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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝④「宰相の娘はそれでも歩く」

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報告書の余白

 毎週金曜日の夜、イザベラは自室の机で報告書を書く。


 学習した内容、読了した書物、外出先での出来事、接触した人物と会話の要旨。一週間を父の定めた項目へ分け、余計な感想を交えず紙へ移す。それは授業の課題ではなく、ガルニエ家の娘に課された義務だった。


 父、ヴィクトール・ド・ガルニエ宰相が定めた規則。書式まで決められた六歳のときから、九歳になった今まで、一度も欠かしたことはない。


 報告書は翌朝、父の書斎の机に置かれる。父はそれを読む。コメントはない。指摘もない。ただ読む。そして翌週の講義に、報告書の内容が反映される。


 イザベラがある外交官と話したことを書けば、翌週の講義はその外交官の所属する国の政策分析になった。ある書物を読んだと書けば、翌週にはその書物の批判的検討が課された。


 父は報告書を通じて娘の世界を読み取り、翌週にはその形を設計し直した。イザベラが八歳で母を亡くした週にも、提出日は変わらなかった。葬儀で会った人物と交わした言葉を記し、翌朝、いつもと同じ机へ置いた。父も何も言わずに受け取った。


 だからイザベラは、報告書から何かを消すことの意味を知っていた。


 嘘は、父の設計を狂わせる。父の地図に、存在しない道を描く。あるいは、存在する道を消す。三年前から、イザベラはその「消す」ことを繰り返していた。


 セレスティア・フォン・アルヴェインとの会話。


 接触した事実は書く。けれど、セレスティアが笑った理由も、泣いた時にこぼした言葉も、その言葉を聞いて自分がどう感じたかも書かなかった。父へ渡さないものが増えるたび、整然と埋めたはずの報告書に、目に見えない余白が広がっていった。


 ◇


 九歳。学年末の実技試験。


 セレスティアと第一王子ルシアンの対戦。ルシアンが放った巨大な火球を、セレスティアは光の盾で受け止めた。


 盾に亀裂が走った。赤い炎が白い光を食い破ろうとした、その時だった。セレスティアの右手の指先で、光が閃いた。黒。


 まばたき一回分にも満たない。黒い光が白い盾に混じると、盾は急に強度を増し、火球を弾いた。だがイザベラは、砕けた火球ではなくセレスティアの右手を見ていた。


 見間違いではない。父の講義で、禁忌として扱われてきた歴史も、持つ者がどのように排斥されたかも学んでいる。あれは闇の魔力だった。


 セレスティアがこちらを見た。目が合った。


 銀髪の少女の顔は、ほんの一瞬だけ強張った。イザベラが見たことに気づいたのだ。


 審判が試合を止めた。魔力を使い果たして膝をついたルシアンも、セレスティアの右手を見ていた。講堂には「黒い光」という囁きが広がった。イザベラも見た。セレスティアと目が合っても、何も言わなかった。


 ◇


 その夜、イザベラはいつもの時刻に机へ向かい、いつものペンを取った。けれど、一行を書いたところで手が止まった。


 「学年末実技試験にて、セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢の……」


 父の規則とガルニエ家の義務に従うなら、その先を書くべきだった。アルヴェイン公爵家の令嬢が闇の魔力を持つという事実は、政治にも外交にも影響する重大な情報だ。


 父に報告すれば、父はその情報を使う。アルヴェイン家を牽制するために。あるいは、もっと直接的に。セレスティアを、壊すために。


 イザベラは知っていた。父がそういう人間であることを。情報は武器だ。父はそう教えた。武器は使うためにある。使わない武器に価値はない。報告すれば、セレスティアはどうなる。


 禁忌の魔力。王国の法に照らせば、調査対象になる。最悪の場合、幽閉。あるいは魔力の封印。公爵家の令嬢であっても、闇の魔力は例外なく排斥される。父はその情報を、必ず使う。


 一方で、報告しなければ父への裏切りになる。宰相の娘としての義務を放棄し、ガルニエ家の規則を破ることになる。父がそれを知った時を想像して、イザベラは目を閉じた。


 父が知ったときのことを想像した。あの鋭い目。あの低い声。「違う」、たった一言の否定。あの一言を向けられることが、何よりも怖かった。


 ◇


 答えを出せないまま五ヶ月が過ぎた。その間、イザベラは毎週、報告書の末尾に同じ言葉を書き続けた。


 「特記事項はありません」


 もちろん嘘だった。特記事項はあり、それが禁忌の属性に関わる報告すべき重大事項だという認識も変わらない。それでも書かなかった五ヶ月、イザベラは夜ごと寝台で暗い天井を見つめた。母を失ってから一人には広すぎる寝室で、言葉にできない重さだけが胸へ積もっていった。


 「何が正しいのだろう」


 声に出した。初めて。暗闇の中で、自分の声が小さく響いた。


 父は教えてくれた。「正しい答えは一つだ」と。だが、今、正しい答えが分からない。


 父の教えに従うなら、報告すべきだ。国のためにあれ。ガルニエの娘はそうあれ。国益のために情報を隠すことは許されない。だが、セレスティアを壊すことが、本当に「国のため」なのか。


 あの少女は笑う。よく笑う。無邪気に。計算なしに。「みんながしあわせになるの?」と聞いた少女。あの少女を壊すことが、国のためなのか。


 アルヴェイン家を牽制することは、宰相家の利益にはなる。だがそれは「国のため」と同じなのか。家の利益と国の利益は、常に一致するのか。


 父は言う。ガルニエ家が強くあることが、国の安定に繋がると。だがそれは、本当なのか。


 「正しいかどうか、分からない」


 また声に出した。その言葉の重さに、自分で驚いた。


 生まれてから九年間、イザベラは一度も「分からない」と口にしたことがなかった。分からなければ調べ、なお答えが出なければ父に聞く。父は必ず答えを与えた。


 だが今、父に聞けない。


 けれど今回は聞けない。父の答えは「報告しろ」に決まっている。その答えを正しいと思えなくなったこと自体が、父の引いた境界の外へ初めて足を置くことだった。


 ◇


 九歳の冬。実技試験から五ヶ月が過ぎても、イザベラは黙ったままだった。


 答えを探すため、イザベラは図書室にいるセレスティアを訪ねた。偶然を装う必要は、もうなかった。


 黒い光を見たこと。五ヶ月、父に報告しなかったこと。それでも、なぜ黙ったのか分からないこと。


 全てを口にすると、セレスティアは秘密を明かす代わりに一つだけ尋ねた。


 「イザベラさまは、お父様の命令がなかったら、何をしたい?」


 イザベラは、答えられなかった。何をしたいか。その問いに対する答えが、なかった。


 頭の中を探した。記憶を辿った。九年分の記憶。朝五時の起床。一時間の講義。決められた服。決められた本。決められた交友関係。決められた婚約者。全てが父の設計だった。


 その設計の中に、「イザベラが何をしたいか」という変数は存在しなかった。


 「……分からない。考えたことがないわ」


 「じゃあ、今日一つだけ、自分で決めればいいよ」


 セレスティアは何を選べとは言わなかった。味方になれとも、秘密を守れとも言わなかった。それを決めれば、父と同じになるから。


 その距離の取り方が、イザベラには痛かった。そして、ありがたかった。


 「私はまだ、あなたの味方にはなれない。でも、何も考えずにお父様へ情報を渡すだけの目にもなりたくない」


 初めて、沈黙の理由を自分の言葉にした。


 図書室を出る前、父に指定された政治書を棚へ戻した。代わりに目に入ったのは、『冬の星と旅人の方角』という薄い青色の本だった。役には立たない。ガルニエ家の利益にもならない。


 だが表紙の白い鳥を、綺麗だと思った。


 「これを借りるわ」


 誰かに命じられず、本を選んだのは初めてだった。腕の中の薄い本は軽い。それなのに、帰りの廊下で、足が震えていた。


 ◇


 その夜、自分で選んだ青い本を枕元へ置くと、涙が出た。枕へ顔を押しつけ、声を殺しても止まらない。悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、自分でも分からなかった。


 父の教室では、感情に名前をつける方法を教わらない。「感情は弱さだ。論理で考えろ」と言われてきた。けれど、論理は流れ始めた涙を止めてはくれなかった。


 「何をしたいか、分からない」


 その言葉が、自分自身を切り裂いていた。


 九年間生きてきて、一度も自分が何をしたいか考えたことがない。ガルニエの娘としての役目も、宰相の後継となるための課題もある。では、そのどちらでもないイザベラ自身は、どこにいるのだろう。答えの代わりに、涙が枕を濡らした。


 椅子の背に、紺色の外套がかかっていた。今年の誕生日に届いたもの。去年より少し大きい。父の外套。父の温もり。


 それは確かに温かかった。だが、温かいからといって、正しいとは限らない。その区別に気づいたことが、何よりも痛かった。


 ◇


 翌朝。五時に起きた。いつも通り。服を着て、髪を結い、顔を洗い、廊下を歩く。書斎の扉を三回叩く。


 「入れ」


 父の声。いつも通り。椅子に座る。講義が始まる。だが、今朝のイザベラは、昨日までのイザベラとは違っていた。


 同じ椅子に座り、同じ顔で父の言葉を聞いている。それでも、胸の内には昨日までなかった問いが残っていた。


 「正しい答えは一つだ」と父は言う。


 本当だろうか、とイザベラは思った。初めて。


 その疑問を顔には出さなかった。父に気づかれてはならない。気づかれたら、全てが崩れる。だが、疑問は、もう消えなかった。


 報告書の余白に隠した言葉たち。「特記事項はありません」の裏にある真実。そして、「何をしたいか、分からない」という、九年間の空白。全てが、少しずつ、イザベラの中で形を変え始めていた。


 父の教室も、父の声も、黒板に並ぶ課題も変わらない。けれど「正しい答えは一つだ」と書き取った文字の脇に、イザベラは誰にも見えない小さな余白を感じていた。


 そこには、父から与えられる答えではなく、自分で選んだ青い本と、守ると決めた秘密が置かれていた。



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