薬草の暗号
妹が五歳になった春、僕は一冊の暗号帳を作った。きっかけは、セレスティアが書庫へ持ってきた一通の手紙だった。
宛名も本文もない。白い紙の中央に、ラベンダーの絵だけが描いてある。五歳の手にしては線が整いすぎていたが、そこはもう驚かなかった。この妹について、驚くべきことは三歳のうちに一通り起きている。
「おにいさま。手紙を、ほかの人に読まれても、分からないようにしたいの」
「誰に送る手紙だ」
「まだ、だれにも。でも、これからひつようになるから」
未来形だった。セレスティアは、いつも必要になる前に準備を始める。
◇
普通の換字暗号なら、一時間で作れる。文字を数字へ置き換え、数字を別の文字へ戻すだけだ。
だが、それでは手紙を開かれた時点で怪しまれる。暗号だと分かる暗号は弱い。必要なのは、誰が読んでも兄妹の他愛ない文通に見える文章だった。僕は薬草図鑑を机へ置いた。
「植物の名前を使う」
「おはな?」
「花だけじゃない。根、茎、葉、種。乾燥させるか、生で使うか。産地と季節も組み合わせる。同じラベンダーでも、春に摘むか、冬に乾燥させるかで意味を変えられる」
妹の碧い目が光った。五歳の子供が暗号理論を聞いて見せる目ではない。僕は見なかったことにした。
「でも、むずかしすぎたら、ナターシャがよめない」
「ナターシャも使うのか」
「うん。わたしがいないところで、見たことをおしえてもらうから」
情報を集めるつもりなのだ。五歳の妹が。自分がいない場所の情報を、侍女から受け取るために。聞きたいことは山ほどあった。なぜ必要だと分かる。誰を警戒している。どこまで先を知っている。
だが僕が聞いたのは、一つだけだった。
「ナターシャは植物に詳しいか」
「おやさいなら、くわしい」
「では、最初は野菜も入れよう」
◇
三日かけて、最初の暗号帳を作った。
薬草の名前が二十。野菜が十。季節が四つ。数字は古い暦の月名へ置き換えた。
セレスティアには絵入りの表を渡した。文字だけの表を渡せば、五歳児が難しい暗号を読んでいること自体が秘密にならない。ナターシャには、台所の献立表に見える形で渡した。
試しに三人で同じ文章を作った。僕が暗号へ変え、セレスティアとナターシャが別々に読む。結果は失敗だった。妹は正しく読んだが、ナターシャは人参と赤蕪を取り違えた。
「申し訳ありません。絵が似ていて」
ナターシャが頭を下げた。
「謝る必要はない。使う人間が間違えるなら、作った方の問題だ」
「おにいさま、赤かぶをやめよう。人参だけでいいよ」
「意味が一つ減る」
「意味が多くても、まちがえたら届かないから」
その通りだった。
僕は表を作り直した。似た絵を減らし、急ぎの文には必ず同じ言葉を二度入れる規則を加えた。暗号は難しければ強いわけではない。必要な人間が、必要な時に使えることの方が重要だ。
それを教えたのは、五歳の妹と十四歳の侍女だった。最初の試験は、僕が王都へ出た日の夜に届いた。
『おにいさまへ。
今年のラベンダーは、東の窓辺でよく乾きました。人参は三本。じゃがいもは一つ、傷んでいました。セレスティア』
表向きは、庭と台所の話だ。復号すると、こうなる。
『東棟を見張る者あり。三人は安全。一人は未確認』
五歳の妹が送る内容ではない。それでも、暗号に間違いは一つもなかった。僕は返信を書いた。
『傷んだじゃがいもは捨てず、切り口を確かめること。毒でなければ、植え直せる』
意味は、未確認の者をすぐ敵と決めるな。行動を見ろ。数日後、妹から短い返事が来た。
『わかりました。見てからきめます』
それが、僕たちの最初の暗号通信だった。学術院の暗号学者が見れば、子供だましだと笑っただろう。だが、その子供だましの暗号は、後に何十通もの手紙を守った。
妹の秘密と、妹の仲間を。僕は答えを聞かなかった。代わりに、答えを守る箱を作った。




