王宮教育の開始
王宮教育プログラム。
貴族の子女が五歳から参加する、王立学園の前段階にあたる教育課程。週に三日、王宮の教育棟で行われる。科目は礼法、歴史、基礎魔術、政治概論。
セレスティアにとっては退屈な内容だ。前世で全て学んでいる。
だが重要なのは学問ではない。この場に集まる人間たちだ。
子供たちは十五人。王太子アレクシス、第二王子ルシアン、イザベラ、フリーデリケ、そして初対面の子供たちが数人。
教師陣が注目だった。
礼法はアンネリーゼという老侍女。歴史はカール・ハインツという白髪の学者。政治概論はゲオルグという文官。
そして基礎魔術の担当が――
王宮魔術師長オスヴァルト・フォン・ツェリンゲン。
教室に入ってきた瞬間、空気が変わった。
灰色の長髪。深い皺が刻まれた顔。年齢は五十代後半だろうか。黒い法衣のような衣装に、銀の鎖が下がっている。目が鋭い。だが鋭さの種類が普通の人間とは違った。
この男の目は、物質の表面ではなく、内側を見ている。
魔力を見る目。世界の裏側を覗く目。
オスヴァルトが教壇に立った。
「基礎魔術を担当するオスヴァルトだ。呼び方は先生でもオスヴァルトでも好きにしろ」
ぶっきらぼうな口調。子供相手に飾らない。
「魔術とは何か。まずそこから始める。魔術とは、体内の魔力を操作し、外界に影響を与える技術だ。全ての人間は微量の魔力を持っている。だがそれを制御して使えるかどうかは才能と訓練次第だ」
基本的な講義が始まった。セレスティアは前世で何度も聞いた内容だ。だが姿勢を正して聞いていた。目立たないように。普通の五歳児のように。
だがオスヴァルトの目がセレスティアを捉えた瞬間、セレスティアは気づいた。
見抜かれている。
茶会の時と同じだ。オスヴァルトの目がセレスティアの「中身」を見ている。表面の五歳児ではなく、内側の魔力を。
聖魔力は隠せない。呼吸法で安定させてはいるが、完全に消すことはできない。オスヴァルトほどの魔術師なら、一目で異常な魔力を感知するだろう。
オスヴァルトは何も言わなかった。視線を外し、講義を続けた。
だがセレスティアは背筋に冷たいものを感じていた。
この男は知っている。そして知った上で、黙っている。
なぜ黙っているのか。宰相に報告するのか。独自に動くのか。それとも――別の意図があるのか。
前世の記憶にオスヴァルトの情報は少ない。帝国最高の魔術師であること。聖魔力の研究者であること。前世のセレスティアが学園に入る頃には既に引退していたこと。
敵か味方か。判断材料が足りない。
◇
講義の後、実技の時間があった。
子供たちは一人ずつ前に出て、魔力の属性検査を受ける。小さな水晶球に手を触れ、属性の色が現れる。
火属性の子は赤。水属性は青。風は緑。土は茶。光は白。闇は黒。
大半の子供は一つの属性だった。火の子が二人、水が三人、風が四人。
アレクシスは光属性だった。水晶球が淡い白に光る。王族に多い属性。
ルシアンは火属性。水晶球が赤く燃えた。攻撃的な属性。この子の性格を反映しているようだった。
イザベラは闇属性だった。水晶球が紫がかった黒に染まる。珍しい属性だが、宰相家には闇属性の血統がある。イザベラの紫の瞳はそれを示していた。
フリーデリケは水属性。淡い青。穏やかな属性。この子らしいとセレスティアは思った。
そしてセレスティアの番が来た。
心臓が速まった。水晶球に触れれば、聖魔力が現れる。光と闇の共存。この場で見せれば、全員に知られる。
だがフェリクスと事前に対策を練ってあった。
呼吸法で魔力を極限まで抑える。水晶球に触れる面積を最小限にする。片方の属性だけを押し出す。
セレスティアは水晶球の前に立った。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
聖魔力の渦を鎮める。光の側だけを表に出す。闇を奥底に押し込める。
指先が水晶球に触れた。
白い光が灯った。光属性。
だが一瞬、ほんの一瞬だけ、白の中に黒い筋が走った。
見た者がいたかどうか。
セレスティアは指を離した。水晶球の光が消えた。
「光属性です」
検査を記録する文官が書き取った。
子供たちは特に反応しなかった。光属性は珍しいが、王太子と同じだ。異常とは見なされない。
だが――
オスヴァルトが見ていた。
あの灰色の目が、水晶球を通してセレスティアの魔力の全貌を覗いていた。一瞬の黒い筋。闇属性の痕跡。光と闇の共存。
オスヴァルトは微かに目を細めた。それだけだった。言葉は一切なかった。
だがセレスティアは確信した。この男は全てを見抜いている。
◇
授業の後、セレスティアは廊下でオスヴァルトとすれ違った。
偶然か意図かは分からない。だがオスヴァルトが足を止めた。
「アルヴェインの令嬢」
低い声。だが敵意はない。
「はい、オスヴァルトせんせい」
「水晶球の検査、上手く抑えたな」
心臓が止まるかと思った。
直接的な指摘。オスヴァルトはセレスティアが魔力を隠したことを見抜き、そしてそれを本人に告げた。
「……なんのことですか?」
とぼけた。だが声が僅かに上ずった。五歳児の演技が、この男の前では通じない。
オスヴァルトは膝を折り、セレスティアの目線に合わせた。灰色の目が碧い目を覗き込む。
「怖がるな。私は敵ではない」
「てき……?」
「お前の中にあるもの。光と闇。両方を持つ者を、古い文献では『聖魔力保有者』と呼ぶ。私は四十年間、その存在を探し続けてきた」
四十年。オスヴァルトの人生そのものだ。聖魔力を追い続けてきた四十年。
「お前が生まれてきたことは、偶然ではない。だがそれについて今は語らない」
オスヴァルトが立ち上がった。
「一つだけ言っておく。力を隠すのは賢い判断だ。だが隠し続けることには限界がある。いつか、力を見せなければならない日が来る。その日のために、制御を磨け」
「……せんせいは、だれかにいう? わたしのこと」
「言わない。誰にも」
短い返答。だがその声には、四十年の重みがあった。
「なぜ?」
「お前はまだ種だ。芽が出る前に踏み潰されては意味がない。種は適切な時期に、適切な土壌で、芽を出すべきだ」
詩的な言い回し。だが意味は明確だった。
今は守る。時が来るまで。
オスヴァルトは背を向けて歩き去った。黒い法衣が廊下の影に溶けていく。
セレスティアは廊下に立ち尽くしていた。
敵ではない。少なくとも今は。
だが完全な味方でもない。オスヴァルトには独自の思惑がある。聖魔力の研究者としての目的がある。セレスティアはその目的の一部なのかもしれない。
利用されるのか。守られるのか。
――きっと両方だ。
だが今は、味方寄りだ。それで十分。
◇
夜、セレスティアはフェリクスに報告した。
「オスヴァルト先生に見抜かれた。でも、だれにもいわないって」
フェリクスの表情が厳しくなった。
「オスヴァルト・フォン・ツェリンゲン。帝国最高の魔術師。聖魔力の唯一の研究者。この人物が味方なら心強いが……」
「おにいさまはしんじる?」
「判断を保留する。学者として言えば、オスヴァルトの研究は純粋な知的探究だ。政治的な意図は薄い。だが人間は複雑だ」
慎重な兄らしい判断。
「一つ言えるのは、オスヴァルトが黙ってくれている間は安全だということだ。問題はいつまで黙ってくれるか」
「いつかちからをみせなきゃいけないひがくる、っていってた」
「……その通りだ。聖魔力は隠し続けられない。問題は『いつ、どのように』公にするかだ。それを自分たちで制御できるかどうかが鍵になる」
フェリクスが机に広げた紙に、時系列を書き始めた。
「現状。五歳。聖魔力は秘密。呼吸法による基礎制御は完了。次の段階は応用制御。攻撃、防御、治癒。これを王立学園入学までの二年間で仕上げる」
「おにいさまが教えてくれる?」
「基礎は僕が教えるが、応用には限界がある。僕は学者であって魔術師ではない。いずれ本格的な師が必要になる」
「オスヴァルトせんせい?」
「可能性はある。だが今はまだ早い。信頼関係がない」
フェリクスは紙を畳んだ。
「焦るなよ、セレス。まだ二年ある」
二年。長いようで短い。
王立学園に入学すれば、全てが加速する。より多くの子供たちと出会い、より複雑な人間関係の中に投げ込まれる。前世で「悪役令嬢」のレッテルを貼られた場所。
だが今世では味方がいる。
「おにいさま、おやすみ」
「ああ。おやすみ、セレス」
セレスティアは自室に戻った。
ベッドに入り、胸のブローチに触れる。白い聖石が僅かに温かい。魔力に反応しているのだ。
目を閉じた。
今日の授業を思い出す。水晶球の検査。光属性を装い、闇を隠した。
隠し続けることには限界がある。オスヴァルトの言葉が耳に残る。
いつか、全てを見せる日が来る。
その日が来るまでに、力を制御する。心を制御する。味方を揃える。
そして――自分の意志で、自分のタイミングで、聖魔力を世界に示す。
誰かに暴かれるのではなく。
自分で選ぶ。その日のかたちを。
セレスティアは暗闇の中で、静かに拳を握った。
今夜は悪夢を見なかった。




