岸の上で
翌日、セレスティア様は熱を出した。
高い熱だった。
医者が来た。水を飲んだこと、体が冷えたことが原因だと言った。安静にすれば下がると言った。
マルガレーテが付き添った。
ナターシャは外から、廊下から、部屋の様子を聞いていた。
◇
ナターシャ自身も、体が怠かった。
水路の冷たさがまだ体の中にあった。
家政婦長から「今日は軽い仕事だけにしなさい」と言われた。
廊下に座って、毛布を畳んでいた。
頭の中で、あの水路の映像が繰り返された。
水の中の小さな手。
沈んでいった。
あの瞬間のことを、止められなかった。
◇
二日後、熱が少し下がった。
マルガレーテがナターシャを呼んだ。
「会いたがっています」
部屋に入った。
セレスティア様が布団の中にいた。顔が少し赤かった。でも目が開いていた。
ナターシャを見た。
あの目だった。いつもの目だった。
「なた、しゃ」
「はい。少し具合が良くなりましたか」
「うん。なた、しゃは?」
「わたしは大丈夫です」
「ほんとう?」
「本当です」
セレスティア様が布団の中で手を伸ばした。
ナターシャが手を取った。
「ごめんなさい」
小声で言った。
◇
「謝らなくていいです」
「でも、こわかったね、なた、しゃも」
「……こわかったです」
「なきながら、たすけてくれた」
「泣いていました」
「なんで、なきながら、とびこめたの」
ナターシャは少し考えた。
「考える時間がありませんでした。気づいたら飛び込んでいました」
「かんがえないで、とびこんだの」
「そうです」
セレスティア様が少し黙った。
布団の中で、小さな手がナターシャの手をつかんだままだった。
◇
「わたしは、よわい」
セレスティア様が言った。
小さな声だった。熱がある声だった。でもはっきりしていた。
「よわい身体で、いろんなことを、しようとしてる。でも、みずのなかで、どうにもならなかった」
「……」
「しってたけど、みずのなかで、もっとよくわかった。わたしは、たった三さいで、よわい」
ナターシャは何も言えなかった。
◇
三歳の子がそういうことを言う。
普通の三歳ではなかった。
でも、あの水路の中での声を思い出した。
「たすけて」という声だった。「おかあさま」という声だった。
あれは、三歳の声だった。
知識がある。考える力がある。でも体は三歳だ。
水の中でどうにもならなかった、というのは本当のことだった。
◇
「弱くていいと思います」
ナターシャが言った。
「え?」
「全部一人でできる必要はないと思います。わたしがいます。マルガレーテさんがいます。お父様とお母様がいます。できないことがあれば、助けてもらえばいい」
「でも、たのめないことが、ある」
「何を頼めないのですか」
「ひみつだから、いえない。でも、たのめない」
ナターシャは少し考えた。
「隣にいることは、頼めますか」
「……うん」
「じゃあそれだけ頼んでください。何をしているか全部教えなくていいです。ただ隣にいることを、頼んでください」
◇
セレスティア様がナターシャを見た。
「なた、しゃは、どうして、そんなに、いてくれるの」
「仕事ですから」
「しごとだけじゃないでしょ」
ナターシャは少し止まった。
「……仕事だけじゃないです」
「なんで」
「あなたが心配だからです」
「どうして、しんぱい?」
「どうしてかは、分かりません。でも心配です」
セレスティア様が少し目を細めた。
「なた、しゃって、ちゃんとこたえてくれる」
「ちゃんと答えていますか」
「うん。わからないことは、わからないって、いう。でも、いてくれる、っていう」
◇
三日後、熱が下がった。
セレスティア様が起き上がった。
窓の外を見た。
「みず、こわくなった」
「そうですか」
「でも、きっと、また、こわくなくなる」
「そうですね」
「なた、しゃも、いっしょに、こわかった?」
「一緒に怖かったです。今でも少し怖いです」
「わたしも。でも」
「でも?」
「なた、しゃが、いてくれるから、おっけー」
◇
その言葉が、ナターシャの中に残った。
「なた、しゃが、いてくれるから、おっけー」
三歳の言葉だった。
でも軽い言葉ではなかった。
この子が「いてくれるから大丈夫」と言える相手に、自分がなっている。
怖かった、と思った。
水路のことではなかった。
大切なものを任されている、という怖さだった。
◇
その夜、父への手紙を書こうとした。
書けなかった。文字が書けなかった。
代わりに心の中で言った。
「父さん。わたし、ここで大切なことをしていると思います。何をしているか、うまく言えないけど、大切なことをしている気がします」
「怖い日があります。でも逃げたくないです」
「母さんみたいに、いなくなることは、したくないです」
それだけだった。
母のことを思い出したのは、久しぶりだった。
母は熱で死んだ。ナターシャが五歳の時。
いなくなった。
セレスティア様が水路で沈んだ瞬間、その記憶が重なった。気づかなかった。でも今になって分かった。
だから躊躇なく飛び込めたのかもしれなかった。




