アレクシスの涙
魔力暴走事件から三日。
王宮教育課程は再開されたが、子供たちの間には目に見えない亀裂が走っていた。
事件の前と後で、何かが変わった。子供たちは「自分たちが狙われるかもしれない」という現実に、初めて触れたのだ。五歳から七歳の子供が背負うには、あまりに重い現実だった。
最も影響を受けていたのは、アレクシスだった。
◇
午前は礼法の授業だった。ヘンリエッテ教師が、フォークとナイフの扱い、コース料理の順序、会話の間合いを復習させていた。
子供たちは、おおむね普段通りに振る舞っていた。コンラートは礼法が苦手で眉を寄せ、フリーデリケは几帳面にナプキンを折り、ヴィオレッタは完璧な姿勢でフォークを操っていた。
だがアレクシスの手が震えていた。
フォークを握る右手が、誰にも気づかれないほどわずかに震えていた。だが、セレスティアの目は捉えていた。
王太子は無理をしている。大丈夫なふりをしながら、王族としての体面を保とうとして、自分を削っているのだ。
セレスティアは何も言わなかった。今ここで声をかければ逆効果になる。人前で弱さを指摘されれば、アレクシスは前世のように殻に閉じこもってしまう。
授業の合間の休憩時間、アレクシスが噴水の傍に一人で座っていた。
普段なら侍従が傍にいるが、今日は少し離れた場所にいる。アレクシスが「一人にしてほしい」と言ったのだろう。
セレスティアは、声をかけるべきか、放っておくべきか迷った。
ここで放置すれば、前世と同じ道を辿る。
だが踏み込みすぎれば、「公爵家の令嬢が王太子に取り入っている」と見なされる。宰相派に格好の攻撃材料を与える。
踏み込みすぎず、五歳児として自然な、偶然の出会いに見せなければならない。
セレスティアはフリーデリケの手を引いて、噴水の方に歩いた。
「フリーデリケちゃん、あのおはな、きれいだね」
噴水の周囲に植えられた花を指差し、わざとらしくならないようアレクシスの近くを通った。
フリーデリケは花に目を輝かせた。「本当だ、白いお花。何のお花かな」
「あれはマーガレットだよ。マルガレーテとおなじなまえ」
「わあ、マルガレーテさんのお花なんだ」
会話を聞いたアレクシスが顔を上げた。
二人の少女が花について話す、毒も陰謀もない平和な子供の日常だった。
セレスティアはアレクシスに気づいた振りをした。
「あ、殿下。おひとりですか?」
「……うん」
「いっしょに、おはなをみませんか? フリーデリケちゃんと、おはなのなまえをあてっこしてたんです」
単純な花の名前当てだった。政治的な意図などない、五歳児の遊びに見える。
アレクシスは眉を寄せ、それから立ち上がった。
「……いいよ」
三人で花壇の前にしゃがみ込む。セレスティアが花を指差し、フリーデリケが名前を当て、アレクシスが知識を足す。王太子は植物学の教育を受けているから、花の名前に詳しい。
「これはラベンダー。母上の部屋にいつも飾ってある」
「いいにおいがしますね」
「うん。母上は、ラベンダーの香りが好きなんだ」
アレクシスの声から力が抜けた。母の話をする時だけ、この子は年相応の顔になる。
花壇の端に、見慣れない花があった。青い花弁に白い斑点。
「これ、なんのおはな?」
フリーデリケが首を傾げた。
アレクシスも分からないようだ。「見たことない。珍しい花だね」
セレスティアには、その花の名前が分かっていた。前世の記憶にある、王宮の庭師が品種改良した希少種だ。名前は「星涙草」。花言葉は「守護」だった。
だが五歳児がそれを知っているのは不自然だ。
「しらないおはなだね。でもきれい。ほしみたい」
「本当だ。星みたいだ」
アレクシスが、花を見て笑った。力の抜けた、年相応の五歳の少年の笑顔だった。
セレスティアは、この光景を心に刻んだ。
前世には存在しなかった光景。王太子が、花壇の前で二人の少女と笑っている。
◇
昼食後、事態が動いた。
王宮の廊下で、セレスティアはルシアンと鉢合わせた。
第一王子は機嫌が悪かった。灰緑色の目に苛立ちが浮かんでいる。
「おい、アルヴェインの娘」
「ルシアンさま、こんにちは」
「こんにちはじゃない。お前、アレクシスとばかり仲良くしているだろう」
セレスティアには、アレクシスに近づく人間をすべて敵と見なしているように思えた。意地悪だからではない。そう思っておかなければ、裏切られた時に立っていられないのだろう。
「わたし、ルシアンさまともなかよくしたいです」
「嘘つけ。みんなそう言う。でも結局アレクシスの方ばかり見る」
七歳の少年の声に、傷がにじんでいる。何度も裏切られてきた傷。
言葉だけで否定しても届かない。「みんなそう言う」と本人が言ったばかりだ。
「ノワールは、おげんきですか」
ルシアンの表情が固まった。
「……なんで、その名前を」
「このまえ、ルシアンさまがおしえてくれました」
灰緑色の目が揺れた。ぶつける先を失った苛立ちが、そこで止まっている。
「……覚えてたのか」
「わすれません。ノワールは、ルシアンさまにだけ、なついているんですか?」
「当然だ。僕が呼べばすぐ来る。機嫌が悪い時は、鼻先で肩を押してくるんだ」
「ルシアンさまのこと、よくわかってるんですね」
「父上が僕にくださった馬だ。世話もずっと僕がしている」
ノワールは国王からの贈り物であり、ルシアンにとって数少ない「父に認められた証」なのだろう。声に誇りがこもっていた。
「たいせつなおともだちなんですね」
「馬だぞ。……でも、一番信用できる」
ルシアンの口元が、ほんの少し緩んだ。ノワールの話をする時だけ、この少年は疑うことを忘れる。庭で会った時と同じだ。
「まえに、きがむいたらあわせてくれるって、いいました」
ルシアンが言葉を失った。気が向いたら、と逃げ道を残したはずの一言まで、覚えられていた。
「……いい。今度、厩に来い」
「やくそくです」
「約束だ。忘れるなよ」
ルシアンは背を向けた。廊下の角で、一度だけ振り返った。セレスティアがまだそこに立っているのを確かめて、それから行った。
セレスティアは小さく息をついた。
ルシアンはまだ間に合う。この子の渇きが宰相に利用される前に、馬の話ができる相手が一人でもいる場所を作りたい。
だが距離感を間違えれば、逆効果だ。宰相派がルシアンの周囲を監視している。副宰相マティアスの影がちらつく。
焦らず、一歩ずつ進むしかない。
◇
午後の授業が終わった後、セレスティアはアレクシスに呼び止められた。
「セレスティア、少し話がある」
人目を避けた廊下の角で、五歳の王太子は密談の場所を選んでいた。教育の賜物なのか、本能なのか。
「あのね」
アレクシスは言葉を探していた。何度か口を開きかけ、閉じる。
セレスティアは急かさず、この子のペースで言葉を待った。
「……魔力暴走の時、セレスティアは先に出たでしょう」
「はい。おなかがいたくて」
「嘘だよね」
息が詰まった。
アレクシスの青い目がまっすぐにセレスティアを見ている。五歳の目。だがその奥に、王族の勘が光っている。
「お腹が痛いなら、顔色が悪いはずだよ。でもセレスティアの顔色は普通だった。僕、見てたから」
見ていた。この子は見ていた。
セレスティアは、嘘をつくか正直に言うか、一秒で判断した。
前世のような冷たい王太子にしないためにも、この子にはできるだけ嘘をつきたくなかった。
「……殿下はかしこいですね」
嘘だったことを認めるしかなかった。
「なんで出たの?」
「きけんだとおもったからです」
「どうして危険だと思ったの?」
「わからないです。でも、いやなかんじがしたんです。おなかのおくで」
聖魔力の感覚を「嫌な感じ」と翻訳し、五歳児の語彙に落とし込んで伝えた。
アレクシスは黙って考えていた。
「……セレスティアが出て行った後に、爆発した」
「はい」
「もし出て行かなかったら、セレスティアも危なかった」
「はい」
「でも、みんなも出られた。オスヴァルト先生が全員出した」
「はい。せんせいがまもってくれました」
アレクシスは壁に背を預け、天井を見上げた。
「僕は何もできなかった。怖くて動けなかった。フリーデリケの手を引いたのだって、近くにいたからで、考えてやったんじゃない」
「でも、ひいてくれました。フリーデリケちゃんはたすかりました」
「……」
「殿下。こわいときにだれかの手をひけるのは、すごいことです」
アレクシスがセレスティアを見た。
「本当に?」
「ほんとうです。わたしはこわくてにげました。殿下はこわくても手をひきました。殿下のほうがつよいです」
アレクシスの目に涙が滲んだ。
「僕……王子なのに、弱いよ」
「よわくないです。やさしいだけです」
涙が頬を伝った。アレクシスは袖で拭おうとしたが、間に合わなかった。
セレスティアは、マルガレーテがいつも持たせてくれるレースのハンカチをポケットから取り出した。
「どうぞ」
アレクシスはハンカチを受け取り、顔を押し当てた。
小さな肩が震えているのに、声は出さない。王太子として泣き声を漏らすことは許されないと、もう教え込まれているのだ。
セレスティアは、背中をさすったり声をかけたりはしなかった。「公爵令嬢が王太子を慰めている」という場面を誰かに見られかねないからだ。ただ隣に立ち、彼が泣き止むのを待った。
やがてアレクシスが顔を上げた。目は赤いが、涙は止まっていた。
「ありがとう。ハンカチ、洗って返すよ」
「いいです。さしあげます」
「でも――」
「殿下。つぎにこわいことがあったら、そのハンカチでなみだをふいてください。わたしのかわりに、そばにいます」
アレクシスはハンカチを胸に押し当てた。レースの白い布は、小さな少女の持ち物だった。
「……セレスティア」
「はい」
「僕は、君を守れるようになりたい」
心臓が痛んだ。
前世では、この子はセレスティアを誰も守らず、路傍の石のように見捨てた。
だが今、この子は「守りたい」と言っている。
五歳の誓いは、風が吹けば消えるかもしれない小さな炎にすぎない。
だが炎は、育てれば篝火になる。
「殿下がそうおっしゃるなら、わたしはしんじます」
アレクシスが頷いた。
「約束だ。僕は、友達を守れる王子になる」
友達。
この子が自分を「友達」と呼んだ。
セレスティアは微笑んだ。作り笑いではない、本物の笑みが勝手にこぼれた。
「はい、殿下。おともだちです」
二人は廊下の角から出た。
夕陽が窓から差し込み、金髪の少年と銀髪の少女の影を長く引いている。
前世の法廷で被告席のセレスティアを見下ろした男が、五歳の今は彼女を「友達」と呼んでいる。




