わたしの声で
父へ逆らった時にも帰る場所があるのか。その一言を尋ねるまでに、三年かかった。
イザベラ・ド・ガルニエは十三歳の冬、王宮の客室へ続く廊下に立っていた。夜は深く、人の気配はない。紺色の外套の襟に触れた。今年の誕生日に父が買ったものだ。
毎年届くのは同じ紺色で、変わるのは寸法だけだった。採寸を命じ、代金を払い、部屋まで届けるのは父の侍従だ。それでも、雨を弾く生地も、翌年まで着られるゆとりも、父の指示だと知っていた。
人を能力で測り、不要と判断すれば切り捨てる王国宰相が、娘の成長だけは毎年測らせている。その事実を愛情と呼んでよいのか、十三歳になっても分からなかった。
◇
客室の扉を叩いた。深夜の訪問が非常識だとは分かっている。だが、これ以上、待てなかった。待てない理由が何なのか、イザベラには分かっていた。
今日の貴族院で、父の側に立つ議員たちがセレスティアを攻撃した。聖魔力を脅威と呼び、力を持つ者を縛るべきだと声を上げた。あの子を縛るための法律だ。
セレスティア・フォン・アルヴェイン。公爵家の令嬢。銀色の髪。聖魔力の持ち主。イザベラにとって、名前をつけることのできない、大切な存在。父の標的。
そしてイザベラは、父の娘だ。
父の娘でありながら、父の標的となった人を守りたい。その思いを三年間、完璧な成績と宰相令嬢の微笑みの下へ押し込めてきた。今夜はもう、飲み込んだまま帰れなかった。
◇
扉を開けたのはナターシャだった。セレスティアの侍女。いつもの柔らかな微笑み。だがその目は鋭い。深夜の来訪者を値踏みしている。
「イザベラ様。こんな時間に……」
「ごめんなさい。ナターシャ。でも……どうしても今夜でなければ」
ナターシャの目が一瞬だけ細まった。それから、頷いた。
「お嬢様はまだ起きていらっしゃいます。どうぞ」
中ではセレスティアが報告書を読んでいた。ナターシャはイザベラを通すと、呼ばれるまで廊下に控えると言って扉を閉めた。二人きりになった。
◇
セレスティアが報告書から顔を上げた。
銀色の髪を下ろした夜更けの彼女は、昼間の凛とした令嬢より幼く見えた。その姿を前にすると、議会で脅威と呼ばれていた人物と同じだとは思えなかった。
「イザベラ」
名前を呼ばれた。それだけで、目の奥が熱くなった。泣くな。まだ泣くな。言うべきことがある。
「今日の貴族院、聞いた」
イザベラは、父の側で黙っていたことを話した。セレスティアが攻撃されているのに、何もできなかったこと。味方になりたいのに、父に逆らえば家も地位も失うこと。
「でも、黙って座っていることも、もう耐えられない」
セレスティアは立ち上がり、イザベラの前まで来た。
セレスティアは急かさず、手の届くところで立ち止まった。その距離が、最後の一歩をイザベラ自身へ委ねているのだと分かった。
イザベラは自分からその手を取った。三年間、胸の奥へ押し込めていた問いを、ようやく自分の声にする。
「もしわたしが父に逆らったら……あなたは、味方してくれる?」
◇
短い問いだった。それでも、口にするまでの三年間には、報告書へ隠した秘密と、飲み込んだ反論がいくつも積み重なっていた。
十歳の時、父の書斎で聖魔力に関する資料を見つけた。セレスティアの名前があった。分類。分析。対策。まるで害獣の駆除計画を読んでいるようだった。
十一歳の時、父の補佐として議会に同席するようになった。父の弁舌。論理。説得力。反対者を沈黙させる技術。それを隣で見ていた。学んだ。吸収した。
十二歳の時、聖魔力脅威法案の原型となる政策提言を、父が起草しているのを知った。止めたかった。だが、止め方が分からなかった。父に逆らうということ。
それは宰相の娘という立場を捨てるということだ。ガルニエ家の庇護を失うということだ。父が築いた全ての人脈、全ての権力、全ての安全を、手放すということだ。
失うことが怖かった。家も地位も、ガルニエの名が与える安全も失いたくなかった。そして何より、父の冷たい目で「違う」と判じられ、娘としても道具としても不要だと告げられるのが怖かった。だから三年間、黙っていた。
だがもう、黙れない。
◇
セレスティアの答えは、一瞬の迷いもなかった。
「もちろん。何があっても。何を失っても」
その声の確かさに、イザベラの目から涙が溢れ、握り合った手の甲へ落ちた。
「まだ……まだ踏み切れない。ごめんなさい」
泣きながら言った。情けなかった。覚悟を決めて来たはずなのに。一言言えただけで崩れた。セレスティアが手を伸ばした。イザベラの手に重ねた。温かかった。
「待ってる。いつまでも」
その言葉が、鎖を一つ、外してくれた。
父の教育も期待も、愛情に似た何かも、まだ胸へ幾重にも巻きついている。それでも、逃げた先に誰もいないという恐れだけは外れた。泣き終えるまで、セレスティアは手を離さなかった。
その夜、イザベラは王宮の客室を出た。まだ全てを捨てる覚悟はない。それでも、逃げなければならない時はここへ来ると約束した。手には、確かな温もりが残っていた。
◇
一年が過ぎた。イザベラは十四歳になっていた。聖魔力脅威法案が、ついに大議会に上程された。
それは父が三年以上を費やした集大成だった。賛同者を確保し、反対派へ圧力をかけ、想定される質問への答弁まで準備してある。半円形の階段席が演壇を囲む大議会の議場で、国王陛下の視線を受けながら、ヴィクトールは淀みなく法案を説明した。
イザベラは父の後ろの席に座っていた。宰相の補佐として。いつもの席だ。いつもの役割だ。父が演壇に立った。
聖魔力の潜在的脅威、制御の必要性、国家の安全保障。論点は明快に並べられ、一つ一つの言葉が議場を父の望む結論へ運んでいく。イザベラは、その背中を見ていた。
灰色の髪と、年齢を感じさせないまっすぐな背筋。その背中へ追いつき、いつか認められたくて学んできた。
あの夜のセレスティアの手を思い出した。温かい手。「待ってる。いつまでも」という声。一年間、待たせた。もう、十分だ。イザベラは立ち上がった。
◇
立ち上がった足は震えていた。宰相の補佐席から発言を求める者などおらず、議場の視線が一斉に集まる。
演壇の父が振り返った。その目に浮かんだ驚きを、イザベラは初めて見た。喉が狭まり、最初の息は声にならなかった。それでも一度唾をのみ、自分の言葉を議場へ押し出した。
「わたしは、この法案に反対します」
宰相の娘が宰相の法案へ公然と反対した。その意味を測るような静寂が、半円形の議場を満たした。
「わたしは宰相の娘です。でも……父の全てが正しいとは限らない」
父の目を見た。冷たい目。いつもの目。だがその奥に、何かが揺れていた。
「間違いを正すことは……裏切りではありません」
◇
そこからは、父に教わった技術を使った。
「この法案が禁じる『行為』は、どの条文に書かれていますか」
父は、聖魔力は存在そのものが脅威だと答えた。被害が出てからでは遅い、と。だから法案を掲げた。
「では、これは法律ではありません。まだ何もしていない一人の人間に、先に刑を言い渡す判決文です」
議場から音が消えた。
「法典を暗記させ、条文の読み方を教えたのは、お父様です」
テオドール報告書の原稿と、危険性を強調するよう編集された草稿を並べ、過去の事例と照合した。条文に残された曖昧さが、運用する者の判断でいくらでも広がることを、一項ずつ示していく。
法典の読み方も、記録の比べ方も、相手の主張から欠けた前提を探す方法も、すべて父が教えたものだった。父の娘として育てられたことそのものが、今は父へ異議を唱えるための力になっていた。
議論は三時間に及んだ。父は演壇を動かず、いつもの冷静さと論理で反論を重ねた。イザベラも、分からないことは分からないと認めたうえで、条文から読み取れる危険だけは譲らなかった。いつしか足の震えは止まり、声も議場の奥まで届くようになっていた。
二時間を過ぎた頃、ヴァルトシュタイン子爵が質問した。危険が現実になった時は誰が責任を負うのか。予防そのものを否定するのか、と。
「否定しません」
魔力を使う際の共通規則。事故後の調査。力に応じた訓練。それらは必要だと答えた。
「ですが、この法案には、何をすれば危険と見なされるのかが書かれていません。判断する者と、異議を受ける者も、どちらも宰相府です」
子爵は法案を開いた。何度も読み込んだはずの頁を、もう一度めくった。父は、足りない部分は細則で補えばよいと反論した。だが子爵は首を横に振った。
「細則を作るのも宰相府です。制限を命じる者が、制限の範囲まで後から決める。それを認める方が危険だ」
そして、自分は今朝まで賛成するつもりだったと明かした。
「聖魔力が怖かった。だが、怖いというだけで白紙の命令書を渡すわけにはいかない。この法案には反対します」
父を言い負かしたから動いた一票ではない。子爵自身が条文を読み直し、自分の恐れと議員としての役目を秤にかけて決めた一票だった。その変化を目の前で見て、イザベラは初めて、議論とは相手を屈服させるためだけのものではないと知った。
◇
投票が行われた。反対二十八。賛成二十一。否決。
事前の予想から五票が動き、賛成多数と見られていた法案は否決された。弁論術も論理構成も、父が教えた技術である。ただしイザベラは、聴衆を父の望む場所へ運ぶためではなく、一人ずつ自分で判断できる材料を渡すために使った。
父は何も言わなかった。
演壇を降り、議場を出た。イザベラの前を通り過ぎた。目も合わせなかった。それが、一番堪えた。
◇
議場の外の回廊。石柱の影に、銀色の髪が見えた。
傍聴席から降りてきたのだろう。セレスティアは泣いていた。自分のために流された涙を見た途端、イザベラの膝から力が抜けた。石の床へ手をつくと、三時間の議論の間に堪えていたものが一度に溢れた。
「自分で確かめたことを、自分の言葉で言った。……嘘はついてない」
声が嗄れていた。セレスティアが膝をついて、イザベラの顔を覗き込んだ。
「今も、そう思ってる」
「うん。間違ってない」
セレスティアの声。穏やかで、揺るぎなくて、確かな声。
「あなたは、自分の声で話した。……それは間違いじゃない」
イザベラはセレスティアの肩へ顔を埋め、声を殺して泣いた。回廊に人の気配はない。きっとナターシャが、誰も近づかないよう見張っているのだろう。
「これから、お父様の家へ戻るわ」
涙が収まってから告げると、セレスティアの腕に力が入った。
「一人で大丈夫?」
「ええ。自分で言わなければならないことがあるの」
今夜、父は何を奪うだろう。家か、地位か、ガルニエの名か。それでも、議場で一度得た声を差し出すつもりはなかった。
立ち上がったイザベラの肩には、父から贈られた紺色の外套がある。温かさを覚えているからこそ、別れは痛む。それでも彼女は襟を正し、自分の足で父の家へ帰った。
そこから出て行くために。




