声に出して
十一歳の冬。副宰相マティアスの執務室に呼ばれた。
重い扉の向こうでは、磨かれた床へ窓の灰色が映っていた。マティアスは机の向こうに座り、一枚の報告書を手にしている。
「イザベラ嬢。座りたまえ」
座った。背筋を伸ばす。父に教わった通りに。
マティアスの目は、いつものように笑っていた。けれど、その微笑みには父の外套のような読みにくさすらない。親しげに見せれば相手が口を滑らせると知っている者の、よく磨かれた道具だった。
「テオドールという男の報告書について、確認したいことがある」
テオドール。アルヴェイン公爵家の元使用人。真面目で、誠実で、不器用な男。セレスティアの味方をしようとしている。その報告書が、父の手元にある。
「イザベラ嬢は、この名前を知っているね」
「名前だけは。お父様の書類で、何度か」
「その報告書の中に、アルヴェイン家令嬢の魔力に関する記述がある。これについて、何か知っているかね」
心臓が一度、大きく跳ねた。顔には出さない。「動揺は弱さだ。弱さは武器にされる」と教えた父の声を、頭の中で繰り返す。
「存じません」
嘘だ。知っている。セレスティアの闇魔力を目撃している。二年以上前に。マティアスの目が細くなった。
「そうか。では、この報告書の信頼性について、どう思う」
信頼性が高いと言えば、セレスティアに不利な証拠を補強する。低いと言い切れば、根拠と意図を探られる。どちらを選んでも、マティアスの用意した道へ進む問いだった。
イザベラは息を整え、父に教わった交渉術で、二つの答えの間に別の道を作った。
「副宰相閣下。報告書の信頼性は、書き手の立場に依存します」
「ほう」
「テオドールは公爵家に仕えていた人間です。公爵派と見なされます。公爵派の人間が公爵令嬢について記した報告書は、第三者の目には偏向の疑いを免れません」
マティアスの眉が動いた。
「つまり、証拠としての価値が低い、と」
「わたくしの見解ではなく、一般論です。議会に提出する場合、中立的な立場からの追加証言が必要になるかと」
感情を見せず、一般論として返した。父から授かった技術が、父の陣営へ渡る証拠を鈍らせている。その皮肉を、今は考えないことにした。
マティアスは、しばらく黙っていた。それから、いつもの笑みを浮かべた。
「さすがは宰相閣下の御息女だ。論理が明晰だ」
「恐縮です」
「下がってよろしい」
◇
廊下へ出て扉が閉じると、イザベラは壁へ背を預け、堪えていた息をゆっくり吐いた。手が震えている。
雨の図書室で、セレスティアとの会話を報告しなかった。闇魔力を目撃して、五ヶ月間黙り続けた。そして今、テオドールの報告書が証拠として使われにくくなるよう、論理の向きを変えた。
一度なら気まぐれ、二度なら迷いと呼べたかもしれない。けれど同じ人を守るために三度選んだことを、もう偶然とは呼べなかった。
「わたしは、あの子を守ろうとしている」
廊下には誰もおらず、灰色の光が窓から差し込んでいるだけだった。それでも声に出した途端、胸の内で燻っていたものに、初めて自分の名前を与えられた気がした。
父が標的とする少女を、自分は守ろうとしている。
◇
その夜。自室の机に向かった。週次報告書を書く。ペンを持つ手が、止まった。
「マティアス副宰相と面談。テオドール報告書の信頼性について意見を求められ、中立的な法的見解を述べた。特記事項……」
特記事項。いつもなら「なし」と書く。
だが今日は、「なし」では済まない。今日、わたしは明確に父の陣営を妨害した。報告書の証拠価値を落とした。論理を使って。父に知られたら、どうなる。
「特記事項はありません。イザベラ」
また父に嘘をついた。けれど今度は、ペンを置く手が震えなかった。何を隠したのかだけでなく、なぜ隠すのかを、自分で知っていたからだ。
◇
十二歳の春。王太子妃候補が発表された。セレスティア・フォン・アルヴェイン。イザベラ・ド・ガルニエ、ではなく。
◇
物心ついた頃から、父にもマティアスにも、ガルニエ家に仕える者たちにも「お前は王太子妃になる」と言われてきた。歴史も、法律も、弁論術も、その座にふさわしい娘を作るための教育だった。
わたしの人生は、あの席のためにあった。それが、なくなった。一枚の書簡で。王家からの正式な通達で。
「アルヴェイン家令嬢セレスティアを、王太子アレクシス殿下の婚約者として内定す」
◇
胸の奥から、制御できない怒りが込み上げた。けれど、セレスティアが悪いわけではない。彼女自身が王太子妃の座を望んだとも限らない。父は決定を覆そうとしているのだから、父に怒っているとも言い切れなかった。
では、自分は誰に腹を立てているのだろう。そもそも王太子妃になりたかったのか、アレクシスを一人の人として好きだったのか。それさえ考えたことがなかった。
「考えたことがなかった」
九歳の冬と同じ答えだった。何をしたいかも、誰が好きかも、何が正しいかも、父とガルニエ家が先に決めていた。奪われたのは王太子妃の座ではない。一度も望んだことのない未来を、自分の人生だと思わされていた。その事実が、怒りの正体だった。
◇
社交の場で、セレスティアと顔を合わせた。銀の髪。碧い目。あの深すぎる目。怒りが胸を焼いた。
「おめでとう」
言った。声が硬かった。自分でも分かった。
「イザベラ」
「おめでとう、と言ったの。聞こえなかった?」
セレスティアの目が、揺れた。
「イザベラ。わたしは」
「言い訳しないで」
声の震えを隠せなかった。怒りと悲しみのどちらかを選ぶ必要はないほど、胸の中には両方があった。
「あなたが悪いんじゃない。分かってる。分かってるけど、今は顔を見たくない」
セレスティアは、何も言わなかった。去ろうとした。足が止まった。振り返った。なぜ振り返ったのか、自分でも分からない。だが口が勝手に動いた。
「セレスティア」
「何」
「父が、わたしを監視しているかもしれない」
セレスティアの目が鋭くなった。
「わたしに近づかないで。わたしの傍にいると、あなたも危険になる」
言って、今度こそ去った。早足で。振り返らずに。
◇
廊下を歩きながら、イザベラは自分のしたことを考えた。今はセレスティアの顔を見たくない。それでも、父の監視から彼女を守りたかった。感情が一つに揃わないからといって、どちらかが嘘になるわけではないのかもしれない。
父の教室では、正しい答えは一つだと教わった。だが、人の心まで一つの答えに揃えることはできなかった。
◇
自室に戻った。鏡の前に立った。
紺色の外套がハンガーにかかっている。今年の誕生日に父が買ったもの。
父は、怒っているだろう。王太子妃の座を奪われたことに。ガルニエ家の戦略が崩れたことに。
明日の朝も五時に書斎へ呼ばれ、歴史と法律と政治哲学を学ぶのだろう。父の教室は続き、イザベラもまだその生徒でいる。ただし今日、自分は「守ろうとしている」と声に出した。一度口にした言葉を、何もなかった頃の胸へ戻すことはできない。
紺色の外套の袖へ触れると、古い革とインクに似た、父の書斎の匂いがした。
「お父様。わたしは……」
その先は、まだ言えなかった。父の前に立ち、自分の言葉で反対するには、失うものの大きさを知りすぎていた。
それでも、沈黙の中身はもう変わっている。何も考えず従うための沈黙ではない。いつか声にするまで、守るべきものを父の目から隠すための沈黙だった。
「特記事項はありません」
報告書にはそう記した。しかしイザベラの中には、父の教えだけでは収まらない言葉が増え続けていた。




