「序文」
母が死んだのは、二月の夜だった。
雪が降っていた。木造の壁に隙間があって、風が刃のように入ってきた。毛布は一枚。母の手は夕方から冷たかった。マティアスは五歳だった。
泣かなかった。泣いても腹は満たされない。それは三歳の頃から知っていた。
夕方、男が来た。黒い上着。磨かれた靴。貧民街には似合わない人間だった。
「お前の名前は」
「マティアス」
「読み書きはできるか」
「少し」
男が少し笑った。ヴィクトール・ド・ガルニエ。名前は後から知った。その時は名前も知らなかった。
「一緒に来い。仕事を教えてやる」
「食えますか」
「食える」
それだけだった。マティアスは母の手を一度だけ見た。冷たかった。立ち上がった。振り返らなかった。
◇
二十年後。副宰相の執務室。深夜。
机の上にディートリヒからの報告書が積まれていた。アルヴェイン公爵家の家宰。有能で評判がいい。父上が金で買った男を、十年かけて買い直した。成功した。
父上が言った。「よくできた。ベルンハルトの血も悪くない」。それだけだった。廊下に出た。石床が冷たかった。
腹が空いていた。満腹のはずだった。夕食はきちんと食べた。それでも空いていた。五歳の頃と同じ種類の空腹。何を食べても満たされない類の。知っていた。知っていて、続けた。
窓の外に王都の灯りが見えた。マティアスは三秒だけ見て、執務室に戻った。
◇
三十二歳になった。
副宰相の座に就いて七年。父上が老いを見せ始めてから、実質的な執務の多くを担っている。セレスティア・フォン・アルヴェインのことを、ずっと考えていた。
三歳で説明のつかない恐怖を見せた。五歳で父を動かし、同じ年に魔力暴走の濡れ衣を免れた。九歳で摂政選出に絡んだ。母の薬の件も含め、結果だけを並べれば「知っていた」で説明できる。だが、当時の記録に幼い令嬢の関与は残っていない。なぜ、そう見えるのか。
五歳の時、王宮の中庭で直接見た。腹痛を理由に、自分が仕掛けた罠から放出前に離れた後だった。怯えていた。だが怯えを見せなかった。何かをずっと考えている目だった。見えているものが多すぎる目。
五歳の子供の目ではなかった。
「あの子は何者なのか」
声に出た。誰もいない執務室。夜中の二時。分からなかった。恐ろしい、と思った。そして、少しだけ、面白いとも思った。燭台の炎が揺れた。しばらく、消さなかった。
◇
三度目だった。
イザベラが嘘をついた。実技試験での「黒い光」を見ていないと言った。
見ていた。顔が目で嘘をついていた。マティアスには分かる。十五年で覚えた技術だ。報告書の紙を引き出した。ペンを持った。止まった。昨日も止まった。先月も止まった。
なぜか。
父上に問われれば答えられない。合理的な理由は何もない。イザベラの虚偽報告は、父上にとって有益な情報だ。娘を管理するためにも知っておくべき情報だ。
それでも書けなかった。
父上は何も感じないのだろう。長年、隣にいた。父上が何かを感じているところを、一度も見たことがない。計算が外れた時だけ怒る。だがそれも感情ではない。修正作業だ。
「駒は考えない」と父上はよく言う。「考えさせるな。考える前に動かせ」
マティアスも同じ言葉でディートリヒを育てた。カスパルを育てた。だがイザベラは最近、自分で考えるようになっている。何が変わったのか。
あの令嬢だ。十歳のアルヴェインの娘が何かを言った。それからイザベラが変わった。駒が考え始めた。計算外だ。だが、間違いとは、言えなかった。報告書を引き出しに戻した。
今夜も書かなかった。その事実だけが残った。
◇
父上ならやらない手だ。
それは分かっていた。父上の計算では、国王が死ねば王妃の権力が強化される。宰相府が不利になる。合理的な判断だ。だがマティアスの計算は違った。
国王が死ねば王位継承が早まる。ルシアン殿下が玉座に就く。そこにマティアスが摂政として立つ。父上を経由しない権力の道筋。計画書を机に広げた。二年かけて書いた。
飢えが理性を超える瞬間がある。五歳の時、母の手を見てから振り返らなかった。生き残るために。今も同じだ。部下に毒を渡した夜、マティアスは長い間、窓の外を見ていた。
王都の灯り。無数の光。あの灯りの一つの下に、アルヴェインの令嬢がいる。今夜、何をしているのか。答えは出なかった。
◇
父上の執務室に呼ばれたのは翌々日の昼だった。ヴィクトールは書類を見ていた。顔を上げなかった。
「座れ」
座った。
「お前がやった」
断定だった。問いではなかった。
「証拠はありません」
「辻褄が合わない点が一つある」
父上が書類を置いた。初めて顔を上げた。
老いていた。六十を超えて、しわが深かった。マティアスを拾いに来た頃は、もっと若かった。
「セレスティア・フォン・アルヴェインが宰相府を訪ねてきた。お前の情報を持って」
マティアスは止まった。
「見返りは求めないと言った」
沈黙があった。長かった。
「副宰相の権限を一部制限する。財務部門のみを担当しろ」
「分かりました」
立ち上がった。礼をした。廊下に出た。長い廊下だった。
十歳の令嬢が、宰相府に来た。父上と直接向き合った。マティアスの情報を持って。見返りを求めずに。なぜか。
父上が長年かけて教えた計算には、「見返りを求めない」という項目がなかった。存在しない概念だった。人間は必ず何かを欲しがる。
飢えた者は食を。権力を持った者は安全を。愛された者は承認を。必ず、何かを。だからこそ動かせる。だからこそ計算できる。それがマティアスの長い年月だった。
だがあの令嬢は、何を欲しがっているのか。
情報を渡した。見返りを求めなかった。父上の言葉で言えば「駒として使えない人間」だ。得にならなければ動かない、それが計算だ。だがあの令嬢は動いた。
理由が、分からなかった。
◇
執務室の扉を開けた。
引き出しを開けた。報告しなかった書類が入っていた。取り出した。見た。閉じた。戻した。今夜も書かなかった。燭台の炎が揺れた。
五歳の夜を思い出した。母の手が冷たかった。振り返らなかった。それが正しいと思った。振り返る価値があるものは、あの場所には何もなかった。一つだけ、問いが残っていた。
あの令嬢は振り返るのか。
前世の法廷でセレスティア・フォン・アルヴェインがどうなったか、マティアスは知らない。知る立場にない。だが、宰相に刃を向ける十歳が、一体どこに向かっているのか。
計算できなかった。計算外の人間は、危険だ。だが、今夜も炎を消せなかった。それだけが、答えのない答えだった。




