仕える意味
水路の一件から、一ヶ月が経った。
セレスティア様は完全に元気になっていた。
水路の近くを避けていた。東区画には行かなかった。その代わり、中庭をよく歩いた。
ナターシャがついていった。
◇
ある朝、中庭の隅に石段があった。
正確には、石段ではなかった。
庭師が庭の段差を修繕していた。石を積んでいた。まだ途中だった。
セレスティア様が見ていた。
「石段、できてる」
「工事中ですね」
「すわれる?」
「まだ工事中です。終わったら座れます」
セレスティア様が少し考えた。
「できたら、ここにくる。なた、しゃと」
「来ましょう」
「パン、もってきていい?」
「いいですよ」
◇
その夜、ナターシャは考えた。
三年、この屋敷にいた。
最初は仕事だった。仕事だから来た。仕事だからやった。食べさせてもらえる。寝る場所がある。給金が少し貯まる。送る相手はもういなかったが、貯めていた。それだけだった。
いつから変わったか。
正確には分からなかった。
でも今は、仕事だけではなかった。
◇
「仕える」ということを、最初は義務だと思っていた。
命令されたことをする。決められた仕事をする。それが「仕える」ということだと思っていた。
家政婦長もそう教えてくれた。
「言われたことをきちんとやれ。余計なことは言うな」
その通りにしてきた。
◇
でも、セレスティア様の隣にいることは、命令されたことではなかった。
危ないことをするなら言う、と言った。危なくなければ言わない、と約束した。
水路に飛び込んだのは、命令されたからではなかった。
考えるより先に体が動いた。
「なた、しゃが、いてくれるから、おっけー」という言葉を聞いた時、重いと思った。
重いが、嫌ではなかった。
◇
ヨーナに会いに行った。
ヨーナは今、別の棟の仕事をしていた。あまり話せなかったが、食事の時間に少し話した。
「一つ聞いていいですか」
「なに」
「ヨーナさんは、なんでここで仕事をしているのですか」
ヨーナが少し驚いた顔をした。
「急に哲学的だね」
「急ですが、聞きたくて」
ヨーナが考えた。
「最初は、うちが貧しいから。食べるためだったよ。今は……ここが好きだから」
「ここが好きですか」
「うん。ここで働いている人が好き。マルガレーテさんとか、あなたとか。居心地がいい」
「居心地がいいから仕えている」
「そうかな。仕えている、というより、ここにいる、って感じ」
◇
「セレスティア様のことが好きですか」
また聞いた。
ヨーナが少し考えた。
「変わった子だとは思う。でも——嫌いじゃない。あの子って、ちゃんと見てくれるから。使用人を透明な人間だと思っていない。ちゃんと顔を見てくれる」
「そうですね」
「あなたは好きでしょ、セレスティア様のこと」
「……好きです」
「ならそれでいいじゃない」
◇
その夜、またゆっくり考えた。
「仕える」ということの答えが、一つ出てきた気がした。
命令されるから仕える、のではなかった。
この人を守りたいから、隣にいたいから、仕える。
それだけだった。
難しい答えではなかった。ただ、今まで考えたことがなかった。
◇
翌朝、セレスティア様が起きてきた。
ナターシャが着替えを手伝った。
「なた、しゃ」
「はい」
「きのう、なにかかんがえてた?」
「なぜですか」
「かおが、かんがえてるかおだった」
「顔に出ていましたか」
「うん。なにかんがえてたの」
ナターシャは少し考えた。
「仕えることについて考えていました」
「つかえること?」
「はい。なぜここにいるのか、ということです」
「わかった?」
「少し分かりました」
「おしえて」
「隣にいたいから、ということです」
セレスティア様が少し考えた。
「それだけ?」
「それだけです。難しい理由は、ありませんでした」
◇
セレスティア様が少し微笑んだ。
「よかった」
「何が良かったのですか」
「めんどくさいりゆうじゃなくて、よかった。かんたんなりゆうが、いちばんほんとうだとおもう」
「そうですか」
「うん。わたしも、なた、しゃに、いてほしいから、いてほしいって、おもってる」
◇
着替えが終わった。
中庭に行った。
石段の工事が、昨日より進んでいた。あと少しで完成しそうだった。
セレスティア様が見ていた。
「もうすぐだ」
「そうですね」
「できたら、すわる。パン、もってくる」
「何のパンがいいですか」
「なた、しゃが、えらんで」
「分かりました。甘いパンにします」
「うん。あまいの、すき」
二人で石段を見ていた。
まだ完成していない石段だった。
でも、完成した時に二人でそこに座る、という未来が、ここにあった。
◇
ナターシャは後から気づいた。
仕える、ということの答えは一つではないと思っていた。
でも、自分の答えは決まった。
命令されるから動くのではない。
この人の隣にいたいから、いる。
この人が何かをしようとしている。それを隣で見たい。うまくいってほしい。危なくなったら飛び込む。
それだけだった。
水路の時、考えなかった。
次も、考えないかもしれない。
でも、それでいい、と思った。
考えるより先に体が動く、それが自分の「仕える」だった。




