王太子アレクシス
その日が来た。
王宮での子供たちの顔合わせ。貴族の子女と王族の子女が正式に対面する場。年に一度の行事であり、将来の政治地図を予見する場でもある。
セレスティアは朝から準備に追われた。
白いドレス。銀の髪を丁寧に梳かし、小さな三つ編みを耳の横に作る。胸には父から贈られたブローチ。碧い石が朝日を反射して煌めく。
「お嬢様、とてもお綺麗です」
ナターシャが目を輝かせた。
「ありがとう。でもナターシャ、きょうはおうちでまっていて」
「え? お供しなくてよろしいのですか?」
「おうきゅうにはいれるのは、きぞくだけだから」
ナターシャは残念そうだったが頷いた。
代わりにヴォルフが同行する。護衛騎士として、王宮の外門まで。王宮内は王宮騎士の管轄だが、ヴォルフは門の傍で待機する。
馬車が王宮に向かう。リリアーナが同行し、フェリクスも学術院の用件で王宮を訪れる予定だ。
セレスティアは馬車の中で、自分の手を見つめていた。
震えている。
止められない。呼吸法を使っても、ブローチの聖石に触れても、震えが止まらない。
王太子に会う。
アレクシス・フォン・アウレリウス。
前世で自分の処刑を命じた人物。
十八歳の時、王太子は玉座の横に立ち、無感動な目でセレスティアの処刑を見下ろした。群衆が歓声を上げ、刃が落ちる瞬間も、あの目は何の感情も映さなかった。
あの目を、今日見る。
五歳の姿で。
「セレスティア、大丈夫?」
リリアーナが娘の手を握った。
「うん。だいじょうぶ」
嘘だ。大丈夫ではない。心臓が胸を突き破りそうに暴れている。首が痛い。幻覚だ。処刑の記憶が首の痛みとして蘇る。
だが行かなければならない。
王太子から逃げれば、前世と同じだ。恐怖に支配され、関係を築けず、最後に断罪される。
今世では違う。王太子と向き合い、関係を作り直す。五歳の今ならまだ間に合う。
◇
王宮は白亜と金の殿堂だった。
巨大な門。整列する近衛騎士。磨き上げられた大理石の床。天井から降り注ぐ光。
セレスティアは母の手を握ったまま、王宮の大広間に入った。
子供たちが既に集まっていた。茶会で見た顔もある。イザベラが中央近くに座り、紫の瞳で周囲を支配している。フリーデリケが壁際で不安そうにしている。
セレスティアはフリーデリケの隣に行った。
「フリーデリケちゃん、おはよう」
「セレスティアちゃん! よかった、知ってる人がいて……」
フリーデリケが安堵の表情を浮かべた。手を握ってきた。小さな手が震えている。この子も緊張しているのだ。
「だいじょうぶだよ。いっしょにいるから」
トランペットの音が響いた。
大広間の奥の扉が開く。
近衛騎士が左右に整列し、その間を歩いてくる人物がいた。
少年だった。
金髪。琥珀色の目。整った顔立ち。五歳にしては落ち着いた佇まい。だが威圧感はない。むしろどこか戸惑いの気配がある。
王太子アレクシス・フォン・アウレリウス。
五歳。
セレスティアの全身が凍りついた。
あの顔だ。
十三年後にセレスティアの処刑を無感動に見下ろす顔の、幼い原型。金髪は同じ。目の色は同じ。顎の線は柔らかいが、骨格は同じだ。
成長すれば、あの顔になる。あの冷酷な目になる。あの無感動な表情になる。
――本当にそうか?
セレスティアは自分に問いかけた。
本当に、この五歳の少年が、あの冷酷な王太子になるのか?
今のアレクシスを見ろ。見るんだ。前世の記憶ではなく、今のこの瞬間の少年を。
アレクシスは大広間の中央に立った。周囲の子供たちの視線を浴びて、僅かに居心地悪そうにしている。
人見知り。
前世の冷酷な王太子は、人見知りだった。
「皆さん、本日はお集まりいただき……えっと……」
用意された挨拶を忘れたらしい。言葉に詰まった。五歳の少年の顔が赤くなる。
傍に立つ侍従が小声で台詞を教えた。
「ああ、えっと、ようこそ王宮へ。みなさんと、友達に……なれたらいいなと思います」
たどたどしい挨拶。棒読み。だが最後の「友達になれたらいいな」だけは、用意された台詞ではなく、自分の言葉のように聞こえた。
琥珀色の目が潤んでいた。緊張しているのだ。この子は。
セレスティアの胸が軋んだ。
この子が、処刑を命じる人間になるのか。この人見知りの、言葉に詰まる、顔を赤くする少年が。
何がこの子を変えるのだろう。宰相の影響か。宮廷の政治か。それとも――セレスティア自身との関係のこじれか。
前世で何があったのか、セレスティアは全てを知っているわけではない。処刑の理由は「国家反逆罪」だったが、その裏にどんな経緯があったか、断片的にしか覚えていない。
ただ一つ確かなのは、前世のセレスティアと王太子の関係は最悪だったということだ。
今世では、違う関係を築く。
◇
顔合わせが始まった。
子供たちが一人ずつ王太子に挨拶する。名前と家名を告げ、礼をする。形式的だが、貴族の子供たちにとっては重要な通過儀礼だ。
イザベラが最初だった。完璧な礼。完璧な微笑。
「イザベラ・ド・ガルニエでございます。王太子殿下にお目にかかれて光栄でございます」
六歳とは思えない流麗な所作。アレクシスが目を瞬かせた。
「う、うん。よろしく、イザベラ」
たどたどしい返答。イザベラの唇が微かに曲がった。あの計算する笑み。
次々と子供たちが挨拶していく。セレスティアの順番が近づく。
心臓が暴れている。手が震えている。首が痛い。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
呼吸を整える。恐怖を押し込める。全てを押し込める。
「セレスティア・フォン・アルヴェインです」
名前が呼ばれた。
足が動いた。一歩。二歩。三歩。
王太子の前に立つ。
アレクシスが見上げた。いや、同じ高さだ。五歳と五歳。身長はほぼ同じ。
琥珀色の目が碧い目を見た。
セレスティアの世界が歪んだ。
一瞬。ほんの一瞬。琥珀色の目が十八歳の冷酷な目に変わった。幻覚だ。PTSDのフラッシュバック。処刑の記憶が視覚を侵食する。
だが次の瞬間、幻覚は消えた。
目の前にいるのは五歳の少年だ。頬がまだ丸い。目が澄んでいる。恐怖も冷酷さもない。ただの子供が、眉根をわずかに寄せてセレスティアを見ている。
「セレスティア・フォン・アルヴェインです。でんか、おめにかかれてこうえいです」
礼をした。声は震えなかった。奇跡的に。
アレクシスがじっとセレスティアを見ていた。何かを感じ取ったのだろうか。少年の目が僅かに動いた。
「君が……セレスティア?」
「はい」
「母上が話していた。セレスティアという子が来ると。銀色の髪の、綺麗な子だって」
王妃がセレスティアのことをアレクシスに話していたのか。母リリアーナの親友が、息子に伝えてくれていた。
「おうひさまにそういっていただけて、うれしいです」
「あの……手」
アレクシスが手を差し出した。小さな手。王族の手だが、まだ柔らかい子供の手。
セレスティアは呼吸を止めた。
この手を取る。前世で自分を殺した人間の手を。
だがこの手はまだ何も殺していない。何も壊していない。この手はまだ、ただの子供の手だ。
震える手を伸ばした。
指が触れた。
温かかった。
人間の体温。生きている子供の温もり。前世の記憶にある冷たい目とは対照的な、温かい手。
「よろしく、セレスティア」
アレクシスが笑った。ぎこちない笑み。人見知りの少年の、精一杯の笑顔。
セレスティアの目から涙が一粒落ちた。
止められなかった。
アレクシスが驚いた。「え、泣いてる? 僕、何か変なこと言った?」
「ううん。ちがうの。ちがう。うれしくて」
嘘ではない。嘘ではないのだ。
この少年は、まだ変われる。まだ冷酷になっていない。まだ間に合う。
前世で処刑を命じた人間が、今は五歳の笑顔で手を差し出してくれている。
それが嬉しかった。どうしようもなく嬉しかった。
「へんなの」
アレクシスが困ったように笑った。
「うん、へんだよね。ごめんね」
セレスティアも笑った。涙を拭いて。
「でもね、でんか。わたし、でんかとおともだちになりたいです」
アレクシスの琥珀色の目が丸くなった。
「友達? 僕と?」
「うん。だめ?」
「だめじゃ、ない。でも……僕、友達って、あんまりいなくて」
王太子は孤独だった。王族という立場が子供を孤立させる。周囲は臣下であり友ではない。同年代の子供は畏怖するか、利用しようとするか、どちらかだ。
「わたしもすくなかったよ。でもね、さいきんできたの。フリーデリケちゃんっていう」
「フリーデリケ……ヴァイツゼッカー家の?」
「うん。やさしいこだよ。でんかもおはなししてみて」
アレクシスの顔が、ほんのりほぐれた。
「……うん。話してみる」
手を離した。だが温もりは残った。
セレスティアは列を離れ、フリーデリケの傍に戻った。
「セレスティアちゃん、だいじょうぶだった? 泣いてたけど……」
「だいじょうぶ。うれしかっただけ」
フリーデリケが不思議そうに首を傾げた。
◇
顔合わせの後、庭園で自由時間になった。
子供たちが庭を走り回る中、セレスティアは木陰のベンチに座っていた。膝が震えている。全身の力が抜けている。
緊張が解けたのだ。王太子と対面するという、巨大な壁を一つ越えた反動。
「お嬢様」
フェリクスが近づいてきた。学術院の用件を終えて合流したのだろう。
「おにいさま」
「王太子と話したと聞いた。大丈夫だったか」
「うん。だいじょうぶだった。おうたいし、やさしかった」
フェリクスはセレスティアの傍に座った。
「セレス。お前が王太子を見た時、足が止まったと母上が言っていた」
「……うん」
「怖かったか」
「こわかった。すごく。でも……あのこは、わるいこじゃなかった。まだ」
「まだ、か」
フェリクスはその言葉の重さを感じ取ったようだった。「まだ」という言葉は、将来は変わるかもしれないという暗示だ。
「おにいさま、おうたいしをわるいひとにしたくない」
「……お前は王太子のことまで心配するのか」
「だって、まだこどもだもん。わたしとおなじ。かわれるよ、まだ」
フェリクスは何も言わなかった。ただ妹の頭を撫でた。
セレスティアは目を閉じた。
王太子アレクシスの手の温もりがまだ残っている。
あの温もりを覚えておく。
この少年が冷酷な王になるのを、防ぐために。
まだ五歳だ。お互いに。
だからこそ、間に合う。
全ては、ここから始まる。




