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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝⑥「副宰相の計算違い」

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計算違い

 ルシアンが図書室にいた。


 一人だった。護衛は扉の外にいる。マティアスが接触できる状況を作るのは難しくなかった。


 権限を制限されてから三週間が経っていた。財務部門の書類だけを扱う日々だった。情報が届かなくなっていた。ヴィクトールが管理した。予定通りだ。


 だがルシアンへの接触は、ヴィクトールが想定しているかどうか分からなかった。それだけが、まだ自分のカードだった。



 「久しぶりです、殿下」


 ルシアンが本を閉じた。見た。


 「副宰相が来るとは思わなかった」


 「殿下のことが気になりまして」


 「嘘だ」


 マティアスは一瞬、言葉を失った。


 「あなたは私を利用しようとしていた。今も同じ目で来ている」


 十五歳だった。以前よりも目が鋭かった。半年前、王位継承計画を携えて本格的に接触した時より、自分の目で相手を測ろうとする意志が強くなっていた。


 「そうです」とマティアスは言った。


 「正直に言うのか」


 「殿下が正直な人間を好むと聞いていましたので」



 ルシアンが立った。窓の方を向いた。


 「最近、アレクシスを見ている」


 マティアスは黙って続きを待った。


 「以前のあいつは、周囲に言われたことを信じるだけだった。だが今は、自分で考えている。間違いを認めて、選び直している」


 「セレスティア嬢の影響でしょう」


 「それだけではない。アレクシス自身が選んだ。だから私も、自分の目で確かめることにした」


 ルシアンが振り返った。


 「あなたが何を望み、私を何に使おうとしているのか。それを聞いた上で、私自身が判断する」



 マティアスは聞いていた。


 「利用されているのは分かっている。あなたは私を玉座に就けて、自分が摂政になりたい」


 「否定しません」


 「だからあなたに協力するつもりはない」


 「では私はなぜここにいるのですか」


 ルシアンが少し笑った。苦い笑いだった。


 「それが聞きたかった。あなたがまだ私に来るなら、何かある。それを聞いた上で判断したい」


 鋭かった。計算ではなく、直感で相手の欲を捉えている。それが十五歳の強さだった。



 マティアスは考えた。嘘をつくか。つけなかった。


 この殿下には嘘が通らない。計算ではなく目で見る人間には、計算が透ける。


 「正直に言います」


 「どうぞ」


 「私は生き残りたい。父上の計算の中では、私は補佐役で終わる。それが嫌だ。自分の場所を自分で作りたい」


 「欲しいのは権力か」


 「権力ではないかもしれません。自分で作ったものが欲しい」


 ルシアンが少し考えた。


 「あなたは……何かを受け取るだけで育ったのか」



 不意な言葉だった。


 五歳。「一緒に来い。食える」。それだけで来た。長年、ヴィクトールの計算の中で動いた。受け取り続けた。


 「そうです」


 「だから飢えているのか。自分で稼いだものがない」


 ルシアンが窓を見た。


 「私も似ている部分がある。生まれた時から全部決まっていた。第一王子。王太子の影。その枠の中に収まれと言われ続けた。枠を出ようとすると……あなたのような人間が来て、利用しようとした」


 「申し訳ありません」


 「謝罪はいい。聞きたいのはそこではない」



 ルシアンが振り返った。


 「あなたは今、何がしたいのか。権力ではなく、本当に」


 マティアスは答えようとした。答えが出なかった。何がしたいのか。


 計算で動き続けて、長い年月。一度も自分に問わなかった問いだった。答えが出ない問いは非効率だから捨てていた。だが今、出なかった。


 「……分からない」


 声に出た。ルシアンが頷いた。


 「私も最近まで分からなかった。だが、少しだけ分かった」


 「何が分かりましたか」


 「自分の目で見たものを信じたい。それだけだった」



 自分の目で見たものを信じたい。マティアスにはそれが欲しいものかどうか、分からなかった。


 だが、三度イザベラの嘘を報告しなかった理由が、少し近かった気がした。


 イザベラが変わった。自分の目で見て、変わった。その変化を報告して止めることが、できなかった。自分の目が見たものを、大事にしていたのかもしれない。



 「一つ教えてください」とマティアスは言った。


 「何を」


 「セレスティア・フォン・アルヴェインが、宰相府に来ました。父上に私の情報を渡した。見返りを求めなかった。なぜそういうことができるのか」


 ルシアンが少し笑った。今度は苦くなかった。


 「あの人は……石段で待っているものがあるから、その石段を守ろうとしている。自分が欲しいものを守るために動いている。だから見返りを求めない。見返りはもう持っているから」


 「石段に、何があるのですか」


 「パンを持ってくる友人がいる。そこに帰りたいから走れる、と言っていた」



 パンを持ってくる友人。石段。それが、令嬢を動かしているものか。


 長年の計算の表に、「パンを持ってくる友人のための石段」という項目はなかった。どこにも入れる欄がなかった。マティアスは長い間、考えた。



 「協力する気はありませんか、殿下」


 「あなたと?」


 「私とではなく。どこかへ向かう方向として、一時的に同じ道を歩く」


 ルシアンが少し考えた。


 「あなたを信用しているわけではない」


 「分かっています」


 「利用されるのも嫌だ」


 「お互い様です。殿下も私を利用する。そういう関係で構いません」


 「お互い様か」


 ルシアンが窓を向いた。


 「アレクシスには敵対する気はない。ただ、自分の場所を自分で作りたい。それだけだ」


 「私も同じです」


 「では……方向が近い時だけ」


 「それで十分です」



 図書室を出た。廊下を歩いた。ルシアンが言った言葉を考えた。


 「石段で待っているものがあるから、その石段を守ろうとしている」


 見返りを求めないのは、見返りがもう手の中にあるからだ。欲しいものが最初からあるからこそ、それを守るために動ける。計算ではなく。マティアスには、石段があるか。


 ない、と思った。五歳から一度も作らなかった。作り方を知らなかった。欲しいものが何かさえ、ずっと分からなかった。



 執務室に戻った。引き出しを開けた。


 報告しなかった書類があった。三度書かなかった、イザベラの嘘の記録が。取り出した。見た。これは何だったのか。計算から外れた行動だった。理由が分からなかった。


 だが今、少しだけ近いものが見えた気がした。イザベラが変わっていく様子を、自分の目で見ていた。それを、止めたくなかった。それだけだった。計算ではなく。見ていたかったから、止めなかった。



 書類を閉じた。戻した。燭台の炎が揺れた。


 「計算違いだった」と思った。


 あの令嬢について。イザベラについて。ルシアンについて。長年の計算の表に収まらないものが、増えた。計算者として、それは失敗だった。だが、少しだけ。


 計算の外に何があるか、見てみたい気もした。それが何なのか、今は分からない。


 見返りを求めない人間が動く理由。石段で待っているもの。パンを持ってくる友人。どれも、計算の表にない。だが、それが計算者の外にあるものだとしたら。


 それを、まだ捨てたくなかった。燭台の炎が揺れた。マティアスは長い間、それを見ていた。消さなかった。


 ◇


 やがて、計算は紙の上ではなく判決文で終わった。


 ブラウンヴァルト城塞での武装蜂起。ルシアン殿下の連れ去り。三人の兵士の死。法廷で読み上げられた罪状は、どれも否定できなかった。死刑判決を聞いた時、マティアスは反論しなかった。計算をやり直すための数字が、もう残っていなかった。


 父上もまた、宰相の地位と爵位を失い、郊外の塔へ幽閉された。かつて自分を拾った男は、記録の上では「前宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ」とだけ呼ばれた。親子として積み上げたものがなかったから、別れの言葉もなかった。


 執行を待つ部屋で、マティアスは最後に一枚の紙を求めた。計画表を書くためではない。そこへ、三人の名前を記した。


 ヨスト。ペーター。ベルント。


 その下に、短く書いた。


 「計算に入れなかった命」


 書き終えても、答えは出なかった。答えが出ないまま、扉の外で鍵が回った。


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