読み書きを習った夏
「必要だから教える」と言われた。
その言葉が好きだった。
かわいいから、とか、いい子だから、とか、そういう理由ではなかった。必要だから。わたしが必要だから教える。そういう言葉だった。
必要とされたのは、初めてかもしれなかった。少なくとも、はっきりとした言葉で言われたのは初めてだった。
◇
水路の件から、しばらく経った頃だった。
わたしは十三歳になっていた。お嬢様は四歳だった。
ある夜、お嬢様が「ナターシャ、字を読めますか」と聞いた。
「少しは読めますが、書くのは難しいです」と答えた。これは本当のことだった。平民の子は字を習う機会が少ない。わたしも基本的な文字は読めるが、書くのは苦手だった。
「教えます」とお嬢様が言った。
「お嬢様が、わたしに?」
「ナターシャは賢い。読み書きができた方が、後でわたしの役に立てます。必要だから教えます」
◇
四歳に読み書きを習う、というのは少し変な感じがした。
だがお嬢様の教え方は実際に上手かった。
最初は文字の形。次に単語。次に短い文章。毎日少しずつ、繰り返した。間違えても怒らなかった。「もう一度」と言うだけだった。
「これはなんで覚えにくいんですか」と聞いたことがある。
「字の形が似ているからです。わたしもこの二つはよく間違えました」とお嬢様が言った。
「お嬢様も間違えたんですか」
「間違えました。人間はだいたい同じところで間違えます」
◇
夏の終わりには、地図が読めるようになっていた。
お嬢様がそれを意図していたことに、後から気づいた。文字を教えた後で、地図の読み方を教えた。王都の地図。公爵領の地図。主要な街道。抜け道。
「なんで地図まで」と聞いた。
「いつか役に立ちます」とお嬢様が言った。
「いつか、というのはいつですか」
「分かりません。でも役に立ちます」
実際に役に立った。何度も。後で分かった。
その頃のわたしにはまだ分からなかったが。
◇
暗号の書き方を教わったのは、少し後だった。
「暗号まで教えてもらうんですか」と少し驚いた。
「いつか役に立ちます」
「また、いつかですか」
「はい」
役に立った。これも、後で分かった。
◇
お嬢様について、わたしが考えたことがある。
「お嬢様は、未来から来てるんじゃないかと思うことがある」
思うだけで、言わなかった。言っても答えないと分かっていたから。
お嬢様はわたしの質問に答えないことが多かった。答えられない質問というのがあるのだと、だんだん分かってきた。
聞かなかった。それがわたしの選択だった。
◇
蜂蜜の紅茶を最初に淹れたのは、その夏だった。
正確に言うと、ある日の夕方に、普通の紅茶を持っていったら、お嬢様がそれを飲んで少し顔を歪めた。疲れている時の顔だった。
「もう少し甘い方がいいですか」と聞いた。
「少し疲れているだけです」
「蜂蜜を入れましょうか」
「……少しだけ」
次の日から、蜂蜜を入れた紅茶を持っていくようになった。
最初は決まった量を入れていた。小さじ一杯。
だが、お嬢様の顔を見ていると、少し多い方がいい日と、少なくていい日があると気づいた。疲れている日は多めに。元気な日は少なめに。
◇
いつからか、量を聞くようになった。
「本日は通常量でよろしいですか」
「いつも通りで」
「少し多めにしておきます」
「なぜですか」
「今日の顔がそう言っています」
お嬢様が少し笑った。「そうですか」と言った。
「いつも通りで大丈夫です」と言っても、わたしがそうでないと思えばそうしない日もあった。
「ナターシャは強情ですね」とお嬢様が言ったことがある。
「お嬢様の役に立てると思ったことをするだけです」とわたしは答えた。
「必要だから、ということですね」
「そうです」
「わたしが最初に言った言葉を、使っているんですね」
「覚えていましたか」
「覚えています」
◇
その夏の終わりに、お嬢様が「ありがとう、ナターシャ」と言った。
読み書きを教えてくれたことへの礼だったと思う。
「いつも通りです」と答えた。
「でも、わたしにとっては大事なことです」
「なぜですか」
「わたしの言葉を、ナターシャが使ってくれたからです。必要だから、という言葉を」
◇
わたしは「必要だから」という言葉の意味を、その時初めてちゃんと考えた。
必要とされること。必要な人間として扱われること。
これまでの生き方の中で、それがなかったことがある。いてもいなくても同じだった時間がある。邪魔だと思われた時間もある。
お嬢様はわたしを最初から「必要」として扱った。
「必要だから教える」
「ナターシャは賢い」
「いつか役に立てる」
全部、わたしを「必要な人間」として置く言葉だった。
◇
「わたしも、必要です」とわたしは言った。
「どういう意味ですか」
「お嬢様が必要だということが、わたしには必要です。それがあると、仕事に力が入ります」
お嬢様がしばらく黙った。
「そうですか」と言った。「これからも、よろしくお願いします」
「はい。いつも通り」
いつも通り。
その言葉がわたしにとって何を意味するのか、その時よりも少しずつ分かってきた夏だった。




