計算者の育て方
十歳の春、ヴィクトールが言った。
「見ていろ」
二人で廊下を歩いた。宰相府の廊下。石の床。長い廊下だった。
向こうから使用人が一人歩いてきた。三十代の女性。丸い顔。目の下に隈がある。歩き方が少しだけ速かった。すれ違った。ヴィクトールが歩き続けた。何も言わなかった。
廊下の端まで来た。
「あの使用人のことを言ってみろ」
マティアスは考えた。
「隈があった。三日以上眠れていない。歩き方が速かった。急いでいるというより、一秒でも早く仕事を終わらせたいように見えた。手が荒れていた。外回りの仕事もしている。身なりは清潔だった。家族のために仕事を維持したい人間だ」
ヴィクトールが頷いた。
「欲しいものは何だ」
「安定。仕事を失いたくない」
「動かすとしたら」
「仕事を保証する。もしくは仕事を失う脅威を作る」
「後者は最後の手段だ。前者を使え」
「分かりました」
それが最初の授業だった。
◇
十二歳から、実際に動かし始めた。
対象は宰相府内の小さな人間関係だった。派閥の衝突。書記官同士の対立。ヴィクトールが意図的に作った小さな問題を、マティアスが解決する練習。解決する、というのは正確ではなかった。
問題を使う、という方が近かった。
Aが欲しいものを提供してBに有利な情報を持ってこさせる。BがCを嫌っているからCがDに接触するよう誘導する。DとEが対立するよう小さな誤解を植え付け、その対立を解消することで両者に恩を売る。
複雑ではなかった。人間が欲しがるものは決まっている。安全。承認。金。地位。家族。その順番を見極めれば、あとは計算だ。
◇
十五歳の冬、ヴィクトールが言った。
「人間を動かした感覚を覚えたか」
「はい」
「どんな感覚だ」
マティアスは少し考えた。
「歯車が噛み合う感覚に似ています」
「面白いものか」
「……面白いかどうかは分かりません。正確かどうかが気になります」
ヴィクトールが初めて笑った。声には出さなかった。口の端が少し動いただけだった。
「それで良い。面白いと感じる人間は感情で動く。感情で動く人間は計算を誤る」
「感情では動かないということですか」
「計算者は感情で動かない。感情は情報だ。使うものであって、従うものではない」
マティアスは頷いた。
「分かりました」
その夜、部屋に戻って考えた。感情は情報だ。では五歳の時、母の手が冷たかった時に感じたものは何だったのか。怖かった。腹が減っていた。泣きたかったが泣かなかった。
あれは感情ではなかったのか。分からなかった。
考えるのをやめた。答えが出ない問いを持ち続けるのは非効率だ。ヴィクトールも言っていた。
◇
十八歳、初めて単独の任務が来た。商会の主人を動かして、貿易路の情報を流させる。期限は二週間。
商会主人の名前はハインリヒ。五十代。商会を三代続けている。息子が二人いる。長男は優秀、次男は問題を抱えている。次男から入った。
賭け事の借金があった。多くはなかった。だが返せる額でもなかった。金を用意した。貸した形ではなく、別の名目で渡した。次男が礼を言いに来た時、長男の話をした。
「兄上はすごい人ですね。商会の全てを担っている」
次男が黙った。それだけで良かった。
次の日、ハインリヒが訪ねてきた。次男の話をした。「あの子は小さい頃から……」という言葉で始まった。三日かかった。十二日目に情報が来た。期限より二日早かった。
◇
報告した時、ヴィクトールが言った。
「よくできた。次を見ろ」
次の任務が来た。
「よくできた」という言葉がどれほど価値があるか、その時はまだ分からなかった。
二十歳になってから分かった。
二年間で三十七の任務をこなした。全て成功した。その間、ヴィクトールが「よくできた」と言ったのは一度だけだった。十八歳の、最初の単独任務の時だけだった。
◇
そのもっと前、十五歳の頃だった。ヴィクトールが一枚の書類を寄越した。
「これを見ろ」
ディートリヒ・クラウス。アルヴェイン公爵家の家宰。長年勤め上げた忠臣。そして二年前から、ヴィクトールが金で買っている男だった。書類には、この二年で上がってきた報告が綴じてあった。
浅かった。
領地の収支。人事の噂。出入りの商人の名前。金を払った分だけ喋り、それ以上は出さない。公爵家の家宰が握っているはずの中枢には、一枚も届いていない。
「使えるようにしろ」
それだけだった。最初の三ヶ月は観察だけだった。
弱点が見えなかった。金で買われた人間は、金が弱点だと思われている。だがこの男は、金で買われたのに金では動いていない。四ヶ月目、気づいた。
ディートリヒには娘がいた。体の弱い娘だった。治療費が継続的にかかっていた。公爵家の給金で払えない額ではなかったが、余裕もなかった。そこではなかった。
ディートリヒが本当に欲しいのは、娘が「きちんと生きられる将来」だった。金ではなく、保証だった。父上は金を渡していた。だから二年で浅いところに止まったのだ。
見えた瞬間、あとは時間だった。十年かけた。
急がなかった。急ぐ必要がなかった。金で買った信頼は、買った分しか働かない。育てた信頼は、深いところまで届く。
◇
その十年の途中に、一度だけ、計算し直した日がある。二十一歳の冬。父上に娘が生まれた。
知らされたのではない。廊下で使用人が話しているのを聞いた。奥様がご無事で、女児で、名はイザベラ。
執務室に戻って、書きかけの報告書を最後まで書いた。手は止まらなかった。止まる理由がなかった。計算した。
父上は五十六歳。奥様は三十半ば。先の奥様が亡くなってから、十二年になる。
生まれたのは女児だ。爵位は継げない。ガルニエ家の後継問題は解決していない。父上の年齢を考えれば、次があるかどうかも分からない。実務の継承者は、依然として自分である。
不利益はない。三日後、呼ばれた。
「娘が生まれた」
「おめでとうございます」
「知っていたか」
「はい」
父上が書類を寄越した。娘とは何の関係もない書類だった。地方税の徴収率の資料。
「読んでおけ」
「はい」
それで終わりだった。部屋を出る時、廊下の奥から赤ん坊の声が聞こえた。細い声だった。立ち止まらなかった。
◇
その夜、腹が空いた。夕食はきちんと食べた。それでも空いていた。五歳の頃と同じ種類の空腹。何を食べても満たされない類の。
計算し直した。不利益はない。実務の継承者は自分だ。何一つ変わっていない。何一つ変わっていないのに、なぜ空くのか。
合わない項があれば、計算式のどこかが間違っている。父上はそう教えた。どの項が間違っているのかは、分からなかった。合わない項は、そのまま残した。
◇
二十五歳の秋、副宰相の辞令と同じ日に、ディートリヒの担当を正式に引き継いだ。その月のうちに、最初の報告が来た。
公爵家の書斎の中身だった。十二年、浅いところで止まっていた男が、閣下の机の上に何が載っているかを書いてきた。報告書をヴィクトールに渡した。ヴィクトールが読んだ。顔を上げた。
「よくできた。ベルンハルトの血も悪くない」
それだけだった。廊下に出た。七年ぶりに「よくできた」という言葉を聞いた。腹が空いた気がした。夕食はきちんと食べていた。空腹ではなかった。それでも空いた気がした。
石の廊下を歩きながら、マティアスは思った。この空腹は、何を食べれば満たされるのか。答えは出なかった。翌朝も任務が来た。次を考えた。答えが出ない問いを持ち続けるのは非効率だ。
それだけ思って、歩いた。




