夜会の暗闘
夜会。
貴族たちが集う夜の社交。大人たちの戦場。笑顔の裏に刃を隠し、祝杯の中に毒を溶かす場所。
王宮教育プログラムの親睦を名目として、王妃エレオノーラが主催した夜会に、子供たちの家族も招かれた。父ライナルトもその一人だった。
アルヴェイン公爵は王都滞在中の別邸から正装で王宮に赴いた。灰がかった銀髪を後ろに撫でつけ、紺色の礼服に公爵家の鷲の紋章。左頬の刀傷が、燭台の灯りに鋭く浮かぶ。
セレスティアも同行した。白いドレス。銀の髪を丁寧に結い上げ、胸元に父から贈られたブローチを留めている。碧い聖石が灯りを受けて静かに輝いていた。
ヴォルフが二歩後ろに控えている。正装はしているが、腰の剣は外していない。王宮内の夜会に帯剣。本来は無礼だが、「幼い令嬢の護衛」という名目で許可を取ってある。
大広間に入った瞬間、空気が変わった。
数百の蝋燭が天井のシャンデリアに灯り、広間全体が琥珀色の光に満ちている。大理石の床に貴族たちの靴音が響く。楽団が静かにワルツを奏で、給仕が銀の盆を掲げて行き交う。
華やかだ。美しい。そして息が詰まるほど危険な場所だ。
セレスティアは父の傍を歩きながら、広間を見渡した。
知った顔がいくつかある。
アレクシスが王妃の隣にいた。窮屈そうな正装。まだ五歳なのに、王太子として夜会に出席させられている。隣のルシアンは七歳なりに堂々と立っていたが、目の奥に退屈と不満が混在している。
フリーデリケが母親の陰に隠れていた。相変わらず人が苦手だ。だがセレスティアの姿を見つけると、ぱっと顔が明るくなった。小さく手を振ってくる。
コンラートが父のヴァイスハウプト辺境伯と並んで立っていた。七歳にして既に騎士の風格がある。父に似た金褐色の髪を短く刈り込み、背筋を一本の鉄のように伸ばしている。
イザベラは――
イザベラの隣に、その男はいた。
◇
ヴィクトール・ド・ガルニエ。
宰相。
名前を見る前に、空気で分かった。広間の一角だけ、温度が違う。周囲の貴族たちが無意識に距離を取っている。敬意と畏怖が混ざった空白地帯。その中心に、一人の男が立っていた。
四十代後半。銀と黒が混じった髪を丁寧に撫でつけている。鼻が高く、顎が細い。痩身。黒い礼服に銀の装飾。全身が「権力」という概念を纏っているようだった。
目が――紫だった。
イザベラと同じ、深い紫色の瞳。だがイザベラの紫が冷たい水晶のような色だったのに対し、この男の紫は深淵の色だ。覗き込めば落ちる。そういう目をしている。
セレスティアの足が止まった。
呼吸が止まった。
この男の顔を覚えている。前世で。
法廷の最上段。裁判官席の奥。傍聴席から全てを見下ろしていた男。セレスティアの有罪判決が読み上げられた時、微かに唇の端を上げた男。あの、ほんの僅かな笑みを、セレスティアは処刑台の上でも忘れなかった。
全てはこの男が仕組んだ。
母への毒殺。ディートリヒの手引き。冤罪の証拠捏造。法廷での偽証。処刑。
全てだ。
この男が、私を殺した。
首が痛い。断頭台の刃が落ちた場所が、今も疼く。幻痛。実在しない傷の痛み。
「セレスティア」
父の声が、意識を引き戻した。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「……なんでもない」
嘘だ。何でもなくない。全身が震えている。五歳の身体が、十八年分の恐怖と憎悪に耐えきれずに軋んでいる。
ヴォルフが半歩、距離を詰めた。何も言わない。だが大きな背中がセレスティアの視界の端を塞いでくれた。宰相の姿が見えなくなる。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
呼吸法で心拍を落ち着かせる。ブローチの聖石に触れる。微かな温もりが指先から胸に広がる。
落ち着け。あれは敵だ。だが今は戦場ではない。社交の場だ。笑顔の仮面を被れ。五歳の令嬢の仮面を。
セレスティアは目を閉じ、再び開いた。
碧い目に、感情はない。五歳の少女が、無邪気に広間を見回している――そう見える目に、作り替えた。
◇
宰相が動いた。
イザベラの手を引いて、公爵の方へ歩いてくる。ゆっくりと。だが確実に。
広間の空気が緊張を帯びた。
宰相が公爵の前に立った。
「公爵閣下。お久しぶりですな」
低い声。柔らかい口調。穏やかな紳士の声。だがその声の下に、何層もの計算が透けている。セレスティアの耳には聞こえる。前世で何度も聞いた声だから。
公爵は表情を変えなかった。
「宰相閣下。ご壮健で何よりです」
形式的な挨拶。感情の欠片も混ぜない。公爵はこういう時、完璧な仮面を被る。
「ご令嬢をお連れですか。お噂はかねがね」
宰相の紫の目がセレスティアに向いた。
心臓が凍る。
あの目に見られている。前世で自分を殺した男の目に。至近距離で。
「聡明なお嬢様だと伺っております」
宰相の唇が弧を描いた。微笑み。社交的な、何の悪意もない微笑み。
だがセレスティアは知っている。この笑顔で人を殺す男だということを。
「子供は子供です。聡明というほどのことはありません」
公爵が遮った。短く。冷たく。娘を宰相の目から引き離すように。
宰相は気にした様子もなく頷いた。
「ご謙遜を。――イザベラ」
宰相がイザベラの背を押した。イザベラが一歩前に出る。
「セレスティアさま、こんばんは」
イザベラの挨拶は完璧だった。七歳の令嬢として申し分ない礼法。笑顔も声の調子も、計算されている。父に仕込まれた社交術。
「イザベラさま、こんばんは。きれいなドレスだね」
セレスティアは五歳児の無邪気さで応じた。
イザベラの紫の目が一瞬揺れた。セレスティアの態度に不自然さがないか探っている。七歳の政治家。この子もまた、父の道具だ。
宰相はセレスティアをじっと見ていた。
何を見ている。何を測っている。
聖魔力の噂か。公爵家の情報か。それとも――五歳児の仮面の下にある何かを、嗅ぎ取ろうとしているのか。
「可愛らしいお嬢様ですな。碧い瞳がお母上に似ていらっしゃる」
母の話を出した。
セレスティアの手が拳になった。スカートの陰で、誰にも見えないように。
この男が母を殺そうとした。この口で「お母上に似ている」と言う。
「ありがとうございます、さいしょうかっか」
舌足らずの声で返した。精一杯の笑顔で。五歳児が知らない大人に褒められて、照れている顔を作った。
宰相は満足そうに頷いた。
「将来が楽しみですな、公爵閣下」
「……ええ」
公爵の返答は短かった。だがその碧い目は、宰相の顔を一瞬たりとも逸らさなかった。
◇
宰相が去った後、公爵はセレスティアを見下ろした。
「怖かったか」
聞かれるとは思わなかった。この父がそんなことを聞くとは。
「……すこし」
「そうか」
公爵は何も言わなかった。だがセレスティアの肩に、大きな手が一瞬だけ触れた。
温かかった。
前世では一度もなかった感触だ。父の手が肩に触れたことなど。
セレスティアは俯いて、涙を堪えた。泣くな。ここは戦場だ。
だが温かかった。あの手は確かに温かかった。
◇
夜会の半ば、セレスティアはバルコニーに出た。
広間の熱気と香水と政治の匂いから逃れるために。ヴォルフが扉の傍に立ち、誰も近づけないように見張っている。
夜風が頬を撫でた。冷たい。三月の夜風。処刑の日と同じ季節の風。
だが今夜の風は違う。自由な風だ。鎖のない風だ。
バルコニーの手すりに手をかける。身長が足りないので、背伸びをしてやっと外が見える。王宮の庭園。月光に照らされた噴水。星空。
綺麗だ。前世ではこの景色を見る余裕がなかった。
「――やっぱりここにいた」
声が聞こえた。振り返ると、アレクシスが立っていた。
窮屈な正装の襟元を緩め、金髪が夜風に揺れている。五歳の王太子は、少し疲れた顔をしていた。
「殿下。夜会のお席を外されて大丈夫ですか」
「いいんだ。母上が少しだけなら外に出ていいって」
アレクシスはセレスティアの隣に来て、同じように手すりに手をかけた。二人とも身長が足りなくて、背伸びをしている。
「セレスティア、さっき宰相と話してたね」
「はい」
「怖くなかった? 宰相は……なんだか怖い人だよ」
五歳の王太子が、宰相を「怖い」と言う。純粋な直感だ。子供は大人の本質を嗅ぎ取る。
「こわかったです」
正直に答えた。嘘をつく必要はない。
「でも、おとうさまがいたから、だいじょうぶでした」
アレクシスの青い目が揺れた。
「僕の……父上は、宰相と仲がいいんだ」
「父上は、宰相の言う通りにすることが多い。母上はそれが嫌みたいだけど」
王太子が五歳の少女に打ち明ける。この子には話す相手がいないのだ。王族の孤独。周囲は全て大人で、全て政治的な存在で、本音を語れる人間がいない。
セレスティアは言葉を選んだ。慎重に。
「でんか。でんかは、でんかのままでいいんですよ」
「僕のまま?」
「こわいことをこわいっていえるの、つよいよ」
アレクシスが目を見開いた。
「つよい?」
「こわくないふりするほうが、よわいよ」
五歳の言葉だ。政治的な含意はない。ただの子供の慰め。
だがアレクシスの目に、何かが灯った。
「……セレスティアは、変なことを言うね」
「へん?ですか?」
「へんだけど……いやじゃない」
アレクシスが笑った。月明かりの下で、五歳の少年が笑った。
前世の法廷で、セレスティアを路傍の石のように見下ろした男の、十一年前の笑顔。
まだ間に合う。この笑顔を守れる。
「殿下、そろそろ戻りましょう。王妃さまがご心配されます」
「うん。――セレスティア」
「はい」
「また話そうね」
「はい、殿下」
二人は広間に戻った。
バルコニーの扉を閉める時、ヴォルフが小さく頷いた。何も言わない。だがその目は「よくやった」と言っていた。
◇
夜会が終わり、馬車で別邸に戻る道中。
セレスティアは馬車の窓から夜の王都を見ていた。松明の灯りが石造りの建物を照らし、夜番の兵士が通りを歩いている。
父が向かいの席に座っている。目を閉じている。眠っているのか、考え事をしているのか。
「おとうさま」
「……起きている」
「さいしょうは、おかあさまのことをしっていましたか」
馬車の中が凍った。
公爵が目を開けた。碧い瞳が、暗がりの中で光る。
「……なぜそう思う」
「おかあさまに似ているって言いました。おかあさまのことをしらない人は、そんなこと言わないです」
公爵は長い沈黙の後、低い声で言った。
「……お前は本当に五歳か」
「ごさいです」
「そうか」
公爵は目を閉じた。だがその口元に、微かな――本当に微かなものが浮かんでいた。
苦笑のような。あるいは、感嘆のような。
馬車が別邸に着いた。
セレスティアは自室のベッドに入り、天蓋を見上げた。
今夜、敵の顔を見た。
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。あの紫の目。あの微笑み。あの声。
全てが鮮明に刻まれた。
恐怖はある。まだ震えている。毛布の下で、小さな手が止まらない。
だが逃げない。
あの男の前で立っていた。父の隣で。笑顔を作って。五歳児のふりをして。
それができた。
前世の自分にはできなかったことだ。前世では宰相の存在すら知らなかった。法廷で初めて知った。全てが手遅れになってから。
今世は違う。敵を知っている。敵の顔を見た。敵の声を聞いた。
そして敵は、まだこちらの正体を知らない。
セレスティアはブローチの聖石に触れた。
冷えた指先に、微かな温もりが灯る。
「待っていろ」
暗闇の中で、五歳の唇が動いた。
「お前が作った地獄を、私が壊す」
その夜、セレスティアは悪夢を見なかった。
代わりに、父の手の温もりを何度も思い出していた。




