父の教室
朝の五時、侍女が時計の蓋を開く音で目を覚ます。
それがイザベラ・ド・ガルニエの一日の始まりだった。五歳になって父の教室へ通い始めてから、晴れの日も、熱を出した翌朝も、時刻が変わったことはない。
侍女が用意した服に袖を通す。選ぶ余地はない。今日の服は父が決めている。淡い灰色のワンピースに白いリボン。宰相家令嬢にふさわしい装い。派手すぎず、地味すぎず。目立たないが、品がある。
父の美学だった。
髪を結い、顔を洗い、廊下を歩く。宰相邸の廊下は長い。足音が石の床に響く。イザベラの小さな足音だけが、まだ眠っている屋敷に染み込んでいく。書斎の扉の前で立ち止まる。
三回、扉を叩く。静かに。正確に。
「入れ」
父の声。低い。無駄がない。
◇
ヴィクトール・ド・ガルニエは、すでに書斎の机へ向かっていた。灰色の髪は一筋も乱れず、鋭い目は夜明け前から何枚目になるのか分からない書類を追っている。
父が笑うところを、イザベラはほとんど見たことがなかった。社交の場では口元を和らげることもあるが、あれは喜びではなく、相手の警戒を解くための技術なのだと教えられていた。
「座れ」
イザベラは父の前の椅子に座った。机の上には本が三冊。今日の教材だ。
「昨日の復習から始める。ガルニエ法典第三章第七条を述べよ」
イザベラは暗唱した。一字一句、間違えずに。五歳の少女が法典を暗唱する。異常なことだと気づいたのは、ずっと後のことだった。
「正しい。次……カレンベルク条約の背景を説明しろ」
条約の成立年、締結国、主要条項、その政治的意図。イザベラは淡々と述べた。
父が昨日説明した順番のまま、一つも変えずに。意味を自分の言葉で言い直せと問われたら、きっと答えられなかった。けれど当時のイザベラにとって、覚えることと理解することは同じだった。父の言葉を正確に返すことが、「分かった」という意味だった。
父は頷いた。それだけだった。褒めない。だが否定もしない。正しければ頷く。間違えれば、
「違う」
その一言だけ。怒鳴らない。罰も与えない。ただ「違う」と言う。だがその一言は、どんな叱責よりも重かった。
◇
一時間の講義が終わる。歴史。法律。政治哲学。交渉術。
五歳の子供に教える内容ではなかったが、ヴィクトールは年齢を理由に課題を軽くしなかった。理解できるなら教える。理解できないなら、理解できるまで繰り返させる。それが父の公平さだった。
「感情は弱さだ。論理で考えろ」
父の教えの第一条。
「正しい答えは一つだ。間違えるな」
第二条。
「ガルニエの娘はそうあれ」
第三条。
それが全てだった。イザベラの世界の法則。太陽が東から昇るように、水が高きから低きに流れるように、父の教えは絶対だった。疑ったことはない。疑うという概念すら、まだ知らなかった。
◇
服は父が決めた。読む本は父が選んだ。交友関係は父が管理した。
将来の婚約者すら父が決めた。相手は王太子アレクシス殿下。イザベラの意見は聞かれなかった。聞く必要がないと思われていた。
「お前はガルニエ家の道具だ」
父がそう言ったことはない。一度も。だが、言わなかっただけだ。
全てが父の意志で動いていた。イザベラの一日は父が設計し、父が管理し、父が評価した。成績表のように。報告書のように。イザベラは優秀な成績を収め続けた。
そうすることが、正しいのだと信じていた。
◇
それでも、父を冷たい人だと言い切ることはできなかった。
誕生日の朝には、決まって紺色の外套が椅子の背に掛けられていた。父が直接手渡すことはなく、包み紙も祝いの言葉もない。それでも、生地は雨を弾く上質なものに変わり、銀のボタンは幼い指でも留めやすい位置へ移されていた。
「旦那様は、来年も着られる寸法にと仰せでした」
最初の年、袖を折り返した侍女がそう教えてくれた。父がどこまで選び、どこから仕立屋へ任せたのか、イザベラには分からない。ただ父は、娘が一年後には今より背を伸ばすことを知っていた。
指定された本を一冊読み終えると、父は書類から目を上げずに「よく読んだ」と言った。褒め言葉というには平板で、抱擁の代わりにするにはあまりに短い。それでもイザベラは、その一言を得るために次の本を開いた。
父の教えは息苦しく、外套は温かい。幼いイザベラには、その二つを別々に考えることができなかった。だから正しく答え続けた。そうしていれば、いつか父の視線が書類ではなく、自分へ向くような気がしていた。
◇
六歳の秋。雨の日だった。
王宮教育課程の自由時間は、豪雨のため屋内に切り替わった。イザベラは教育棟の小さな図書室を選んだ。子供向けの本ばかりで、父に指定された本は一冊もない。だからこそ、誰も来ないと思った。
窓際で分厚い本を開いた。読んではいなかった。雨音を聞きながら、読んでいる振りをしていた。扉が開いた。銀色の髪。碧い目。セレスティア・フォン・アルヴェイン。
彼女は絵本を一冊取り、近すぎず遠すぎない椅子に座った。しばらく、二人の間には雨音だけがあった。先に口を開いたのはイザベラだった。
「あなた、魔力暴走の時、先に出たでしょう」
セレスティアは腹痛だったと答えた。
「嘘ね」
出る直前、彼女が魔力炉を見たことを指摘した。普通の五歳児が見る場所ではない。セレスティアは困った顔をしたが、怒らなかった。それどころか、イザベラは何でもできてすごい、と言った。
「できて当然よ。できなければ叱られるもの」
口にしてから、余計なことを言ったと気づいた。
セレスティアは、父に怒られるのかと尋ねた。イザベラは違うと答えた。怒りは感情で、父がしているのは教育だ。服も、読む本も、交友関係も、将来の婚約者も、父が正しく決めてくれる。
そう説明したはずなのに、口から別の言葉がこぼれた。
「あなたは、自分で選べていいわね」
セレスティアが、まっすぐこちらを見た。
「イザベラさまは、えらべないの?」
選ぶ必要などない。宰相の娘として役割を果たせばいい。寂しいかどうかなど、考える意味はない。そう答えるほど、胸の奥に空洞が広がった。
「わたし、イザベラさまとおはなしするの、すき」
その言葉は、父のどの教えにもなかった。
イザベラは、味方にはなれないと告げた。父が許さないから。けれど、この図書室で話したことは、報告しないとも告げた。誰かに命じられたのではない。自分で決めて、自分の口で言った。
◇
その夜、書斎で週間報告書を書いた。
「王宮教育棟にて、アルヴェイン家令嬢と会話」
そこまで書いて、手が止まった。
魔力暴走について問い詰めたこと。父に決められた人生について話したこと。セレスティアが、自分との会話を好きだと言ったこと。全て報告すべきだった。
ペンが動いた。
「特記事項なし」
書き終えた文字の最後で、ペン先がかすかに震えた。命令に背いたわけではない。報告書を破ったわけでもない。ただ、父なら価値を認めたはずの情報を、自分の判断で渡さなかった。
それがイザベラ・ド・ガルニエの、最初の選択だった。
報告書を閉じると、椅子の背の外套が目に入った。今年のものも、袖が指先へかかるほど少し大きい。父は来年の身体の寸法まで決めてくれるのに、その身体の中で何を思うのかは一度も尋ねなかった。
イザベラは袖を一度だけ折り返した。外套の温かさを捨てる必要はない。ただ、あの銀髪の少女に言われて嬉しかったことまで、父へ差し出す必要もない。
六歳の彼女は、まだそれを反逆とは呼ばなかった。自分だけのものを一つ、報告書の余白へ隠したのだと思った。




