第二王子ルシアン
王宮教育プログラムが始まる数日前、セレスティアはもう一人の王族と出会った。
第二王子ルシアン・フォン・アウレリウス。七歳。
アレクシスとは異母兄弟だ。側室の子であり、王太子より二歳年上だが、王位継承権はアレクシスの下に位置する。正妻の子と側室の子。その差は血統社会では決定的だった。
出会いは王宮の庭園だった。
セレスティアはフリーデリケと庭を散歩していた。フリーデリケは相変わらず大人しいが、セレスティアと一緒にいる時だけは顔がほぐれる。
「セレスティアちゃん、あのお花きれいだね」
「うん。しろいばらだ。おうきゅうのにわはおはながたくさんあるね」
そんな会話をしていた時、木陰から声が聞こえた。
「へえ。あれがアルヴェインの娘か」
振り返ると、少年が木に背を預けて立っていた。
赤みがかった茶髪。灰緑色の目。顔立ちはアレクシスの面影があるが、表情が全く違う。アレクシスの目は澄んでいたが、この少年の目には翳りがあった。陰のある目。何かを拗らせた子供の目。
「だれ?」
セレスティアは五歳児らしく首を傾げた。
「ルシアン・フォン・アウレリウス。第二王子だ」
名乗りに虚勢が混じっていた。「第二」という言葉を、わざと強調するように。
フリーデリケがセレスティアの後ろに隠れた。年上の男の子が怖いのだろう。
セレスティアは記憶を探った。ルシアン。第二王子。前世では――
あまり接点がなかった。前世のセレスティアは王太子との関係に集中しており、第二王子は視界の外にいた。だが断片的に覚えている。ルシアンは宰相派に取り込まれ、兄であるアレクシスの足を引っ張る道具として使われた。
宰相はルシアンの継承権コンプレックスを巧みに利用した。「あなたの方が兄より優れている」「側室の子だからと蔑まれるのは不公平だ」と囁き、ルシアンをアレクシスへの敵意で染め上げた。
七歳のルシアンを見ると、その兆候が既に見えた。
目の奥に怒り。自分の立場への不満。兄への複雑な感情。
「アルヴェインの娘。お前、聖魔力を持っているって噂だな」
セレスティアの心臓が跳ねた。
聖魔力の噂。王宮内に広まっているのか。いや、宰相が意図的に流している可能性がある。セレスティアの「異常さ」を喧伝し、警戒心を煽る。
「せいまりょく? なにそれ?」
とぼけた。完璧に。五歳児の無知な顔を作る。
ルシアンは鼻で笑った。
「聖魔力なんて、本当にあるのかな。嘘くさいよね。五百年に一人の力とか。大袈裟すぎるだろ」
挑発だ。だがルシアン自身が信じていないわけではない。むしろ気にしている。聖魔力が本物なら、アルヴェイン家の政治的価値が跳ね上がる。それはルシアンにとって不都合だ。
なぜ不都合か。ルシアンは宰相派に近い。公爵家が強くなれば、宰相派の敵が強くなる。
「わたし、よくわからないけど、ルシアンさまはおにいさまのアレクシスでんかとなかよしなの?」
ルシアンの顔が歪んだ。一瞬だけ。だがセレスティアはそれを見逃さなかった。
「仲良し? あいつは王太子だ。僕は第二王子。仲良しとかそういう関係じゃない」
声が硬い。兄への感情が複雑に絡み合っている。嫉妬。劣等感。そして認められたいという渇望。
七歳の子供が抱えるには重すぎる感情だ。
「そっか。ごめんね、へんなこときいて」
「べつにいい」
ルシアンはそっぽを向いた。だが去ろうとはしない。話し相手が欲しいのだ。この子も孤独なのだ。
「ルシアンさまは、なにがすき?」
「は?」
「おはなとか、ほんとか、けんのおけいことか」
ルシアンは面食らった表情をした。「何が好き」と聞かれることに慣れていないのだろう。周囲の大人は王子に対して敬語と形式的な会話しかしない。「何が好き」という素朴な質問を投げかける人間がいない。
「……馬が好きだ」
「おうま! わたしもすき。おおきくてかっこいいよね」
「乗れるのか?」
「まだちいさいから、ひとりではのれないけど。ヴォルフさまのおうまにのせてもらったことある」
ルシアンの目から翳りが薄れた。馬の話になると、純粋な興味が顔を出す。
「僕はもう一人で乗れる。七歳から乗馬を習っている。先月、父上の御前で乗って見せたんだ」
「すごい! ルシアンさま、かっこいいね」
ルシアンの頬が僅かに赤くなった。褒められ慣れていない子供の反応。
「べ、別にすごくない。王子なら当然だ」
強がり。だがその強がりの裏に、嬉しさが透けている。
セレスティアは内心で考えていた。
ルシアンを敵にしてはいけない。この子は宰相に利用されようとしている。コンプレックスを刺激され、兄への敵意を植え付けられようとしている。
だがまだ七歳だ。まだ間に合う。
ルシアン自身は悪い子ではない。馬が好きで、褒められると照れて、孤独で、認められたいだけの少年だ。
宰相がこの子を壊す前に、何とかしたい。
だが慎重にならなければならない。ルシアンの背後には宰相派の影がある。副宰相マティアスが教育係として関わっているはずだ。セレスティアがルシアンに近づけば、宰相派が警戒する。
今は種を蒔くだけでいい。
「ルシアンさま、またおはなしきかせてね。おうまのこと」
「……まあ、暇だったらな」
ルシアンは背を向けて歩き去った。だが歩調が、来た時より軽かった。
フリーデリケがセレスティアの袖を引いた。
「あのひと、こわかった……」
「こわくないよ。さみしいだけだよ、あのひと」
フリーデリケは不思議そうに首を傾げた。
◇
夕方、別邸に戻ったセレスティアは、フェリクスに報告した。
「第二王子ルシアンに会った」
フェリクスの眉が動いた。
「ルシアン殿下か。宰相派との繋がりが噂されている王子だ」
「うん。さいしょうにつかわれそうになってる。でもまだなないさい。まだまにあう」
「お前、ルシアン殿下も『間に合う』と言うのか」
「だってこどもだもん」
フェリクスは眼鏡を押し上げた。
「セレス、お前は優しすぎる。いや、優しいというより……全員を救おうとしている。王太子も、第二王子も、イザベラも。全員の運命を変えようとしている」
「だめ?」
「駄目じゃない。だが危険だ。全員を助けようとすれば、自分が壊れる」
フェリクスの声に心配があった。十五歳の兄は、妹が五歳の身体で背負おうとしているものの大きさを理解している。
「おにいさま、わたしひとりじゃない。おにいさまがいる。おとうさまがいる。みんながいる」
「……それは、そうだが」
「だからだいじょうぶ。ひとりだったらむりだけど、みんながいるからできる」
セレスティアは笑った。五歳の無邪気な笑顔を。
だが心の中では、新しい名を覚えていた。
ルシアン。第二王子。宰相に利用されかけている少年。
この子を宰相の手から遠ざけることができれば、王宮の力関係は大きく変わる。
だがそれは簡単ではない。ルシアンの心は既に傷ついている。側室の子という立場。兄への劣等感。認められない苦しみ。
その傷に付け込むのが宰相のやり方だ。
セレスティアは傷に付け込まない。傷を癒す。
ルシアンの翳った目。イザベラの冷たい笑み。アレクシスの人見知り。フリーデリケの臆病さ。
皆、まだ子供だ。
助けを求める声を持っている。
上手く言えないだけで。
セレスティアは窓辺に立ち、王都の夕空を見つめた。
一人ずつ。一歩ずつ。
小さな手で、壊れた世界を編み直していく。




