王妃エレオノーラ
王妃からの召喚状が届いたのは、王太子との顔合わせの翌日だった。
「王妃陛下がアルヴェイン公爵夫人とご令嬢を個別にお招きになります」
王宮からの使者が別邸に来た。公式な招待状。王妃の私室への招待。
異例だった。王妃が一介の公爵令嬢を私室に呼ぶなど、通常はありえない。だがリリアーナと王妃エレオノーラの関係を考えれば、不思議ではなかった。
リリアーナの目が輝いた。
「エレオノーラ……」
十年ぶりの再会。政治に引き裂かれた親友。宰相の圧力で連絡すら満足にできなかった二人。
「おかあさま、おうひさまにあえるね」
「ええ。ああ、何を着ていけばいいかしら。マルガレーテ、髪を直して」
リリアーナが慌て始めた。少女のように頬を赤らめている。セレスティアは微笑ましく思いながら、内心では全く別のことを考えていた。
王妃エレオノーラ。
前世では接触できなかった人物。前世のセレスティアは孤立しており、王妃に近づく機会がなかった。母リリアーナは七歳で亡くなり、王妃との繋がりは完全に断たれた。
だが今世では母が生きている。そして母を通じて王妃に会える。
王妃は、この国で数少ない「宰相に楯突ける人間」だった。それでも、宮廷では彼女の声はいつも押し潰される。
この人を味方につけられれば、宰相包囲網の重要な一角になる。
◇
王宮の王妃区画。
警備は厳重だが、招待状を持つ二人は通された。ヴォルフは外門で待機。
長い廊下を歩く。壁には王妃の出身家――ヴァレンシュタイン家――の紋章が飾られている。白い百合の紋章。清楚で気品がある。
王妃の私室の扉が開いた。
中にいたのは、一人の女性だった。
金髪。翡翠色の目。年齢は三十代後半だろうが、美貌は衰えていない。むしろ年齢を重ねて深みが増している。白いドレスに金の刺繍。王妃の正装だが、宝飾は控えめだ。
エレオノーラ・フォン・アウレリウス。この国の王妃。
そして――アレクシスの母。
「リリアーナ」
王妃の声が震えた。
「エレオノーラ……」
リリアーナの声も震えた。
二人の女性が歩み寄り、抱き合った。
長い抱擁。言葉はなかった。十年分の想いが、沈黙の中で交わされていた。
セレスティアは少し離れた場所で、二人を見守っていた。
母の背中が震えている。泣いているのだ。声を殺して。
王妃も泣いていた。翡翠色の目から涙が流れている。
大人の女性が二人、声を殺して泣いている。それだけで、この十年がどれほどの月日だったかが伝わってきた。
やがてリリアーナが身を離した。
「エレオノーラ、元気そうで良かった」
「あなたこそ。体調が悪いと聞いていたから……ずっと心配していたの」
「もう大丈夫よ。今は元気」
リリアーナは微笑んだ。毒のことは言わない。ここで言うべきではない。
王妃の視線がセレスティアに向いた。
「あなたがセレスティア」
王妃が跪いた。王妃が。五歳の子供の前に膝をついた。
「お母様に似ているわね。銀色の髪はお父様だけれど、目はリリアーナの形」
「おうひさま、はじめまして。セレスティア・フォン・アルヴェインです」
セレスティアは深く礼をした。
王妃の翡翠色の目がセレスティアを見つめた。温かい目。だがその奥に、鋭さもある。王妃は政治の世界で生きてきた人だ。温かさと鋭さを併せ持っている。
「昨日、アレクシスが帰ってきて言ったの。『銀色の髪の女の子と友達になれた。嬉しかった』って。満面の笑みで」
セレスティアの胸が温かくなった。アレクシスが喜んでくれたのだ。
「でんかは、とてもやさしいかたでした」
「やさしい……ええ、あの子は優しい子よ。優しすぎて心配になるくらい」
王妃の声に影が差した。王太子の優しさは美点だが、宮廷政治では弱点にもなる。宰相がその優しさを利用することを、王妃は恐れているのだろう。
◇
茶が運ばれた。
王妃の侍女が淹れた紅茶。香りが良い。王室御用達の最高級品だ。
三人は丸いテーブルを囲んだ。王妃とリリアーナが向かい合い、セレスティアはリリアーナの隣に座っている。
最初は昔話だった。少女時代の思い出。一緒に花冠を作ったこと。王宮の庭で迷子になったこと。笑い声が私室に満ちた。
だがやがて、話題は変わった。
「リリアーナ、率直に聞くわね」
王妃の声が変わった。友人の声から、政治家の声に。
「何年も体調が悪いと聞いていた。でも急に回復した。何があったの」
リリアーナは一瞬迷ったが、セレスティアを見た。セレスティアは小さく頷いた。王妃には伝えるべきだ。味方にするなら、ある程度の真実を共有しなければならない。
「エレオノーラ、私は……毒を盛られていたの」
王妃の顔色が変わった。紅茶のカップを置いた手が僅かに震えた。
「毒?」
「薬に混ぜられていたの。三年間。慢性的に。気づいた時には身体がかなり弱っていた」
「誰が」
「家臣の一人。既に処分しました。でも背後にいたのは……」
リリアーナは言葉を切った。ここから先は危険な領域だ。宰相の名を王宮の中で口にすることのリスク。
だが王妃は察した。
「……ガルニエね」
静かな声。だが怒りが滲んでいた。
「証拠はあるの」
「夫が確保しています。宰相家の紋章入りの指示書。毒の処方。金の流れ」
王妃は目を閉じた。長い沈黙があった。
「やはり……」
王妃が呟いた。
「やはり、あの男はそこまでするのね。リリアーナ、あなたを狙ったのは、王家との繋がりを断つためよ。あなたが倒れれば、アルヴェインと王家の関係が切れる。宰相にとって最大の障害が消える」
リリアーナは頷いた。公爵からも同じ分析を聞いている。
「エレオノーラ、あなたも危険なの?」
「私は王妃だから、直接的な毒殺はされない。でも政治的には封じ込められている。宰相が陛下の耳元を握っている。私が何を進言しても、宰相に覆される」
王妃の声に疲労があった。何年も戦い続けた女性の疲労。
「でも今日、あなたに会えて希望が持てた」
王妃がリリアーナの手を握った。
「リリアーナ、力を合わせましょう。一人では無理でも、二人なら」
セレスティアは黙って聞いていた。二人の大人の会話。政治の話。
だが心の中では、手が動いた感触があった。
王妃がセレスティアに視線を向けた。
「セレスティア、あなたは聡明な子ね。お母様の話を聞いていたでしょう」
「はい、おうひさま」
隠す必要はなかった。王妃は既にセレスティアの「異常な聡明さ」を感じ取っている。アレクシスの話を聞いていれば、五歳児が王太子に友情を申し出る胆力を持つことも知っている。
「あなたのお母様は私の大切な友人よ。あなたを守ることは、リリアーナを守ることと同じ」
「ありがとうございます、おうひさま」
「それから……」
王妃が少し言いにくそうに言葉を選んだ。
「アレクシスのことを、よろしくね。あの子は友達が少なくて。あなたが友達になってくれたこと、本当に嬉しそうだったの」
母の顔だった。王妃ではなく、一人の母親の顔。息子の友達に頭を下げる、普通の母親。
「でんかとは、ずっとおともだちでいます」
約束した。前世の処刑者と友であり続けると。
それは矛盾した約束かもしれない。だが矛盾を超えてこそ、運命は変わる。
◇
帰りの馬車の中で、リリアーナは涙を拭いていた。
「エレオノーラに会えて良かった。十年分の話ができた」
「おかあさま、おうひさまもおかあさまにあえてうれしそうだったよ」
「ええ。あの人も苦労しているのね。王妃なのに、自由がないなんて」
リリアーナの声に悲しみがあった。親友が政治の檻に囚われている。
セレスティアは窓の外を見た。王宮の金色のドームが夕日に輝いている。
王妃は味方だ。
――でも、まだ足りない。宰相の影は、王宮より大きい。王妃と公爵家だけでは対抗できない。
もっと味方が必要だ。もっと多くの仲間が必要だ。
一人ずつ。一手ずつ。
人を繋いでいく。
まだ網は粗い。だが確実に広がっている。
セレスティアは胸のブローチに触れた。
銀の鷲が、夕日の中で静かに光っていた。




