最初の嘘
気になってない、と思った。
部屋に戻ってから、自分に言い聞かせた。気になってない。五歳の子供の目なんか、気になっていない。それが最初の嘘だった。
◇
王太子としての生活について書く。
俺の一日は決まっていた。朝五時起床。語学と礼法の教師が来る。昼食は政務の打ち合わせを兼ねる。午後は剣術と乗馬。夕方に国王への報告書を書く。就寝は深夜になることもある。
五歳のやることではない気がするが、王太子というのはそういうものだ。
カスパルがいつも傍にいた。王太子付きの侍従だ。物腰が柔らかく、よく気が回り、俺の予定を完璧に管理していた。当時の俺はカスパルを信頼していた。
今から思えば、あれが宰相の目と耳だったわけだが、五歳の俺にはそこまで見えなかった。
誰にも見えなかった。あの男は宰相府から寄越されたのではない。十五で侍従見習いとして王宮に入り、十年かけて王太子の隣まで上がってきた。書類のどこにも宰相の名前は出てこない。そういう作りになっていた。
◇
その日は子供たちの顔合わせだった。
年に一度の行事だ。貴族の子女が王族と正式に対面する。一人ずつ名を告げ、礼をする。本質的には家格の確認の場だ。
俺は上座に座る。誰もが俺に礼をする。俺が誰かと話すと、その者の株が上がる。そういう場だ。三歳の頃からやっている。慣れた。慣れたはずだった。
だが実際は、用意された返答を毎回忘れる。顔が赤くなる。言葉に詰まる。カスパルが後で「もう少し堂々となさいませ」と言う。俺は頷く。次も同じことをする。
その日、初めて会う令嬢がいた。アルヴェイン公爵家の令嬢。名前はセレスティア。五歳。
五歳の子供を王宮に連れてくることは珍しい。普通は七歳か八歳から、徐々に慣らしていく。なのに公爵夫人が連れてきたということは、何かの意図があるのか、あるいはただの気まぐれか。
俺はあまり興味を持たなかった。五歳だ。話が通じる年齢ではない。
その子の番が近づいても、いつも通り「よろしく」と返せば終わると思っていた。
◇
挨拶の列が進み、やがてその令嬢の番が来た。
俺の前まで歩いてきた足が、一瞬だけ止まった。銀色の髪の下で、碧い目が大きく揺れている。怖がっているようにも、ずっと探していたものを見つけたようにも見えた。
「セレスティア・フォン・アルヴェインです。殿下、お目にかかれて光栄です」
礼は正確だった。声も震えていない。なのに、差し出される前の手だけが小さく震えていた。
「君が……セレスティア?」
「はい」
「母上が話していた。セレスティアという子が来ると。銀色の髪の、綺麗な子だって」
令嬢の表情が少しだけ緩んだ。
俺は手を差し出した。握手をする、それだけのことだ。だが彼女は息を止め、しばらく俺の手を見つめていた。やがて、小さな手が触れた。
「よろしく、セレスティア」
笑ったつもりだった。うまく笑えたかは分からない。彼女の目から涙が落ちた。
「え、泣いてる? 僕、何か変なこと言った?」
「ううん。違うの。嬉しくて」
嬉しくて泣く人間を、俺は初めて見た。
「へんなの」
「うん、変だよね。ごめんね」
彼女は涙を拭いて、それから笑った。
「でもね、殿下。わたし、殿下とお友達になりたいです」
「友達? 僕と?」
「うん。だめ?」
だめではなかった。ただ、王太子に向かって友達になりたいと言う子供を、俺は知らなかった。
「だめじゃ、ない。でも……僕、友達って、あんまりいなくて」
「わたしも少なかったよ。でもね、最近できたの。フリーデリケちゃんっていうの。殿下もお話してみて」
「……うん。話してみる」
手が離れた。彼女は列の脇で待つフリーデリケのところへ戻っていった。なんだ、あの目は。
初めて会ったはずなのに、俺を見る前から何かを知っていた。怖がりながら、それでも手を取った。あの涙は、ただの嬉し涙だったのだろうか。顔合わせが終わって部屋に戻った。
机に向かって、今日の学習の復習を始めた。だが三十分ほどして、ペンが止まっていることに気づいた。あの目のことを考えていた。
「気になってない」と思った。
なんで気になってないことを確認しているんだ。
「気になってない」ともう一度思った。
◇
翌日、カスパルにアルヴェイン公爵家について聞いた。
「アルヴェイン公爵家については、どんな評判がありますか」
カスパルは少し考えてから、「中立的で堅実な家柄です。殿下に何かご縁でもございましたか」と聞いた。
「昨日、令嬢と話した。変な子供だった」
「変な、と申しますと」
「僕を見て泣いた。それから、友達になりたいと言った」
「殿下のお人柄に安心されたのでしょう」
「まあ、どうせ誰かに言わされていたんだろう。五歳の子供が自分で王太子の友達になろうとは考えない」
そう言った。言い切った。
◇
夜、眠れなかった。
珍しいことだった。疲れていれば眠れる。疲れていなければ読書をして眠くなる。それが俺の就寝の方法だった。だが眠れなかった。窓から王都の夜景を見た。
五歳の子供が自分で王太子の友達になろうとは考えない。そう言った。本当に、そうか。
「わたし、殿下とお友達になりたいです」
誰かに言わされた言葉だろうか。あの目は、言わされた時の目だろうか。分からなかった。
「気になってない」
もう三度目だった。気になっていないことを、何度確認すれば気が済むのか。俺は本を開いた。読んだ。眠った。翌日になれば、忘れる。五歳の子供のことなど。
◇
翌日になった。忘れなかった。




