魔力暴走事件
王宮教育課程の五週目、基礎魔術の実技演習の日だった。
場所は王宮の魔術演習場、地下二階にある広い石造りの部屋だ。壁には魔力を吸収する特殊な鉱石が埋め込まれ、天井には安全のための結界が張られている。暴走した魔力が外に漏れないよう設計された空間だった。
部屋の中央に魔力炉がある。
小さな石の台座。その上に浮かぶ、拳大の青い水晶球。これが魔力炉――演習用の魔力供給装置だ。子供たちはこの炉から微量の魔力を受け取り、それを操作する練習をする。
オスヴァルトが教壇に立った。
「初日は属性を見ただけだ。今日からが本題……制御の実習に入る。魔力炉から流れる力を身体で感じ、扱う基礎を学ぶ。危険はない。炉は安全設計だ」
子供たちが炉の周囲に半円形に座った。アレクシス、ルシアン、イザベラ、フリーデリケ、コンラート、ヴィオレッタ。そしてセレスティア。
セレスティアは炉を見つめていた。
違和感がある。
前世の記憶。王立クレセンティア学園の学期末魔術演習で、魔力暴走事件が起きた。セレスティアが十歳の時だ。暴走の原因は「セレスティアの未熟な魔力制御」とされ、学園中の非難を浴びた。
だが今世のセレスティアは知っている。あれは仕組まれた事故だった。
前世では十歳で起きた事件。だが今世では状況が違う。セレスティアの聖魔力の噂は既に広まっており、宰相派が動くタイミングが早まっている可能性がある。
演習の前日、セレスティアは炉を「見て」いた。
呼吸法で意識を集中し、聖魔力の感覚を研ぎ澄ませる。光と闇の両属性を持つセレスティアの目は、通常の魔術師には見えないものが見える。
炉の内部に、微かな歪みがあった。
魔力の流れが不自然だ。通常の安全設計では、炉から放出される魔力は一定の速度で、一定の量が供給される。だがこの炉は、どこかに余剰魔力の溜まりがある。栓のようなものだ。しかもセレスティアの光と闇が炉に触れた瞬間、その栓が一段深く噛み合った。
暴走の仕掛けがある。
前世と同じだ。誰かが炉に細工をし、すでに起動させている。いま離れても、溜まり始めた魔力は止まらない。
だが今回は、事前に気づいた。
◇
演習が始まった。
オスヴァルトが炉を起動する。青い水晶球が淡く光り、部屋全体に微かな魔力の波動が広がった。温かい風のようだ。
子供たちが目を閉じ、魔力を感じ取ろうとしている。
アレクシスの指先に透明な光が揺れた。風属性。制御はまだ甘いが、才能がある。
ルシアンの掌に赤い火花が散った。火属性。攻撃的で不安定。この子の性格を映している。
フリーデリケは両手を組み、目を閉じたまま動かない。土属性は穏やかだが、この子は怖がっている。魔力が自分の中で動く感覚が、不安なのだろう。
コンラートは腕を組んで眉をひそめていた。魔力操作は得意ではないらしい。この子の才能は剣にある。
ヴィオレッタの指先に静かな水の雫が浮いた。水属性。金色の目が集中で細められている。
イザベラは――完璧だった。冷たい青い光が掌の上で安定して回転している。水属性の制御。六歳にしてこの精度。宰相の血筋。
セレスティアは魔力炉に意識を向けていた。
歪みが、大きくなっている。
栓が緩み始めている。余剰魔力の圧力が、少しずつ高まっている。最初の引き金は、もう引かれた。このまま演習を続ければ、子供たちの魔力操作が炉の振動と共鳴し、栓が外れる。
あと何分だ。
セレスティアは呼吸を整えながら、時間を推測した。子供たちの魔力出力と、炉の歪みの拡大速度。前世の経験と、今世の感覚を照合する。
十分。
あと十分で暴走が起きる。
「オスヴァルトせんせい」
セレスティアは手を挙げた。
「なんだ」
「きもちわるい……おなかいたい」
嘘だ。体調は問題ない。だが五歳の令嬢が「気分が悪い」と言えば、演習から退室させるしかない。
オスヴァルトの灰色の目がセレスティアを射抜いた。
この男の前では、嘘を隠し通せない。セレスティアが本当に体調不良なのか、別の理由で退室しようとしているのか、あの目はすでに見抜いているのかもしれなかった。
だがオスヴァルトは何も言わなかった。
一瞬だけ――本当に一瞬だけ、オスヴァルトの視線が魔力炉に向いた。
あ。
この男も気づいている。炉の異常に。
オスヴァルトは頷いた。
「分かった。付き添いの者に連れ出してもらえ」
セレスティアは立ち上がり、ヴォルフに手を引かれて演習場を出た。
扉が閉まる。石の廊下に出た瞬間、空気が変わった。演習場の中の魔力圧が既に不安定になっている。扉越しにそれが伝わってくる。
「お嬢様」
ヴォルフが膝を折った。
「本当にお加減が悪いのですか」
嘘をついている場合ではない。
「ヴォルフ。なかのまりょくろがあぶない。もうすぐばくはつする」
ヴォルフの目が変わった。騎士の目。即座に状況を判断する目。
「確かですか」
「まちがいない。はやく」
ヴォルフは一秒も迷わなかった。立ち上がり、演習場の扉に向かう。
だがその前に、扉が内側から開いた。
オスヴァルトだった。
「全員退室。今すぐだ」
低い声。命令。有無を言わさぬ声。
子供たちが慌てて出てくる。アレクシスがフリーデリケの手を引いている。コンラートが後方を確認しながら最後に出てきた。
全員が廊下に出た瞬間――
轟音。
演習場の中で魔力炉が暴走した。
青い閃光が扉の隙間から漏れ出し、石の壁が振動した。衝撃波が廊下にまで伝わり、子供たちが尻餅をつく。フリーデリケが悲鳴を上げた。
だが結界が保った。演習場の壁に埋め込まれた鉱石が魔力を吸収し、爆発を封じ込めた。
安全設計が機能したのだ。だがもし子供たちが中にいたら、結界が完全に吸収するまでの数秒間、未制御の魔力波に晒されていた。五歳から七歳の子供が、魔力暴走の直撃を受ける。
軽傷では済まない。最悪の場合、魔力酔いで意識を失う。あるいは――
セレスティアは壁に背を預け、膝を抱えた。
間に合った。
今回だけは、間に合った。
◇
混乱の中、オスヴァルトが冷静に指示を出していた。
子供たちの安全確認。演習場の封鎖。王宮警備隊への連絡。
セレスティアは廊下の隅で、子供たちの様子を見ていた。
フリーデリケが泣いている。アレクシスがフリーデリケの背中をさすっている。王太子が泣いている少女を慰めている。五歳の少年に、その優しさがある。
コンラートは壁に背をつけて腕を組み、演習場の扉を睨んでいた。怒りの目だ。何が起きたのか理解はしていないが、何者かが子供たちを危険にさらしたことは分かっている。
ルシアンは顔が青い。恐怖を隠そうとしているが、隠しきれていない。七歳の強がりの裏に、子供の怯えがある。
ヴィオレッタは無言だった。金色の目が鋭く周囲を見回している。この子は怖がる代わりに、状況を分析しようとしている。
そしてイザベラ。
イザベラは表情を変えていなかった。冷たい紫の瞳。驚きも恐怖もない。
――知っていたのか。
いや、断定はできない。イザベラが事前に知っていたかどうか。宰相の娘だが、六歳の子供に陰謀の詳細を教えるとは限らない。
だがあの無反応は、普通ではない。
セレスティアはイザベラの顔を記憶に刻んだ。
◇
オスヴァルトがセレスティアの前に来た。
しゃがみ込み、目線を合わせる。灰色の目。
「具合はどうだ」
「もうだいじょうぶです」
「そうか」
オスヴァルトは周囲に人がいないことを確認してから、低い声で言った。
「お前は、気づいていたな。炉の異常に」
隠す意味がない。この男の前では。
「……はい」
「いつから」
「きのう。みたとき、へんだなって」
「昨日の時点で分かったのか」
オスヴァルトの目が光った。驚きではない。確認だ。
「聖魔力の感受性か。光と闇の両属性を持つ者は、魔力の歪みに対する感度が常人の数十倍ある。文献通りだ」
学者としての目だ。この男は今も、セレスティアを「研究対象」として見ているのだろう。
だが次の言葉は、学者のものではなかった。
「よく退室した。判断が正しかった」
褒められているのだと、一拍遅れて気づいた。
「あの炉は調べる。人為的な干渉があったかどうか、私が確認する」
「……じんいてき」
「誰かがわざとやった可能性がある、ということだ」
セレスティアは頷いた。
セレスティアには確実だと思えた。前世でも同じことが起き、あの時は自分が犯人にされたのだ。
今回、セレスティアは演習場の外にいた。
犯人に仕立てることは、できない。
セレスティアが不在だったことで、宰相派の計画は初めて狂った。
◇
夜、別邸のベッドの中で、セレスティアは天井を見つめていた。
今日の暴走事件を反芻する。
炉に細工がされていた。宰相派の仕込みだ。目的は何だったのか。
だがセレスティアは事前に退室した。
暴走の現場にいなかった。犯人にはなれない。
仕掛けた側は困惑しているだろう。想定外の展開だったはずだ。なぜあの子は退室したのか。偶然か、それとも異常に気づいていたのか。
気づいていた、と思われるのも危険だ。五歳児が魔力炉の異常を察知したと知られれば、聖魔力の能力が想定以上だということになる。
だがオスヴァルトは味方寄りだ。この件を宰相派に漏らすことはないだろう。
問題は、次だ。
宰相派は一度失敗した。だが諦めるような連中ではない。次はもっと巧妙な手を打ってくる。
セレスティアはブローチに触れた。
聖石が、今夜は少し冷たかった。
あの暴走の瞬間、炉から溢れた魔力の残響が、まだ身体の奥に残っている。聖魔力が反応して、光と闇が胸の中でせめぎ合っている。
制御しろ。
四秒吸う。四秒止める。四秒吐く。四秒止める。
光を鎮め、闇を押さえ、均衡を保つ。
オスヴァルトの言葉が蘇る。「いつか、力を見せなければならない日が来る」
まだだ。まだその日ではない。
だが、近づいている。
明日、オスヴァルトに炉の調査結果を聞く。人為的な痕跡が見つかれば、宰相派の関与を裏付ける手がかりになる。
目の前の手がかりを一つずつ拾い、いつか突きつける日のために備える。
青い閃光の残響は、まだ胸の奥に残っている。だからこそ明日は、炉の傷や部品のずれ、魔力の残滓を確かめる。セレスティアは聞くべきことを三つ帳面に記し、最後の行に下線を引いた。




