証人になれなかった日
「自由にしてやる」と言われた。
宰相府の人間が言った言葉だ。
わたしは少しの間、その言葉を考えた。自由。自由とは何か。行き場がある人間にとっての自由と、行き場のない人間にとっての自由は違う。
「お断りします」と答えた。
◇
わたしは十七歳になっていた。
お嬢様は八歳で学園にいた。わたしは学園の外から支援する役目だった。連絡の中継。証拠書類の保管。暗号を使ったやり取りの管理。お嬢様が準備を進める裏で、わたしが裏方として動いていた。
宰相府の人間が接触してきたのは、ある夜のことだった。
一人だった。正式な訪問ではなかった。路地で声をかけてきた。
「アルヴェイン家のナターシャか」
「はい」
「少し話を聞いてくれ。悪い話ではない」
◇
男の話はこうだった。
お嬢様が何かを企んでいることは、宰相府も気づいている。何年もかけて証拠を集めている。いずれ法廷に持ち込もうとしている。
わたしはそれを手伝っている。
だが、わたしは侍女だ。平民だ。アルヴェイン家の令嬢ではない。もしわたしがお嬢様のやっていることを話してくれれば、その報酬として「自由」を保証する。家と仕事と安定した生活を用意する。
「お嬢様を裏切れ、ということですか」
「裏切る、という言い方は好きじゃないな。ただ正直に話してくれるだけでいい」
「それが裏切りです」
男は少し表情を変えた。「よく考えた方がいいぞ。令嬢が失敗したとき、お前は巻き込まれる。家もない、仕事もない侍女が残るだけだ。我々のところに来れば、そうはならない」
◇
わたしは考えた。
家がない。それは本当だ。公爵家以外に行き場はない。
仕事もない。平民の侍女がいきなり別の職を得るのは難しい。
もしお嬢様が失敗したら、わたしはどうなるか。考えたことがないわけではなかった。
怖くなかったか、と言えば嘘になる。怖かった。
だが怖いのと、答えが変わるのは別のことだ。
「お断りします」と言った。
「理由を聞かせてくれるか」
「お嬢様のそばにいる方が、わたしには必要ですから」
「必要? お前がお嬢様に必要なのか、お嬢様がお前に必要なのか」
「両方です」
◇
男は少しの間わたしを見た。それから「分かった」と言って行った。
路地に一人残った。
膝が少し震えていた。声が震えていなかったのは、自分でも驚いた。声は出た。「お断りします」が出た。
怖かった。脅しではあった。曖昧な脅しだったが、それでも怖かった。
でも答えは最初から決まっていた。
◇
なぜ断れたのか、その夜考えた。
自由がいらないわけではない。安定した生活は欲しい。行き場がないことへの不安は常にある。
でも、宰相府の言う「自由」とお嬢様のそばにいることを天秤にかけた時、迷わなかった。
あの日の水路を思い出した。
飛び込む前の一瞬、怖かった。だが身体が先に動いた。
今回も同じだった。「お断りします」が怖さより先に出た。
怖さが消えたわけではない。でも、答えが先に出た。それだけのことだ。
◇
お嬢様には話した。
「宰相府の者が接触してきました」と事実を伝えた。「断りました」と結果を伝えた。
お嬢様がしばらく黙った。
「危なかったですか」
「少し怖かったです」
「断る必要はなかった。従う振りをして情報を持ってくることもできたはずです」
「それはできませんでした」
「なぜですか」
「わたしはお嬢様を欺く振りをするのが苦手です」
お嬢様がまた少し黙った。それから「そうですか」と言った。
「怖かったのに、ありがとう」
「いつも通りです。怖かっただけです」
◇
裁判が近づいた頃、お嬢様が「ナターシャ、証言台に立てますか」と聞いた。
「立てますが、証人としては何が言えるかが難しいです」
「書類の保管と管理をしていた。それだけで十分です」
「それだけでよければ立ちます」
「ありがとうございます」
でも結果的に、わたしが証言台に立つ場面はあまりなかった。証拠の方が雄弁だったから。書類が、暗号が、記録が、全て語った。
わたしの仕事は、それを守ること、届けることだった。
証言台に立つことではなかった。
◇
裁判が終わった夜、お嬢様がわたしに聞いた。
「ナターシャはこれから何がしたいですか」
「そばにいます」とわたしは答えた。
「わたしは王妃になります。そばにいるのは大変ですよ」
「分かっています」
「怖くないですか」
「怖くないわけではありません」とわたしは言った。「でも、怖いのと答えが変わるのは別のことです」
お嬢様が少し笑った。
「水路に飛び込んだ時から、変わっていませんね」
「いつも通りです」




