十九年後の水路
「リリアさま、危ないです」
追いかけた。
リリア様は笑いながら走った。庭の装飾用水路の縁を歩いていた。縁幅は大人の手のひら程度の石畳だ。子供には十分な幅だが、走るには狭い。
「ひゃーっ」と笑いながら走るリリア様を、わたしは追いかけた。
◇
追いかけながら、気づいた。わたしは今、十九年前のお嬢様と同じ年齢の子供を追いかけている。三歳。
十九年前に水路の底から引き上げた、あの年齢の子供が今、目の前を走っている。少し笑えた。おかしい、という意味ではない。不思議だ、という意味で笑えた。
◇
リリア様は走って、庭の木の根元で止まった。
「つかまえてー」と言った。
「捕まえましたよ」とわたしは言って、抱き上げた。
「ひゃーっ」とまた笑った。
軽かった。三歳はこんなに軽い。十九年前も、こんなに軽い子供を引き上げた。抱き上げながら、遠くでこちらを見ている陛下に気づいた。廊下の窓から見ていた。笑っていた。
◇
「ナターシャ、ありがとう」
陛下が後で言った。
「いつも通りです、陛下」
「いつも通り、ありがとう」と陛下が言った。
◇
夜、一人で庭を歩いた。装飾用水路のそばを通った。
石を組んだ水路だ。屋敷の庭に作られた、装飾のための浅い水路。深さは膝もない。水が流れる音がする。この水路は怖くない。
十九年前の水路は、怖かった。一瞬だけ。その一瞬が今も鮮明に残っている。
水路の端に立って、飛び込む前の一瞬に感じた怖さ。身体が先に動いた瞬間。今、同じ場面があったとしたら、また飛び込む。
怖いかもしれない。一瞬止まるかもしれない。でも飛び込む。それは変わらない。
◇
昼間、王宮情報局長として、陛下の執務室へ一通の報告書を届けた。
『王都魔術学校第一期平民入学生 治癒課程修了』
入学式の日、陛下に駆け寄った、そばかすの少女だった。村に治癒師がいなかったから、自分がなるのだと言った子。
少女は卒業後の領地勤務先に、自分の故郷を選んだ。今月から、村の診療所で治癒師として働いている。報告書には、本人の手紙が添えられていた。
『最初の年、わたしは三回、実習を見ているだけでした。水晶の保証金を払えず、組んでくれる人がいなかったからです。
でも、器具を借りられるようになって、先生が実習の組を決めるようになって、わたしも水晶に触れられました。
昨日、村の子供を一人治療しました。おばあちゃんには間に合わなかったけれど、次の人には間に合いました』陛下は、その最後の一行を二度読んだ。
「間に合ったんだね」
「はい」
ただし、報告書には続きがあった。診療所の治癒師は少女一人。少女が隣村へ往診する日は、故郷の診療所が空になる。薬草の仕入れも不足している。
「嬉しい報告と、次の仕事が同じ紙に書いてあります」
「いつも通りだね」
陛下は笑って、薬草の追加配給と巡回治癒師の配置案を机の左側へ置いた。今日中に処理する書類の場所だった。扉を開く法律ができても、扉の先の道は放っておけば途切れる。
あの少女は、自分の足で一つ目の道を歩き切った。陛下は、その先に二つ目の道を延ばそうとしていた。
◇
十九年間で何を学んだか、考えた。
読み書きを習った。地図を読む方法を習った。暗号を習った。法廷の証拠の管理の仕方を覚えた。王宮での作法を覚えた。蜂蜜の量の決め方を覚えた。陛下の顔を見て「今日は多め」かどうかを判断できるようになった。
色々なことを覚えた。でも、一番大事なことは覚えたことではないかもしれない。
◇
一番大事なことは、最初の日に知っていたことだ。
十二歳の時、水路の縁に立って、お嬢様が水の中にいるのを見た瞬間、身体が動いた。
「助けなければ」という言葉より先に、身体が動いた。
それと同じことを、十九年間ずっとやってきた。
考える前に動く、ということではない。考えながらでも、考えた結果として、「そばにいる」という答えに変わらなかった、ということだ。それが十九年間で学んだことの全てだ、と思う。
◇
翌朝、いつも通り紅茶を淹れた。
王妃付き侍女の実務は、もう若い者へ譲っている。普段なら盆もその侍女へ預ける。けれど、水路の話をした翌朝だけは、自分で持っていくことにした。蜂蜜を足した。
陛下の部屋に持っていった。
「本日の蜂蜜は通常量でよろしいですか」
「通常量で」
「少しだけ多めにしておきます」
「なぜですか」
「今日の顔がそう言っています」
「ナターシャは強情ですね」
「いつも通りです」
◇
陛下が紅茶を受け取って、一口飲んだ。
「おいしい」と言った。
「ありがとうございます」
「毎朝ありがとうございます、ナターシャ」
「いつも通りですから、礼は不要です」
「いつも通りに感謝しています」
◇
庭でリリア様の笑い声が聞こえた。遠くから。誰かと遊んでいるのだろう。
十九年前、水路でお嬢様の声を聞いた時は「たすけて」と「おかあさま」という声だった。今、聞こえる声は笑い声だ。水路は怖くなかった。今も怖くない。
陛下のそばにいる限り、何も怖くない。それが、十九年でわたしが学んだことの、全てだ。




