まだ咲いてる」
アレクシスが少し前に体を傾けて、花を見た。
「殿下。きのう、ていえんしにきいたんですけど」
「なに?」
「このはな、なまえがあるって。『星涙草』っていうんです」
庭師の老人を捕まえて聞いた。昨日の夕方、授業が終わってから。 「星涙草」アレクシスが繰り返した。
「花言葉は、守護、だって」
アレクシスがセレスティアを見た。
何も言わなかった。でも目が変わった。
「……そうか」
「うん」
二人で花を見ていた。春の朝の空気がある。鳥が鳴いた。遠くで。噴水の水が流れる音がする。
花壇の横に腰掛けて、しばらくそのままでいた。何かを話す必要も、確認する必要もなかった。昨日のことは昨日に起きて、今日の朝に持ち越してもいいし、持ち越さなくてもいい。
「ヴォルフがいる限り、安全だ」とアレクシスが言った。唐突に。
「うん」
「ヴォルフって、本当に強いんだな」
「とても強い」
「昨日の——廊下のこと。ヴォルフが間に合ったから、よかった」
「うん。よかった」
アレクシスが花を見た。「俺も、もっと強くなる」と言った。五歳の声で。「守れるようになる」という言葉の続きを、こんなに早く聞けるとは思っていなかった。
◇
アレクシスのポケットから、白いレースの端が少し見えた。
ハンカチ。
「洗って返す」と言っていたのに、まだ持っている。
セレスティアは何も言わなかった。
返さなくていい。あのハンカチは、差し上げた。次に怖いことがあった時のために。ポケットの中にあれば、出せる。手に持てる。それだけでいい。
「セレスティア」
「はい」
「……今日の昼、また花の名前をあてっこしようよ。フリーデリケも呼んで」
「いいですよ」
「コンラートも呼ぶ?」
「コンラートさまは、花に興味があるかな」
「なくても来るよ。あいつはそういうやつだから。自分には関係なくても、誰かが楽しいことをしてたら来る」
「そうですね。来そう」
アレクシスが笑った。昨日よりずっと自然な笑顔。王太子の仮面ではなく、五歳の少年の顔だ。こちらの方が本物だとセレスティアは思う。
授業の鐘が鳴った。
◇
二人は花壇から離れた。廊下に向かった。
ヴォルフが三歩後ろについてくる。
昨日のことは言わなかった。廊下の角で起きたことを、今朝の会話に持ち込まなかった。言う必要がなかった。
あの場所で、泣いて、笑って、約束したことは、二人の間に残っている。言葉にしなくても。花言葉一つで、ちゃんと伝わった。
◇
昼食の後。
フリーデリケが「花の名前あてっこ、やる!」と言って、中庭に向かった。コンラートは「なんだそれ」と言いながらも立ち上がった。やはり来た。
星涙草の前に四人が集まった。リディアは本日、別の用があって来られなかった。
「これ知ってる?」
フリーデリケがコンラートに聞いた。
「知らない」
「星涙草っていうの。殿下が教えてくれた」
「殿下が? えらい!」
アレクシスが照れた。昨日より素直な照れ方だった。照れるのを隠そうとしていない。
「俺は教えてもらっただけだけど」とアレクシスが言った。
フリーデリケが「誰に?」と聞く。
「セレスティアに」
フリーデリケがセレスティアを見た。うれしそうな目だった。「セレスがアレクシス殿下に教えたの?」とニコニコしながら言った。
「庭師の方に聞いたの」
「それをアレクシス殿下に教えた、ということは!」
「特に意味はないよ」
「あやしい」
コンラートは「花より剣の方が分かる」と言いながら、花弁の斑点を指でなぞっていた。
「これ、どうやって斑点ができるんだ。生まれつきか?」
「そう。品種によって模様が違うんだって。庭師の方が言ってた」
「へえ。剣の傷も品種みたいなもんだな。どこで傷ついたかで形が違う」
「コンラート、なんでも剣に結びつけるね」
「俺の世界は全部剣で説明できる」
フリーデリケが笑った。
星のような模様の花。四人がそこに集まっている。昨日、アレクシスが一人で座っていた噴水の傍に。
花言葉は守護。
ここに四人がいる。昨日より一人増えた。
この光景が続くように。
それだけでいい、とセレスティアは思った。




