安い墨
王立学術院の墨は高い。
正確には、学術院指定の墨が高い。煤を細かく砕き、油と樹脂を混ぜ、百年後も退色しないよう調整されている。論文や公文書には適している。だが、暗号を書くには目立ちすぎた。
十八歳で王立学術院へ入った僕は、三ヶ月目に下町の文具店を探した。
王都南区。石畳が途切れ、雨が降れば泥になる通り。店の看板は半分欠けていた。店主は僕の白衣を見て、最初に一番高い墨を出した。
「一番安いものを」
「学者先生が使う品じゃありませんよ」
「滲むか」
「少し」
「乾くまでの時間は」
「上等品の倍」
「それでいい」
安い墨を三瓶買った。学術院へ戻ると、同じ研究室の学生に見つかった。
「それ、南区の墨ですか」
「そうだ」
「論文には使えませんよ。色が薄いし、紙も傷みます」
「論文には使わない」
「では、何に」
僕は一瞬だけ考えた。
「失敗した計算を書く」
嘘ではない。暗号作りは、失敗した計算の連続だ。学生は納得しなかったようだが、それ以上は聞かなかった。翌朝、僕の机に指定墨の小瓶が一つ置かれていた。差出人はない。
安物を買うほど困っていると思われたらしい。僕はその小瓶を論文へ使い、安い墨を机の奥へ隠した。同じ文字を書く道具でも、役割は違う。見せるための墨と、見つからないための墨だ。
◇
学術院の手紙は、全て記録される。
誰が誰へ出したか。どの地方へ送ったか。封蝋に異常がなかったか。研究成果の盗用を防ぐための制度だが、見方を変えれば、研究者の人間関係を丸ごと把握できる仕組みでもある。
妹への手紙を、そこへ残すわけにはいかなかった。僕は昼に学術院の論文を書く。指定の黒い墨で。
夜は借りた屋根裏部屋で、薬草の暗号を書く。下町の灰色がかった墨で。
紙も二種類に分けた。公式の研究には学術院の透かし入り。妹への手紙には市場で束売りされる薄い紙。
同じ筆跡を避けるため、暗号文ではペン先を逆に持った。線が太くなり、別人の字に見える。学者の仕事というより、密偵の真似事だった。僕は密偵ではない。
ただ、妹が必要としていた。それで十分だった。
◇
南区で、ニコラスという男に会った。表向きは古物商。実際には、金を払えば表に出ない情報を探す男だ。彼は僕の手を見た。
「本と薬品の匂いがする。あんた、自分で路地を歩く人間じゃないな」
「必要なら歩く」
「誰のために」
「依頼と関係のない質問だ」
ニコラスは笑った。僕は笑わなかった。
彼に頼んだのは、宰相府と取引のある薬材商の流れを調べることだった。学術院の資料では、全て合法に見えた。だが公文書は、記録する者が選んだ事実しか残さない。
下町には、記録されない荷車と、帳簿に載らない倉庫がある。
「結果はどこへ届ける」
ニコラスが聞いた。僕は安い墨で書いた紙片を渡した。植物の育て方にしか見えない暗号文。
「この形式で書け」
「読めねえよ」
「読めなくていい。見た通り写せば、こちらで読む」
「面倒な客だな、学者先生」
「よく言われる」
◇
半年後、公爵家の家族会議に呼ばれた。膝の上には、いつものノートを置いた。表紙に灰色の墨が付いていた。父は気づかなかった。兄も気づかなかった。セレスティアだけが、一度、染みを見た。
何も言わなかった。会議が終わった後、廊下ですれ違った時に小さく囁いた。
「おにいさま。南の畑は、どうでしたか」
暗号では、南の畑は下町の情報源を意味する。
「痩せた土地だ。だが根は深い」
「そう。よかった」
妹はそれだけ言って、父の後を追った。僕の袖には、下町の匂いが残っていた。煤。泥。安い油。学術院の白い廊下には似合わない匂いだった。だが、真実はいつも上等な紙に書かれているとは限らない。
妹を守った情報のいくつかは、安い墨でしか残せなかった。




