イザベラ・ド・ガルニエ
茶会から二日後、セレスティアは再びイザベラと顔を合わせた。
場所は王都の大図書館だった。貴族の子女向けに開放される「読書の日」という催しで、月に一度、子供たちが図書館を自由に使える。
セレスティアはフェリクスに連れられて来た。兄は図書館と聞いて目を輝かせた。学者にとって王都の大図書館は聖地であり、公爵領の書庫とは蔵書の規模が桁違いだった。
「セレス、一時間だけ自由にしろ。僕は魔力学の最新論文を探す」
フェリクスは妹を置いて書架の奥に消えた。十五歳の学者少年の背中が、本の間に吸い込まれていった。
ナターシャとヴォルフが傍にいる。セレスティアは子供向けの閲覧室に入った。
明るい部屋には低い書架と柔らかな絨毯があり、十人ほどの子供たちが思い思いに本を読んでいた。
その中にイザベラがいた。
窓辺の椅子に座り、分厚い本を開いている。表紙には「王国政治制度概論」と書かれていた。六歳の子供が読むには難しすぎる本だ。
イザベラの指は一行ずつ文字を追っていたが、何度も同じ箇所で止まる。頁の端には、教師の字で難しい単語を言い換えた紙片が挟まっていた。全てを理解して読み進めているのではない。父に指定された箇所を、意味ごと覚えようとしているのだ。
セレスティアが部屋に入ると、イザベラが顔を上げた。紫の瞳がセレスティアを捉えた。
「あら、アルヴェイン家のお嬢様。また会ったわね」
「イザベラさま、こんにちは。なんのほんよんでるの?」
「政治の本よ。あなたには難しいかもしれないわね」
挑発ではなく、事実の指摘として言っている。六歳と五歳という年齢差を、イザベラは自分が上である証のように自然に示していた。
「せいじ? せいじってなに?」
セレスティアは、五歳児らしい表情を崩さなかった。
イザベラが本を閉じた。紫の瞳が少し面白そうに光った。
「政治は、人を動かすことよ。王様やお貴族様が、みんなに『こうしなさい』って決めるの」
覚えた文章を、少しだけ子供の言葉に直したような答えだった。
「みんながしあわせになるの?」
「それは、たてまえ、だって」
「たてまえ?」
聞き返すと、イザベラの指が本の端を弄った。
「きれいに言うこと、だと思うわ。お父様がそう言っていたもの」
言葉は知っている。だが自分のものとして使い分けられるほど、意味を理解してはいない。セレスティアが前世の記憶を持つのとは違う。イザベラは、正解を一字一句覚えるよう育てられた子供なのだ。
「じゃあ、ほんとうは?」
「お父様はね」
イザベラが声を落とした。そこから先は、誰かの言葉を暗唱する調子になった。
「強い人が弱い人を、したがわせる。賢い人が……ええと、おろかな人を導く。それが本当の政治だ、って」
「おろかな?」
「まちがえる人のこと。たぶん」
宰相の哲学だった。権力は支配のためにあり、知恵は他者を操るためにある。だが目の前の六歳児は、その意味を自分で選んだのではない。難しい一節を、父に認めてもらうため懸命に覚えているだけだった。
セレスティアは違う考えを持っている。だが今はそれを口にしない。
「イザベラさまは、つよいひと?」
「私はまだ弱いわ。でもいつか強くなる。お父様のように」
言葉が出るまでに、わずかな間があった。自分の気持ちを確かめたのではない。父に教えられた正解を探すための間に見えた。
イザベラにとって父は絶対的な存在なのだ。褒められる答えを選ぶことと、自分で考えることの区別さえ、まだ教えられていない。
だがその崇拝は危険だ。宰相が正しいことをしている限りはいい。だが宰相が間違えた時、イザベラは父の過ちを是正できるだろうか。
前世の記憶を探ったが、イザベラの末路は思い出せなかった。前世では接点が少なく、彼女がどうなったかを知らない。社交界の裏で暗躍していたが、セレスティアの処刑後にどうなったかは、処刑の場面で途切れた記憶の外にある。
「ねえ、セレスティア」
イザベラが名前を呼んだ。初めてだ。「アルヴェイン家のお嬢様」ではなく「セレスティア」と。
「なに?」
「あなた、本当に五歳なの?」
言葉が一瞬、喉に引っかかった。
「うん。ごさい。おたんじょうびはらいげつ……あ、もうすぎちゃった。ことしのはるに」
わざとたどたどしく答えた。
イザベラの目が細まった。何かを考え、計算している。
「そう。五歳ね。でも、ほかの五歳の子とちがうわ」
「どこが?」
「笑う前に、ちょっと考えるでしょう。ほかの子は、お菓子をもらったらすぐ笑うもの」
よく見ている。だが読み取ったのは魂の年齢ではなく、目の前で繰り返された小さな癖だ。六歳の観察として鋭くても、セレスティアの秘密へ届いたわけではない。
「そんなことないよ。ふつうだよ」
「ふふ。そうかしら」
イザベラは笑った。今度は目も笑っていた。友好と呼ぶには早いが、父に命じられた探りではない。変わった遊び相手を見つけた、六歳の子供の笑みだった。
「また会いましょう、セレスティア。あなた、面白いわ」
イザベラは本を持って立ち去った。背筋は教えられた通りに伸びていたが、本を持たない方の手は、スカートを小さく握っている。女王のように見える姿を、六歳の少女が懸命に崩すまいとしていた。
セレスティアは椅子に座ったまま、去っていくイザベラの背中を見つめた。
あの紫の瞳は、間違いなく子供のものだった。ただ、間違えることを許されずに育った子供の目だ。
観察力は鋭い。父の命令にも従う。だから警戒は要る。だが父と同じ完成した敵として扱うべきではない。
イザベラとの関係をどう構築するか。友か敵か。あるいは第三の道か。
前世にはなかった選択肢を、今世では選べる。
◇
図書館の帰り道、セレスティアはフェリクスの隣を歩いていた。
「おにいさま、さいしょうってどんなひと?」
フェリクスが少し驚いた顔をした。「急にどうした」
「きょう、さいしょうのむすめさんにあったの。イザベラっていうの」
「ガルニエ家の令嬢か。会ったのか」
「うん。あたまのいいこだった」
フェリクスの眼鏡の奥で、学者の目が光った。
「宰相ガルニエ……ヴィクトール・ド・ガルニエ。六十二歳。三十年間宰相の座にある。政治的手腕は王国随一。だが手段を選ばないことでも知られている」
「しゅだんをえらばない?」
「目的のためなら、嘘も裏切りも暗殺も使う。政敵を排除するために家族を人質にしたことも、証拠をでっち上げて貴族を没落させたこともある」
フェリクスの声は冷静だったが、底に怒りがあった。母を毒で殺そうとした黒幕。その名を口にする時、兄の声は硬くなる。
「おにいさま、さいしょうにかつほうほうってある?」
「……正面からぶつかっても勝てない。権力も資金も人脈も、あちらが上だ。だが弱点がないわけではない」
「じゃくてん?」
「宰相は人を信じない。全てを自分で管理しようとする。部下は道具だ。娘も道具だろう。だがそれは同時に、心からの味方がいないということだ。裏切られることを常に恐れている」
孤独な権力者、信じる者のいない男。
セレスティアには分かった。宰相は、ディートリヒの先にいる人間だ。
「人を信じない人間は、信頼で結ばれた集団に弱い」
フェリクスが呟いた。
「わたしたちのこと?」
「ああ。公爵家は今、信頼で結ばれている。父上、母上、ヘルマン、マルガレーテ、ナターシャ、ヴォルフ。そしてお前と僕。金や脅しでは崩せない絆がある」
信頼と絆。それは前世のセレスティアにはなかったものであり、今世で三歳から必死に築いてきたものだった。
「それがさいしょうにかつほうほう?」
「一つの方法だ。全てではないが、基盤にはなる」
フェリクスはセレスティアの頭を撫でた。十五歳の兄の手は、二年前より大きくなっていた。
「焦るなよ、セレス。お前はまだ五歳だ」
「わかってる。でもてきはまってくれない」
「だから僕たちがいる。お前一人で戦う必要はない」
兄の言葉が胸に沁みた。
一人ではない。それが今世の最大の武器だ。
◇
夜、別邸の自室で、セレスティアは今日の出来事を整理していた。
ナターシャが隣で、先日の茶会で耳にした名前を帳面に書き留めている。王都の使用人たちから情報を集めるための覚え書きだ。
「ナターシャ」
「はい、お嬢様」
「イザベラっていうこのこと、どうおもった?」
ナターシャは茶会の時、離れた場所からイザベラを見ていた。
「……怖い方だと思いました」
「こわい?」
「目が怖いです。冷たくて、計算している目。でもそれを隠すのが上手で、周りの子供たちはみんなイザベラ様に従っていました」
十四歳のナターシャの観察は的確だった。
「ナターシャ。あのこをかんさつして。どんなせいかつをしてるか。だれとなかがいいか。どんなほんをよんでるか。おうとにいるあいだに」
「はい。お嬢様」
ナターシャは迷わず頷いた。この二年で、「お嬢様の命令には理由がある」と骨の髄まで理解している。
セレスティアは窓辺に立ち、王都の夜景を眺めた。
無数の灯りが星のように瞬いている。その一つひとつの下に、人の暮らしと、それぞれの思惑がある。
宰相もこの街にいる。王宮という権力の巣に身を置いている。
「セレスティア・フォン・アルヴェイン。面白い子ね」
イザベラの声が耳に残っている。
面白い。その言葉は褒め言葉ではない。セレスティアには、宰相の娘にとって「面白い」とは「分析する価値がある」という意味に聞こえた。
セレスティアは分析されている。品定めされている。
だがそれは同時に、セレスティアもイザベラを分析できるということだ。
互いに観察し合う二人の少女。五歳と六歳。
この関係が将来どうなるかは、まだ分からない。
だがセレスティアは一つだけ確信していた。
イザベラ・ド・ガルニエは、前世とは違う形で、今世に深く関わってくるのかもしれない。
敵として。あるいは――
それは、まだ分からない。
セレスティアは窓を閉め、ベッドに向かった。
明日は王太子との顔合わせだ。
前世の処刑者。五歳の王太子。アレクシス・レグナシオン。
会わなければならない。向き合わなければならない。
恐怖はある。だが逃げない。
逃げたら、前世と同じだ。
セレスティアは胸のブローチを握りしめ、目を閉じた。
今夜、悪夢を見るかもしれない。
それでも、明日の足を止めるわけにはいかない。悪夢の先には、変えるべき未来がある。




