三番目の嘘
廊下で見かけた夜のことを、俺は三日間考えた。三日経っても忘れなかった。忘れようとしたが、忘れなかった。気になってない、と思った。三度思った。
繰り返さなければいけない「気になってない」は、本当はそうじゃない、ということだと気づいたのは、もう少し後のことだった。
◇
十三歳の終わりだった。王位継承の準備が本格化していた。
宰相と父王の間で、政策の方向性について意見の食い違いが出始めていた。詳しいことは表には出ないが、雰囲気で分かる。会議の空気が変わる。俺が何かを言うと、宰相が微妙な顔をする。
宰相の意図が、少しずつ読めるようになってきた頃だった。アルヴェイン家の令嬢については、噂の段階を越えていた。
貴族院に法案が出た。聖魔力脅威法。聖魔力の保有者を登録し、移動を制限し、魔力の使用を許可制にする。テオドールという男が集めた報告書まで、根拠の一つにされた。三歳で説明のつかない恐怖を示し、幼い頃から大人びた判断を重ねた。それは教育や才能の範囲を超えており、禁忌の魔術以外に説明がつかない、と宰相派は主張した。
名指しはされていない。だが議場の全員が、誰のための法案かを知っていた。
宰相の工作だ、とはっきり言える根拠はなかったが、俺にはそう見えた。宰相がアルヴェイン公爵家を快く思っていないのは知っていた。公爵家が宰相の思い通りに動く家ではないからだ。
だが俺は何もしなかった。
巻き込まれたくなかった。今は宰相と正面から争う時ではない。証拠もない。動く理由がない。そう判断した。
◇
廊下で会ったのは、偶然だった。
夜遅い時間だった。俺が書類仕事を終えて部屋に戻る途中で、廊下の角から令嬢が出てきた。一人だった。手に本を持っていた。
夜遅くに一人で歩いているのは珍しい。だがこの頃、あの子は王宮に来ていることが多かった。貴族院の書庫を使っている、と聞いていた。脅威法に反論する材料を集めているのだろう。
だが顔を見て、俺は少し足を止めた。
目の下に隈があった。顔色が悪かった。何かあった後の顔だ、と直感的に分かった。
令嬢は俺に気づいて、一瞬止まった。それから普通の顔をした。礼をした。
「殿下、こんな時間に。おやすみなさい」
声が平静だった。笑顔だった。演じた笑顔ではなかったと思う。ただ、隈が隠れるわけではない。俺はなんと言うか考えた。何も言えなかった。
「ああ」とだけ言った。
令嬢は行ってしまった。廊下の向こうに消えた。
◇
部屋に戻った。机の前に座った。
「気になってない」と思った。
隈があったくらいで、何かがあったとは限らない。疲れているだけかもしれない。眠れない夜もある。病気かもしれない。何かを心配しているのかもしれない。
俺には関係のない話だ。婚約者だが、今は互いに別々の生活をしている。何があったかを聞く立場にない。そもそも知る必要もない。
「気になってない」
二度繰り返した。三日後も、あの顔が頭から消えていなかった。
◇
その頃、カスパルが定期報告を持ってきた。内容の一つに、アルヴェイン令嬢についての情報があった。
「令嬢は連日、貴族院の書庫と王宮を往復しておられます。脅威法への反論を準備しておいでかと。……お一人で背負っておられるようです」
「そうか」と俺は言った。
「殿下として特に対処が必要でしょうか」
「いや、今は必要ない」
「承知しました」
カスパルは次の話題に移った。俺は「今は必要ない」と言った言葉を、しばらく考えた。
「今は」というのは「いつかは必要になる」ということを含んでいる。
なぜそういう言い方をしたのか。考えないことにした。
◇
春が終わる頃、宰相がある提案を持ってきた。
「アルヴェイン令嬢との婚約を、この時点で再考することをお勧めします。聖魔力の危険性が議会で問われている状況では、王家への影響も懸念されます」
宰相の言葉は常に論理的だ。確かに議会の空気は王家への影響を持つ。婚約解消の理由として成立する。
三年前、この婚約を「貴族院の総意であれば」と言って通した男が、今度は再考を勧めている。使えるうちは使い、使えなくなれば切る。それだけのことだ。
俺は少しの間、宰相を見た。
「婚約は維持します」と言った。
宰相が「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」と言った。
俺は少し考えた。論理的な理由を探した。あった。「アルヴェイン家の政治力と財力は王家にとって有益です。議会の懸念は一時的なものです。長期的に見れば維持する方が得策です」
宰相は「ご慎重に考えてください」と言って引き下がった。
◇
その夜、俺は自分が言った言葉を振り返った。
「アルヴェイン家の政治力と財力は有益」「議会の懸念は一時的」「長期的に有益」
全部本当のことだ。計算として正しい。だが、一つ確認が必要なことがある。俺は婚約を維持すると言った。その判断をした時、「アルヴェイン家の利益」を最初に考えたか。
考えていなかった。
最初に思ったのは、宰相の提案が気に入らない、ということだった。理由をその後に探した。婚約解消を「気に入らない」。なぜ。
「気になってない」と言い聞かせながら、婚約解消は「気に入らない」。
矛盾していた。
◇
翌日の朝、窓から貴族院の方角を見た。
廊下で会った夜の顔が、まだ頭にあった。隈のある顔。それでも礼をして、普通の声で「おやすみなさい」と言った顔。
「気になってない」
三度目だった。繰り返さなければいけない嘘は、本当はそうじゃない、ということだ。その時はまだ、その意味が自分に当てはまるとは思っていなかった。




