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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝④「宰相の娘はそれでも歩く」

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声に出して

 十一歳の冬。副宰相マティアスの執務室に呼ばれた。


 重い扉の向こうでは、磨かれた床へ窓の灰色が映っていた。マティアスは机の向こうに座り、一枚の報告書を手にしている。


 「イザベラ嬢。座りたまえ」


 座った。背筋を伸ばす。父に教わった通りに。


 マティアスの目は、いつものように笑っていた。けれど、その微笑みには父の外套のような読みにくさすらない。親しげに見せれば相手が口を滑らせると知っている者の、よく磨かれた道具だった。


 「テオドールという男の報告書について、確認したいことがある」


 テオドール。アルヴェイン公爵家の元使用人。真面目で、誠実で、不器用な男。セレスティアの味方をしようとしている。その報告書が、父の手元にある。


 「イザベラ嬢は、この名前を知っているね」


 「名前だけは。お父様の書類で、何度か」


 「その報告書の中に、アルヴェイン家令嬢の魔力に関する記述がある。これについて、何か知っているかね」


 心臓が一度、大きく跳ねた。顔には出さない。「動揺は弱さだ。弱さは武器にされる」と教えた父の声を、頭の中で繰り返す。


 「存じません」


 嘘だ。知っている。セレスティアの闇魔力を目撃している。二年以上前に。マティアスの目が細くなった。


 「そうか。では、この報告書の信頼性について、どう思う」


 信頼性が高いと言えば、セレスティアに不利な証拠を補強する。低いと言い切れば、根拠と意図を探られる。どちらを選んでも、マティアスの用意した道へ進む問いだった。


 イザベラは息を整え、父に教わった交渉術で、二つの答えの間に別の道を作った。


 「副宰相閣下。報告書の信頼性は、書き手の立場に依存します」


 「ほう」


 「テオドールは公爵家に仕えていた人間です。公爵派と見なされます。公爵派の人間が公爵令嬢について記した報告書は、第三者の目には偏向の疑いを免れません」


 マティアスの眉が動いた。


 「つまり、証拠としての価値が低い、と」


 「わたくしの見解ではなく、一般論です。議会に提出する場合、中立的な立場からの追加証言が必要になるかと」


 感情を見せず、一般論として返した。父から授かった技術が、父の陣営へ渡る証拠を鈍らせている。その皮肉を、今は考えないことにした。


 マティアスは、しばらく黙っていた。それから、いつもの笑みを浮かべた。


 「さすがは宰相閣下の御息女だ。論理が明晰だ」


 「恐縮です」


 「下がってよろしい」


 ◇


 廊下へ出て扉が閉じると、イザベラは壁へ背を預け、堪えていた息をゆっくり吐いた。手が震えている。


 雨の図書室で、セレスティアとの会話を報告しなかった。闇魔力を目撃して、五ヶ月間黙り続けた。そして今、テオドールの報告書が証拠として使われにくくなるよう、論理の向きを変えた。


 一度なら気まぐれ、二度なら迷いと呼べたかもしれない。けれど同じ人を守るために三度選んだことを、もう偶然とは呼べなかった。


 「わたしは、あの子を守ろうとしている」


 廊下には誰もおらず、灰色の光が窓から差し込んでいるだけだった。それでも声に出した途端、胸の内で燻っていたものに、初めて自分の名前を与えられた気がした。


 父が標的とする少女を、自分は守ろうとしている。


 ◇


 その夜。自室の机に向かった。週次報告書を書く。ペンを持つ手が、止まった。


 「マティアス副宰相と面談。テオドール報告書の信頼性について意見を求められ、中立的な法的見解を述べた。特記事項……」


 特記事項。いつもなら「なし」と書く。


 だが今日は、「なし」では済まない。今日、わたしは明確に父の陣営を妨害した。報告書の証拠価値を落とした。論理を使って。父に知られたら、どうなる。


 「特記事項はありません。イザベラ」


 また父に嘘をついた。けれど今度は、ペンを置く手が震えなかった。何を隠したのかだけでなく、なぜ隠すのかを、自分で知っていたからだ。


 ◇


 十二歳の春。王太子妃候補が発表された。セレスティア・フォン・アルヴェイン。イザベラ・ド・ガルニエ、ではなく。


 ◇


 物心ついた頃から、父にもマティアスにも、ガルニエ家に仕える者たちにも「お前は王太子妃になる」と言われてきた。歴史も、法律も、弁論術も、その座にふさわしい娘を作るための教育だった。


 わたしの人生は、あの席のためにあった。それが、なくなった。一枚の書簡で。王家からの正式な通達で。


 「アルヴェイン家令嬢セレスティアを、王太子アレクシス殿下の婚約者として内定す」


 ◇


 胸の奥から、制御できない怒りが込み上げた。けれど、セレスティアが悪いわけではない。彼女自身が王太子妃の座を望んだとも限らない。父は決定を覆そうとしているのだから、父に怒っているとも言い切れなかった。


 では、自分は誰に腹を立てているのだろう。そもそも王太子妃になりたかったのか、アレクシスを一人の人として好きだったのか。それさえ考えたことがなかった。


 「考えたことがなかった」


 九歳の冬と同じ答えだった。何をしたいかも、誰が好きかも、何が正しいかも、父とガルニエ家が先に決めていた。奪われたのは王太子妃の座ではない。一度も望んだことのない未来を、自分の人生だと思わされていた。その事実が、怒りの正体だった。


 ◇


 社交の場で、セレスティアと顔を合わせた。銀の髪。碧い目。あの深すぎる目。怒りが胸を焼いた。


 「おめでとう」


 言った。声が硬かった。自分でも分かった。


 「イザベラ」


 「おめでとう、と言ったの。聞こえなかった?」


 セレスティアの目が、揺れた。


 「イザベラ。わたしは」


 「言い訳しないで」


 声の震えを隠せなかった。怒りと悲しみのどちらかを選ぶ必要はないほど、胸の中には両方があった。


 「あなたが悪いんじゃない。分かってる。分かってるけど、今は顔を見たくない」


 セレスティアは、何も言わなかった。去ろうとした。足が止まった。振り返った。なぜ振り返ったのか、自分でも分からない。だが口が勝手に動いた。


 「セレスティア」


 「何」


 「父が、わたしを監視しているかもしれない」


 セレスティアの目が鋭くなった。


 「わたしに近づかないで。わたしの傍にいると、あなたも危険になる」


 言って、今度こそ去った。早足で。振り返らずに。


 ◇


 廊下を歩きながら、イザベラは自分のしたことを考えた。今はセレスティアの顔を見たくない。それでも、父の監視から彼女を守りたかった。感情が一つに揃わないからといって、どちらかが嘘になるわけではないのかもしれない。


 父の教室では、正しい答えは一つだと教わった。だが、人の心まで一つの答えに揃えることはできなかった。


 ◇


 自室に戻った。鏡の前に立った。


 紺色の外套がハンガーにかかっている。今年の誕生日に父が買ったもの。


 父は、怒っているだろう。王太子妃の座を奪われたことに。ガルニエ家の戦略が崩れたことに。


 明日の朝も五時に書斎へ呼ばれ、歴史と法律と政治哲学を学ぶのだろう。父の教室は続き、イザベラもまだその生徒でいる。ただし今日、自分は「守ろうとしている」と声に出した。一度口にした言葉を、何もなかった頃の胸へ戻すことはできない。


 紺色の外套の袖へ触れると、古い革とインクに似た、父の書斎の匂いがした。


 「お父様。わたしは……」


 その先は、まだ言えなかった。父の前に立ち、自分の言葉で反対するには、失うものの大きさを知りすぎていた。


 それでも、沈黙の中身はもう変わっている。何も考えず従うための沈黙ではない。いつか声にするまで、守るべきものを父の目から隠すための沈黙だった。


 「特記事項はありません」


 報告書にはそう記した。しかしイザベラの中には、父の教えだけでは収まらない言葉が増え続けていた。



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