報告しない夜
三度目だった。イザベラが嘘をついた。三度目の嘘。
実技試験でセレスティア・フォン・アルヴェインの「黒い光」を見ていないと言った。見ていた。顔が目で嘘をついていた。マティアスは報告書の紙を引き出しから出した。ペンを持った。
止まった。
◇
一度目は衝動だった。
書こうとして手が止まった。なぜ止まったか分からなかった。非合理的だと思いながら、そのまま一日が終わった。翌日、別の書類に紛れさせて捨てた。二度目は迷いだった。
書き始めた。三行書いた。「イザベラが虚偽の報告をしています。実技試験において、」そこで止まった。二度目に止まった理由は少し分かった。
一度目に捨てた。つまり自分はその報告を出さないことを一度選んでいる。なぜ一度目に止まったのか、まだ分からない。分からないまま二度目を出すのは、分からないものの上に行動を積み上げることだ。それは計算者のやり方ではない。
三行を消した。三度目が今夜だった。
◇
ペンを置いた。考えた。なぜ一度目に手が止まったのか。
イザベラは嘘をついた。嘘をついた理由は令嬢を守りたいからだ。令嬢を守りたい理由は、令嬢が何かをイザベラに言ったからだ。その「何か」が分からない。
だがイザベラが変わった。二年かけて変わった。変わったイザベラが令嬢を守ろうとしている。それは、間違いではない、という気がした。間違いではないとはどういう意味か。
計算者として間違いかどうかは、目的によって変わる。ヴィクトールの目的にとっては間違いだ。宰相派の安定を乱すものだから、だがイザベラ自身の目的にとっては?
イザベラの目的を、今まで考えたことがなかった。駒には目的がない。目的は与える側が持つ。だがイザベラは考え始めている。考える駒は、駒ではない。
◇
廊下で音がした。夜番の衛兵だ。規則正しい足音。三十分に一度。マティアスは窓の外を見た。王都の夜。遠くに灯りが見える。
長年、ヴィクトールの横に立ってきた。何かを学ぶためではなかった。生き残るために立ってきた。役に立てば食える。役に立てば追い出されない。五歳の頃からその計算だけで動いてきた。
父上はどう思っているのか。思っている、という前提が正しいか分からないが。
ヴィクトールはマティアスを「庶子だ」と言った。「ベルンハルトの血も悪くない」と言った。それ以外に、マティアスについて何かを言ったことはない。感情があるとすれば、便利な道具への満足感だろう。
感情は情報だ。使うものであって、従うものではない。ヴィクトールがそう言ったから、マティアスもそうしてきた。
◇
だがイザベラは違う動き方をしている。
令嬢と何かを話して、感情の方向が変わった。それで行動が変わった。計算ではなく。それを「間違い」と言えない理由を考えた。一時間かかった。答えが出た、かどうか分からない。
答えらしきものが出た。
イザベラが感情で動いた先にあるものが、計算で動いた先よりも正しいかもしれない、という感覚だった。感覚、というのが既に非合理的だ。だが否定できなかった。
◇
ヴィクトールと最後に話したのは三日前だった。
報復の計画について。四方向からアルヴェイン公爵家に圧力をかける。フェリクスの助成金。公爵家への監査。ヴォルフの転属打診。令嬢への活動制限令。
マティアスは計画を整理して報告した。手順を提案した。ヴィクトールは頷いた。
「よくできた」は言わなかった。
当然だった。これは基本的な報復だ。特に難しくない。帰り際、ヴィクトールが言った。「イザベラの様子はどうだ」マティアスは答えた。「問題はありません」
嘘だった。初めて、ヴィクトールに嘘をついた。
◇
その夜、執務室に戻って気づいた。嘘をついた、と思った。次の瞬間、訂正した。
嘘ではない。「問題はありません」は曖昧な言葉だ。何を問題とするかによって変わる。イザベラが嘘をついているのは事実だが、ヴィクトールの計画に対する問題があるかどうかはまだ判断していない。
だから嘘ではなく、判断の保留だ。合理的な言い訳だった。自分でも分かった。合理的な言い訳だと。
◇
報告書の紙を引き出しに戻した。今夜も書かなかった。三度目になった。一度は衝動。二度は迷い。三度は、三度目の理由を、まだ名前をつけられなかった。
意志、と言えるかどうか分からない。意志というには根拠が薄すぎる。ただ、書けなかった。燭台の炎が揺れた。マティアスは炎を見た。母が死んだ夜に蝋燭がなかったことを思い出した。
なぜ今それを思い出したのか、分からなかった。関係ない。関係があるとしたら何の関係か、分からない。答えが出ない問いだ。だが今夜は捨てなかった。燭台の炎が揺れた。しばらく、消さなかった。




