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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝⑦「答えを探す兄」

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安い墨

 王立学術院の墨は高い。


 正確には、学術院指定の墨が高い。煤を細かく砕き、油と樹脂を混ぜ、百年後も退色しないよう調整されている。論文や公文書には適している。だが、暗号を書くには目立ちすぎた。


 十八歳で王立学術院へ入った僕は、三ヶ月目に下町の文具店を探した。


 王都南区。石畳が途切れ、雨が降れば泥になる通り。店の看板は半分欠けていた。店主は僕の白衣を見て、最初に一番高い墨を出した。


 「一番安いものを」


 「学者先生が使う品じゃありませんよ」


 「滲むか」


 「少し」


 「乾くまでの時間は」


 「上等品の倍」


 「それでいい」


 安い墨を三瓶買った。学術院へ戻ると、同じ研究室の学生に見つかった。


 「それ、南区の墨ですか」


 「そうだ」


 「論文には使えませんよ。色が薄いし、紙も傷みます」


 「論文には使わない」


 「では、何に」


 僕は一瞬だけ考えた。


 「失敗した計算を書く」


 嘘ではない。暗号作りは、失敗した計算の連続だ。学生は納得しなかったようだが、それ以上は聞かなかった。翌朝、僕の机に指定墨の小瓶が一つ置かれていた。差出人はない。


 安物を買うほど困っていると思われたらしい。僕はその小瓶を論文へ使い、安い墨を机の奥へ隠した。同じ文字を書く道具でも、役割は違う。見せるための墨と、見つからないための墨だ。


 ◇


 学術院の手紙は、全て記録される。


 誰が誰へ出したか。どの地方へ送ったか。封蝋に異常がなかったか。研究成果の盗用を防ぐための制度だが、見方を変えれば、研究者の人間関係を丸ごと把握できる仕組みでもある。


 妹への手紙を、そこへ残すわけにはいかなかった。僕は昼に学術院の論文を書く。指定の黒い墨で。


 夜は借りた屋根裏部屋で、薬草の暗号を書く。下町の灰色がかった墨で。


 紙も二種類に分けた。公式の研究には学術院の透かし入り。妹への手紙には市場で束売りされる薄い紙。


 同じ筆跡を避けるため、暗号文ではペン先を逆に持った。線が太くなり、別人の字に見える。学者の仕事というより、密偵の真似事だった。僕は密偵ではない。


 ただ、妹が必要としていた。それで十分だった。


 ◇


 南区で、ニコラスという男に会った。表向きは古物商。実際には、金を払えば表に出ない情報を探す男だ。彼は僕の手を見た。


 「本と薬品の匂いがする。あんた、自分で路地を歩く人間じゃないな」


 「必要なら歩く」


 「誰のために」


 「依頼と関係のない質問だ」


 ニコラスは笑った。僕は笑わなかった。


 彼に頼んだのは、宰相府と取引のある薬材商の流れを調べることだった。学術院の資料では、全て合法に見えた。だが公文書は、記録する者が選んだ事実しか残さない。


 下町には、記録されない荷車と、帳簿に載らない倉庫がある。


 「結果はどこへ届ける」


 ニコラスが聞いた。僕は安い墨で書いた紙片を渡した。植物の育て方にしか見えない暗号文。


 「この形式で書け」


 「読めねえよ」


 「読めなくていい。見た通り写せば、こちらで読む」


 「面倒な客だな、学者先生」


 「よく言われる」


 ◇


 半年後、公爵家の家族会議に呼ばれた。膝の上には、いつものノートを置いた。表紙に灰色の墨が付いていた。父は気づかなかった。兄も気づかなかった。セレスティアだけが、一度、染みを見た。


 何も言わなかった。会議が終わった後、廊下ですれ違った時に小さく囁いた。


 「おにいさま。南の畑は、どうでしたか」


 暗号では、南の畑は下町の情報源を意味する。


 「痩せた土地だ。だが根は深い」


 「そう。よかった」


 妹はそれだけ言って、父の後を追った。僕の袖には、下町の匂いが残っていた。煤。泥。安い油。学術院の白い廊下には似合わない匂いだった。だが、真実はいつも上等な紙に書かれているとは限らない。


 妹を守った情報のいくつかは、安い墨でしか残せなかった。


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