計算外の目
三十二歳になった。摂政選出会議から数か月が経った。
アルヴェイン公爵家の十歳の令嬢が、貴族院の票を動かした。王妃が摂政に就任した。ヴィクトールの計画が、予定より四年早く崩れた。マティアスは損失を計算した。
失ったもの:摂政の座。宰相府の実質的な最高権限。五年分の工作。
残ったもの:情報網。人脈。書類。ヴィクトールの立場はまだ揺れていない。
損失は大きいが、致命傷ではない。立て直しに二年。ヴィクトールは六十七歳。まだ動ける。そこまで計算して、止まった。十歳が、これをやった。
◇
セレスティア・フォン・アルヴェインのことを、整理した。三歳で説明のつかない恐怖を見せた。母の薬の異常を見つけたのは兄で、令嬢の関与を示す記録はない。五歳で父を動かし、同じ年に魔力暴走の濡れ衣を免れ、立っていた。九歳で摂政選出を動かした。
全部が「事前に知っていた」で説明できる。だがなぜ知っているのか。
ヴィクトールは「秘密の教師がいる」と言っていた。だが来訪記録にない。
フェリクス・フォン・アルヴェインという兄が優秀だという報告がある。だが兄が学園内にいた時期と令嬢の行動には時間的なズレがある。マティアスには一つの仮説があった。
「事前に知っていた」のではなく、「先に起きることを知っていた」。
可能性として検討した。すぐに棄却した。そんなものは存在しない。では答えが出ない。
◇
その週、イザベラが報告に来た。ヴィクトールの娘。十一歳。
「テオドールという男の報告書について、わたくしから申し上げることはございません」
マティアスは聞いた。
「黒い光を見ましたか」
「見ていません」
嘘だった。
顔が目で嘘をついていた。マティアスには分かる。十五年で覚えた技術だ。視線の動き、首筋の緊張、呼吸のわずかな乱れ。なぜ嘘をつくのか。理由は一つだった。
見ていたが、報告したくない。それはつまり、令嬢を守りたいということだ。
◇
イザベラが退室した後、マティアスは書類を見た。報告書を書くべきだった。「イザベラが虚偽の報告をしています」と。有益な情報だ。イザベラを管理するためにも必要だ。
書かなかった。書こうとして、止まった。なぜイザベラが嘘をつくのか、考えた。十一歳のガルニエの娘が、十歳のアルヴェインの令嬢を守りたい。なぜか。
報告書を読んだ。過去三年分のイザベラの報告を全部見た。
変化している。二年前から変化している。具体的に何が変わったか分からないが、報告の言葉の選び方が変わっていた。令嬢に関する記述が、事実の羅列から、何かを選びながら書いている文章に変わっていた。
何が変えたのか。令嬢だ。十歳が、あの娘を変えた。
◇
その夜、遅くまで執務室にいた。
駒は考えない。ヴィクトールの言葉を思い出した。考えさせるな。考える前に動かせ。だがイザベラが考え始めている。
令嬢が何かを言ったはずだ。何を言ったのか、記録にない。廊下か。食堂か。どこかで何かを言った。それでイザベラが変わった。十歳が十一歳に何を言えば、こうなるのか。
分からなかった。
◇
翌日、マティアスは学園に向かった。名目は定期視察だった。実際には令嬢の行動を直接観察したかった。昼休み、石段に令嬢がいた。
仲間がいた。男爵令嬢、亡命王女、治癒師見習い、辺境出身の少年。奇妙な組み合わせだった。パンを食べていた。何かを話していた。笑っていた。遠くから見た。近づかなかった。
二十分ほど見た。
令嬢は笑っていたが、時々だけ別の顔になった。誰かが何かを言った瞬間に、ほんの一瞬、遠くを見る顔になった。その顔だけが、七歳に廊下で見た目と同じだった。
何かを考えている目。内側にあるものを守ろうとしている目。だが今は一人ではなかった。仲間がいた。笑いがあった。
◇
視察の帰り、一人で廊下を歩いた。令嬢を、どう分類するか。
脅威。それは確かだ。ヴィクトールの計画を十歳で崩した。これからも崩す可能性がある。排除すべき対象だ。だが、廊下で一人、思った。あの石段に仲間を集めたのはどうやったのか。
辺境出身の少年が石段にいる。亡命王女が石段にいる。それぞれ事情が違う人間が、同じ石段に来ている。なぜか。
令嬢が何かをしたはずだ。動かしたのではなく、何かを見せた。動かすのは計算だが、見せるのは別の技術だ。マティアスにはその技術がない。ヴィクトールにもない。
◇
夜の執務室。燭台の火を見た。
「あの子は、何者なのか」
声に出た。誰もいない。三歳から七年間、ずっとこの問いが残っている。答えが出ない問いを持ち続けるのは非効率だ。だが捨てられなかった。恐ろしい。それは確かだ。
だが、少しだけ、見ていたい気もした。石段に仲間を集める令嬢が、これからどこへ向かうのか。どんな終わり方をするのか。
計算者として考えれば、答えは出ている。公爵家の令嬢が宰相と戦って生き残れるはずがない。だが令嬢は今も立っている。三歳から、ずっと。燭台の火が揺れた。
しばらく、消さなかった。




