父に切られた日
呼ばれたのは翌々日の昼だった。
ヴィクトールの執務室。昼間に呼ばれるのは珍しくない。珍しいのは、部下を全員廊下に出してから呼ばれたことだった。扉が閉まった。執務室に二人だけになった。
◇
ヴィクトールは書類を見ていた。顔を上げなかった。マティアスは立った。椅子に座るよう言われなかった。一分ほどあった。ヴィクトールが書類を置いた。
「お前がやった」
断定だった。問いではなかった。
「証拠はありません」
「証拠を求めていない。言っている」
「私には国王陛下を害する動機がありません」
「動機がないのではない。私の意向の外で動いた。それがお前の動機だ」
マティアスは答えなかった。
◇
ヴィクトールが続けた。
「マティアス。私がお前に教えた中で、最も重要なことを覚えているか」
「感情で動かないことです」
「それを忘れた時、人間はどうなるか」
「計算を誤ります」
「そうだ」
ヴィクトールが初めて顔を上げた。
老いていた。以前より老いて見えた。しわが深かった。だが目は変わらなかった。何も感じていない目。マティアスはその目を長年見てきた。
「お前は感情で動いた。焦りだ。私が老いることへの焦り。私の計画に乗れないことへの焦り。飢えだ。五歳と同じ種類の飢えが、理性を超えた」
正確だった。一言も反論できなかった。
◇
「計画書があるはずだ」とヴィクトールは言った。「見せろとは言わない。ただ、一つ聞く」
マティアスは待った。
「ルシアン殿下を担ぐ計画か」
「仮定の話として」
「答えろ」
「そうです」
ヴィクトールが頷いた。長かった。何かを整理している頷きだった。
「お前は利口だが、一つ読み間違えた」
「何をですか」
「私が何歳まで計算に入れているかを読み間違えた」
マティアスは少し考えた。
◇
ヴィクトールが続けた。
「私はまだ数年は動けると計算している。お前が動く必要はない。私の計画の中に、お前の場所は用意してある。ガルニエ家の後継として」
初めて聞く言葉だった。
「後継として、とは」
「庶子だが、ガルニエの名を継がせる手続きを進めている。三年前から。お前が知らないのは、まだその段階ではなかったからだ」
マティアスは何も言えなかった。
「だからお前の計画は要らない。焦る必要もなかった」
三秒の沈黙があった。
「分かりました」
それ以外に言葉が出なかった。
◇
「副宰相の権限を一部制限する。財務部門のみを担当しろ。三ヶ月間。その後、判断する」
「分かりました」
「ディートリヒは処理した」
「はい」
報告は受けていた。使用人として雇い直し、王都から離れた領地に移した。証拠になるものは全て消えた。
「お前が接触したルシアン殿下は、今後こちらで管理する」
「承知しました」
「一つだけ聞く」
ヴィクトールが立った。窓の方を向いた。
「国王陛下を傷つけることへの……躊躇は、なかったか」
◇
マティアスは答えを考えた。躊躇。あったか。
計画を立てた時はなかった。毒を手配した時もなかった。部下に渡した時も。ただ、部下が退いた後、一人で考えた時、窓の外を見た。あの灯りの一つの下に令嬢がいる、と思った。
それが躊躇だったかどうか、分からない。
「……多少は」
「多少か」
ヴィクトールが窓の外を見たまま言った。
「それはお前の唯一の人間らしさだ。大事にしろ」
◇
廊下に出た。扉が閉まった。長い廊下を歩いた。ガルニエの名を継がせる手続きを三年前から進めている。三年前から。マティアスが計画書を書き始めたのも三年前だった。
ヴィクトールが用意していたものと、マティアスが作っていたものが、三年間並走していた。どちらも相手を知らずに。
喜べるはずだった。ガルニエの名を継げる。正式な後継者になれる。それは十年以上欲しかったものだ。だが腹が満たされなかった。五歳から続く、何を食べても満たされない空腹が、残ったままだった。
◇
なぜか。廊下を歩きながら考えた。
「よくできた。ベルンハルトの血も悪くない」
二十五歳の時に言われた言葉。七年ぶりに言われた言葉。あれが嬉しかった。あれが欲しかった。
だが今、「三年前から手続きを進めていた」と言われても、嬉しくなかった。なぜか。自分で動いたものではないからか。
ヴィクトールが用意したものを受け取るだけでは、五歳の時と変わらない。「食える」と言われて食っただけだ。それが空腹の正体だった。
◇
廊下の端の窓に来た。外が見えた。あの令嬢は、誰かに用意してもらったものを受け取っているか。
そうは見えなかった。石段を作ったのは令嬢だ。仲間を集めたのも令嬢だ。では令嬢はなぜそれをしたのか。欲しいからか。承認が欲しいか。権力が欲しいか。
そうでもなかった。石段で笑っていた。仲間を守ろうとしていた。では何が欲しいのか。分からなかった。全く、分からなかった。
◇
翌日、執務室に戻った。引き出しを開けた。計画書があった。取り出した。一枚ずつ見た。二年分の計算が並んでいた。捨てるか。
捨てるのは惜しかった。だが残す意味もない。ヴィクトールが管理するなら不要になる。しばらく持ったまま、考えた。ヴィクトールが「躊躇はなかったか」と聞いた。
「それはお前の唯一の人間らしさだ」と言った。
人間らしさ、とは何か。計算から外れたものが、人間らしさか。計算から外れているといえば、あの令嬢が、なぜか頭に浮かんだ。
◇
計画書をしまった。捨てなかった。なぜ捨てなかったか、分からなかった。引き出しを閉じた。
「セレスティア・フォン・アルヴェインが宰相府を訪ねてきた」
ヴィクトールが言っていた。忘れていなかった。
「お前の情報を持って来た。見返りは求めなかった」
見返りを求めなかった。なぜそれが気になるのか。
人間は必ず何かを欲しがる。三歳から安全を。十歳から承認を。二十歳から地位を。欲しがらない人間はいない。だが令嬢は見返りを求めなかった。では令嬢は何も欲しくないのか。
そんなはずがない。あれだけの行動を取る人間が、何も欲しくないはずがない。欲しいものがある。ただそれが、自分の計算の中にない種類のものだ。燭台の炎が揺れた。
しばらく、消さなかった。




