二番目の嘘
婚約が決まった時、俺は「嫌だ」と思った。
アルヴェイン家の令嬢と婚約する、という話を宰相から聞いて、最初に思ったのが「嫌だ」だった。なぜ嫌なのかを考えた。考えた結果、理由が出てこなかった。
◇
俺は十一歳になっていた。
王太子としての仕事の範囲が少しずつ広がっていた。謁見に同席する機会が増えた。公務の書類に署名する機会も増えた。カスパルは相変わらず傍にいた。宰相府の動きも、少しずつ分かるようになっていた。
その中で、婚約の話が出た。
貴族院からの推挙という形だった。公爵家に正式な打診が行き、同じ書面が父王のもとにも回ってきた。「アルヴェイン公爵家との婚姻は政治的な安定をもたらす。公爵家の財力と人脈は王家にとっても有益である。令嬢セレスティアは聖魔力の持ち主でもあり、王家の血に加わることは将来の国力強化に繋がる」
宰相は反対しなかった。賛成もしなかった。「貴族院の総意であれば」とだけ言って、書面を父王に回した。当時は、興味がないのだと思っていた。
三年後に分かった。あの男はあの時、この婚約を潰すより使う方が得だと計算していた。婚約者には動機が生まれる。王太子を害する動機が。自分で仕掛けなくても、他人が用意した盤なら、後から乗ればいい。
父王が俺に意見を求めた。
「お前はどう思う」
「嫌い……ではないので、反対する理由もないかと」と答えた。
◇
その一言が、婚約成立の決め手になった。俺が「嫌いではない」と言ったから、話が進んだ。
「嫌い」じゃない、というのは本当だ。六年前の顔合わせから、王宮教育課程でも学園でも何度も話してきた。友達として大切なのは分かる。だが、それが婚約を望む気持ちなのかと聞かれれば、まだ判断できなかった。
だが嫌い「ではない」と言ったのは、少し違う気がした。
正確には、「嫌いじゃない、が、何かがある」という感じだった。何があるのかが言えなかったから、「嫌いではない」だけを言った。それが二番目の嘘だった。
◇
婚約が決まって数週間後、廊下でセレスティアに会った。
公爵家が王都別邸に滞在している時期だった。俺は廊下を歩いていて、角を曲がったところで鉢合わせた。相手も驚いた顔をしたが、すぐに礼をした。
「おめでとうございます。よろしくお願いします、殿下」
礼儀正しかった。六年前と変わっていない。礼の正確さが変わっていない。だが背が伸びていた。十一歳だ。
「よろしく」と俺は言った。
言ってから、なぜ敬語を使っていないんだ、と思った。相手は公爵令嬢で俺の婚約者だ。「よろしく」は少し軽すぎる。「よろしく頼む」くらいにするべきだった。
だが既に言ってしまった。
セレスティアは少し目を上げた。何かを計算しているような目だった。それから「はい」と静かに答えた。
◇
その日の夜、なんで「よろしく」と言ったのかを考えた。
婚約者に話しかける時の適切な言葉はある。外交的で礼儀正しく、距離感を保った言葉が。それを六年間訓練している。なのに出てきたのが「よろしく」だった。
あの子が礼をした瞬間に、なぜか反射的に「よろしく」と言っていた。
気にしなければいい話だ。言い直せばいい。次に会った時にもう少し礼儀正しく話せばいい。なのに気になった。なんで気になるんだ。
「嫌いじゃない」というのは本当だ。だが「気になっていない」かどうかと言えば、そうではないのかもしれない。
◇
翌日、カスパルに「アルヴェイン家の令嬢はどういう子供ですか」と聞いた。カスパルは少し考えてから答えた。
「賢い子だという評判です。読書量が多く、学園でも成績が良いと聞いています。ただ少し変わったところがある、という話も聞きます」
「変わったところ」
「詳しくは把握しておりません。ただ同年代の令嬢たちと少し話題が違う、という話が出ていますね。政治の話を子供がするのは珍しい、という評です」
「政治の話を十一歳がするのか」
「らしいですね」
俺は少し黙った。
「カスパル。アルヴェイン家についての情報を定期的に集めてください」
「承知しました。何か特別に気になることでも」
「いや。婚約者のことは把握しておくべきだろう」
それだけの理由だ。それ以外の理由ではない。
「嫌いじゃない」はずだし、「気になってない」はずだ。
◇
学園でセレスティアと同じ建物に入ることが増えた。
王太子は通常の学園には通わない。だが特別授業のために学園の施設を使うことがある。廊下で見かけることがあった。
あの子はよく本を読んでいた。移動中も読んでいた。昼は食堂ではなく、中庭の石段で食べていた。東棟と中庭をつなぐ、苔むした十二段の石段だ。
石段には他にも人がいた。南方から来た留学生。神殿の見習い。ブリュンヒルデ家の娘。日によって顔ぶれが変わる。パンを分けて、笑っている。
二年前、俺もあの石段に座ったことがある。九歳の時だ。あの時は呼ばれて座った。今は行かない。
婚約者になったから行きにくい、というのは理由にならない。むしろ行きやすくなったはずだ。
なのに行かなかった。廊下の窓から見えることがあって、そのたびに足が止まって、それから歩き出した。時々、目が合った。俺が先に目を逸らした。毎回。
なんで俺が先に逸らすんだ。分からなかった。
◇
学園の共用図書室で、偶然同じ書棚の前に立ったことがある。
「殿下もこの棚ですか」と聞かれた。
「そう」と答えた。
「外交史の棚ですよね。わたしも探し物があって」
「何を探してる」
「アールベルク条約の原本の複製です。以前から見つからなくて」
「それなら第三書架の一番上だ。背表紙が傷んでいるから分かりにくい」
セレスティアが少し目を丸くした。「ありがとうございます」と言った。
「別に。使ったことがあっただけだ」
それだけのやり取りだった。
◇
その夜、日記を書こうとして、止めた。俺は公務の日記をつけている。感想は書かない。事実だけ書く。
今日起きた事実を書き出すと、「図書室でアルヴェイン令嬢と偶然会い、書棚の場所を教えた」になる。大したことではない。書かなかった。なんで書かなかったのか、自分でも分からなかった。




