「貧民街の子」
母が死んだのは、二月の夜だった。
雪が降っていた。木造の壁に隙間があって、風が入ってきた。毛布は一枚。蝋燭は三日前から買えていない。
夕方から母の手が冷たかった。声をかけるたびに返事が細くなった。最後に返事が返ってきたのは昼過ぎだった。マティアスは五歳だった。
泣かなかった。泣いても腹は満たされない。それは三歳の頃から知っていた。
◇
貧民街の子供に与えられる選択肢は少ない。盗む。売る。死ぬ。
四番目の選択肢は、運よく誰かに拾われることだ。だがそれは選択肢とは呼ばない。天気と同じで、来るか来ないかを人間が決めるものではない。
母が来た日のことを覚えていない。物心がつく前だった。母の名前はグレタといった。染物工場で働いていたが、肺を悪くして仕事を失った。
父親の顔は知らない。聞いたことがある。「知らない」と母は答えた。それ以上聞かなかった。
肺が悪い母と、小さな子供。貧民街で生き残れる組み合わせではなかった。五歳のマティアスにも、それは分かっていた。それでも毎日続いた。
母は朝、必ず「今日も生きている」と言った。それから水を一杯飲んで、何かを探しに出た。大概は何も持たずに帰ってきた。それでも出た。次の日も出た。
最後に出たのは、死んだ日の三日前だった。それから起き上がれなくなった。
◇
夕方、男が来た。
黒い上着。磨かれた靴。靴に光沢があった。貧民街では見ない種類の光沢だった。
「お前の名前は」
「マティアス」
男がマティアスを上から下まで見た。三秒ほど。それから少し頷いた。
「読み書きはできるか」
「少し。母が教えてくれた」
「計算は」
「足し算と引き算は」
男がまた頷いた。今度は長かった。
「一緒に来い。仕事を教えてやる」
マティアスは男を見た。目を逸らさなかった。目を逸らすのは弱さの表れだ。母が言っていた。
「食えますか」
「食える」
「寝る場所はありますか」
「ある」
「今夜からですか」
「今夜から」
それだけだった。マティアスは母の手を一度だけ見た。冷たかった。
立ち上がった。毛布を一枚だけ抱えた。男に「それは要らない」と言われたが、持って行った。振り返らなかった。
◇
男の名前はヴィクトール・ド・ガルニエといった。後から知った。
その夜、馬車に乗った。馬車は初めてだった。揺れが思ったより大きかった。座席が柔らかかった。その柔らかさが怖かった。自分が知っているものとあまりにも違うから。
宰相府に着いた。大きな建物だった。部屋に通された。ベッドがあった。毛布が三枚あった。夕食が来た。スープと、パンと、肉だった。
マティアスは食べた。急いで食べなかった。急いで食べると後で腹が痛くなる。三歳の頃から知っていた。食べながら、考えた。
この男は何かを求めている。ただでものをくれる人間はいない。食事も部屋も馬車も、ただではない。必ず何かの代わりだ。何の代わりか、まだ分からなかった。
だが、分かるまで大人しくしていればいい。
◇
翌朝から教育が始まった。
読み書き。計算。歴史。礼儀。言葉の使い方。人の前でどう立つか。どこを見るか。どこを見てはいけないか。
三人の教師が来た。三人とも厳しかった。間違えると怒った。ただし声を荒げなかった。冷たい声で、どこが間違っているかを説明した。
マティアスは間違えなかった。最初から間違えないようにした。間違えた瞬間に何かを失う気がした。ヴィクトールは二日に一度、様子を見に来た。
教師の報告を聞いて、マティアスを見た。何か一つ質問した。マティアスが答えると、頷いた。褒めなかった。叱りもしなかった。ただ頷いた。一月経ったある日、ヴィクトールが言った。
「お前は庶子だ」
マティアスは答えなかった。
「正式な家族にはなれない。ベルンハルトの血を引いているが、ガルニエの名は継げない」
「分かりました」
「役に立てば食える。役に立たなければ、元に戻す」
「分かりました」
ヴィクトールが頷いた。今度は少し長かった。
「賢い子だ」
それだけだった。
◇
夜、一人になった。ベッドに横になった。毛布が三枚ある。柔らかい。目を閉じた。母の手が冷たかった場面を思い出した。
「今日も生きている」という声を思い出した。
泣かなかった。泣いても腹は満たされない。それは今も変わらない。役に立てば食える。役に立つことを考えた。役に立てば、また明日も食える。その次の日も。
それだけ考えた。窓の外で雪が降っていた。貧民街の空と同じ空だった。マティアスは目を閉じた。眠った。




