飢えが理性を超えた夜
計画書は二年かけて書いた。
正確には、二年かけて完成させた。最初の草稿は三年前に書き始めていた。
机の引き出しの一番奥。施錠している。鍵はマティアスだけが持っている。
「王位継承計画書」という表題はつけていない。表題のない白い束だ。中身を知っている人間は、マティアスだけだ。
◇
計画の骨格は単純だった。
国王レオナルドが崩御する。王位継承が行われる。アレクシス・レグナシオンではなくルシアン・レグナシオンが即位する。マティアスがルシアンの後見人として摂政に就く。
ヴィクトールを経由しない、マティアス自身の権力の道筋。問題は三つあった。
一、アレクシスが存命である。廃嫡させるか、別の方法を使うかが必要。二、ルシアンが十四歳だ。操縦できるかどうか見極めが必要。
三、ヴィクトールが反対する。父上の計算では、マティアスは補佐役だ。主役に出ることは想定されていない。
◇
王位継承計画を携えて、ルシアン殿下に本格的に接触したのは半年前だった。偶然を装った接触だった。
王宮の図書室。殿下が一人でいた。護衛から五歩離れた椅子に座っていた。本を読んでいた。マティアスが隣の棚から本を取った。
「殿下は歴史がお好きですか」
殿下が顔を上げた。
「歴史は好きだ。だがこの国の歴史書はつまらない。勝者の話しか書いていない」
賢い子だと思った。十四歳で、既に書かれた歴史と書かれない歴史の違いを知っている。
「他の国の歴史書をお読みになったことはありますか」
「ない。手に入らない」
「入手できます。ご興味があれば」
ルシアンが本を閉じた。マティアスを見た。
「副宰相がなぜ私に親切にするのか」
鋭かった。
「殿下が将来この国の役に立つ人材だからです」
嘘ではなかった。利用価値がある人材だから親切にする、という意味では事実だった。殿下が少しだけ笑った。
「そういうことを正直に言う大人は珍しい」
◇
三ヶ月かけてルシアンを観察した。
智はある。観察力がある。だが感情的だ。まだ感情を計算より優先させる。十四歳だから当然だ。だが、方向性は見えた。
アレクシスへの劣等感。「なぜ年下の正妃の子が王太子なのか」という疑問。自分の方が適切だという確信とそれが認められないことへの焦り。
欲しいものは「承認」だ。それも特定の人間からの承認ではなく、社会全体からの承認だ。動かせる。と、思った。
◇
だが計画には一つ欠けているものがあった。アレクシスだ。
廃嫡させるには根拠が必要だ。ルシアンを支持する貴族院議員が必要だ。現状、議員の多くはアレクシスを支持している。アルヴェイン公爵家とアレクシスの関係が強い。
そしてセレスティア・フォン・アルヴェインがいる。あの令嬢がいる限り、計画の障害になる。排除できるか。
計算してみた。難しい。あの令嬢には後ろ盾が多い。公爵家。王妃。ヴィオレッタ侯爵家。神殿。直接手を出すのは逆効果だ。
◇
そこで止まっていた計画が、動いたのは三ヶ月前だった。国王の体調が悪化したという報告が来た。
王宮典医の報告書には、「心臓への負担が増している。あと一年から二年、長くて三年」と書かれていた。計算が変わった。
三年以内に国王が崩御する。王位継承が始まる。それまでにアレクシスの立場を弱めてルシアンを立てる根拠を作る必要がある。急がなければならない。
急ぎたくなかった。急ぐ計算は荒くなる。ヴィクトールが教えた。「急いで動く人間は、急いで負ける」と。
だがヴィクトールは今も計画を知らない。計画を話すつもりはなかった。話した瞬間に終わる。ヴィクトールの計算の中では、マティアスは一生補佐役だ。
◇
計画書を取り出した夜があった。読んだ。
「国王崩御の促進」という項目が目に入った。
三年を待たなくてもいい。崩御を早めれば、計画を急がなくて済む。アレクシスとセレスティアの関係が強くなる前に動ける。父上ならやらない、と思った。
国王が死ぬと王妃の権力が強化される。宰相府が不利になる。だからヴィクトールはそれをしない。だがマティアスにとっては違う。
王妃の権力が強化されても、ルシアンが玉座に就けばマティアスが摂政になる。王妃の権限はルシアンの下に置かれる。つまりマティアスの計算では、国王崩御は不利ではない。
父上と自分の計算が食い違っている。それを初めて、正面から見た。
◇
五歳の時を思い出した。母の手が冷たかった。振り返らなかった。あれは飢えが理性を超えた瞬間だった。
泣いても腹は満たされない。だから泣かなかった。振り返らなかった。生き残るために動いた。今も同じだ。
ヴィクトールの補佐として一生を終える。それが空腹なのだ。何かが欲しい。ヴィクトールに頼らない権力が欲しい。
「よくできた」という言葉ではなく、誰かに頼らずに自分だけで立てる場所が欲しい。
飢えだ。五歳と同じ、満たされない飢えだ。
◇
部下を呼んだ。
「夜鳴鳥の涙を手に入れろ。遅効性の毒だ。市場には出ない。闇のルートを使え」
「何に使うのですか」
「聞くな」
部下が退いた。計画書を引き出しに戻した。施錠した。机の上に残ったのは白い紙だけだった。
◇
一週間後、毒を受け取った。小さな瓶だった。透明だった。水に溶ける。味がない。匂いがない。三日後、国王の薬を運ぶ経路に部下を入れた。翌朝、王妃が発見した。
国王は生きていた。
◇
失敗したという報告を受けた朝、マティアスは窓の外を見た。王都が明るかった。何も感じなかった。感じないことが、何かを意味している気がした。
五歳の時も、何も感じなかった。母の手が冷たかった。振り返らなかった。生き残るために動いた。その時も何も感じていなかった。長い年月を経て、また同じことをした。
ヴィクトールに報告が届くまで、時間がある。何時間かは分からない。窓の外を見た。あの灯りの一つの下に、アルヴェインの令嬢がいる。あの子はどこを見ているのか。石段か。書斎か。もう眠っているか。
なぜそれを考えているのか、分からなかった。関係がない。ただ、考えた。




